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東北神咒奉唱大会(1)梧竹の書 [神道天行居]

615日、仙台青葉神社での東北神咒奉唱大会に参加してきた。

 

「古道」6月号掲載の清雲鴨居正恒先生の文章を紹介させていただいたことが機縁となり、たまたまその翌日手に取った黒江太郎著「窿應の生涯と茂吉」から、書聖中林梧竹が浮かび上がり、さらにその梧竹の書が神道天行居に深く関わることを鴨居先生の「清雲遺」によって知ったのが613日の朝だった。数日前届いた「中林梧竹の書」の冒頭にあった「天照皇太神」の書が、あるいは鴨居先生の御意志によって神道天行居に奉納されることになったかもしれない書であったこと、その写真版が額に入れられて晩年の友清磐山先生の机上に飾られていたということ、このことを知ったことで、わが家とはほとんど背中合わせで私が最初にお世話になった歯医者さんでもある黒江太郎さんと友清磐山先生が中林梧竹を通してつながった。

 

天行居同志が集まる東北神咒奉唱大会の前日、14日の朝、天行居と縁ある「天照皇太神」の書をなんとかみんなに紹介したくて布に染めることを思い立った。忙しい日だったが、息子の手を借りて人数分を作成した。鴨居先生の「清雲遺」のその部分のコピーとともに当日持参した。

天照皇太神 梧竹.jpg

青葉神社に着くとすぐ、この日斎主を務める遠藤さんから名古屋のKさんが紹介された。Kさんは安岡正篤についての造詣が深い方なので南陽市出身の結城豊太郎のことを語ってみたらとのことだった。話しているうちに、持参した「天照皇太神」の書に話題が及び、梧竹の名が出たところでKさんの顔つきが変わった。もとよりKさんは、付け焼き刃の私とは雲泥の差の梧竹理解者であり、「天照皇太神」の書が「名作中の名作」であることを深く認識して居られたのだ。さらに、神道天行居本部神殿の竹の絵が梧竹の書であること、「梧竹の書」の著者でもあり、梧竹研究の当代中心を担われた日野俊顯氏(1929-2010)が天行居同志であったことをKさんのお話から知った。Kさんが梧竹のすごさについて知ったのは、はじめは野口整体の創始者野口晴哉(はるちか)によってであり、もうひとつが友清磐山全集によってだったという。野口はチェロのカザルスの音色を「本物の音」と評価していた人だったが、梧竹の竹の絵からいつの季節の絵であるかを知り、竹のそよぎの音を聞くことができたという。


いま検索して野口晴哉と画家の中川一政の対談の中で梧竹が出てくるのを見つけた。

http://noguchi-haruchika.com/talks_3.html


中川:あのう、お宅の額に梧竹さんの額がありましたね。あれは梧竹さんの中で一番いいんでしょうね。

野口:いいですね、断然。あの人の字を見ると、他の人の字を見る気がしない。

中川:あの人はいいですよ。実に素直で無理がない。

野口:明治の書家であの人だけじゃないですか。

中川:ええ、僕もそう思いますよ。

野口:犬養(毅)さんがわりによかったです。

中川:だけども、犬養さんのほうは、なんか純粋でないようなところがあるんですね。

野口:そう。特に八十を越してからの梧竹さんのはとってもいい。

中川:いいですね。僕も梧竹さんは好きでね。持ってたんです、ええ。あの人はいいですねえ。本当に素直です。

野口:この道場では梧竹さん、絶えたことなしです。どこかに掛かっている。掛かってないということがないです。見事です。あの人は・・・

 戦災の時に家が燃えてきた時に梧竹さんの屏風とレコードと下駄とを持って逃げました。下駄は焼跡を歩くために是非要る。レコードは心を息めるために要る。一番大変だったのは梧竹さんの屏風でした。それでも焼け落ちるまでレコードを聴いていたんです、きっとこれが最後だろうと思って。蓄音器は一人じゃ持ち出せませんし、聴き納めをやって……階段を降りたら途中で崩れてきました。しかしたくさんの軸を焼いてしまって、恐縮しているんです。

 

さらに今回は、仙台支部長のUさんと大先輩同志のOさんから鴨居先生についての貴重なお話を聞くことができた。鴨居先生から出発した縁の広がりはどこまでゆくのだろうか。


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