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「君が代」のさざれ石ーシントロピー [神道天行居]

古道25.12 天地の間は感と応.jpg

月初めに届く神道天行居機関紙「古道」の第一面先師友清歓眞先生の言葉、いつもなぜかタイムリー。先に徳洲会の「再生」に期待したい」という記事を書いた。その中で、エントロピーの対立概念であるシントロピーについて言及した。今月届いた「古道」12月号、「君が代」のさざれ石に事寄せて、まさにエントロピーとシントロピーだった。


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天地の間は感と応

友清歓眞

 古今集に「わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」とあります。さざれ石が集って結んでいはほとなるといふ我国の上代思想は深く考へねばならぬものの一つです。さざれ石がふとっていはほとなるといふ一部学者の説もありますが根拠が弱く、やはり沢山のさざれ石が集り結んでいはほとなるといふ考へ方が言葉の学問の上からも穏当のやうです。民主的といふ意味からも一般に考へ直さねばならぬところかと存ぜられます。沢山なものが集り結んで一つのものに成るといふこと、この思想が美はしく強力に発展して行けば一つの世界、まことの平和世界といふものが瞼に浮んで来ます。

 天地の間は感と応でありますから各自の信念の反応は必ず現はれて参ります。まして霊的方法により祈祷修法の心得のある有縁の人々としては、そこにかくべつな責任の自覚がなければなるまいと思ひます。さざれ石がいはほになるのは一朝一夕のことでなく、何ものにも何ごとにも相当の時節といふものがあります。

 岩が砕けてさざれ石となり土となるといふ考へ方が昔から世界的であった。またそれは或る意味にて正確な見方であったかも知れません。しかし、我国の上代思想はその反対で、さざれ石が結んでいはほとなると信じました。「むすび」の哲学であり、成り成るの原始的信念であります。よし其れは科学的事実に反するとしても、思想として信念としてさうであったといふことが重要な課題だと存じます。

(以下略)

(「冬暖如春」)

 


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