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清雲鴨居正恒先生「神楽」 [神道天行居]

このところちょっとバタバタしていたのだが、そんな中で届いた「古道」6月号に再録された清雲鴨居正恒先生の「神楽」という文章にたまらなく心惹かれて書き写してみたくなった。

鴨居清雲正恒像.jpg
鴨居先生は明治37(1904)年1月5日岡山県浅口郡玉島町にて御生誕、昭和4年11月に石城山に結縁、以来生涯を通して神道天行居に於いて御奉仕され、昭和49(1974)年12月10日、70歳で御帰天。小野浩先生による「故鴨居正恒大人命霊位献詠」の中に

 君こそは同志(まめひと)のなかの同志と 先師(さきつみおや)も洩らしたまひぬ

とあった。すぐれて神道天行居的大人であったことがうかがえる。私はお会いすることは叶わなかったが、そのお名前を聞く度、語られる言葉から鴨居先生のお人柄が伝わってきていたように思う。あらためて手元にあった遺文集「清雲遺蹤」「続清雲遺蹤」を手にとった。
清雲遺蹤.jpg
題字は日野俊顯先生

以下、「古道」平成26年6月号に再録された、昭和33年1月号掲載の文章です。

*   *   *   *   *

神楽


鴨居清雲(正恒)

 

わたくしのやうに五十を過ぎたもののコドモの頃には、毎年太々神楽(だいだいかぐら)といふものが伊勢から廻って来て、それは越中富山の薬屋さんがやって来るのといっしょに、胸をふくらまして待ったものである。「くすりや」さんの方は美しい絵双紙や、凧や風船をくれたものだが、太々神楽の方はなにもくれなかったけれども、そのおどけた舞ひや、ひなびた楽(がく)は、けっこう子供心をたんのふさせてくれたものである。このノスタルジャーは、いつしか老いた私のはらわたを黄金のやうに輝かしいものにするやうだ。


「だいだいかぐら」といひならして居たやうだが、略しては大(太)神楽とも太々ともいひ、旧くは代神楽とも書かれたやうだ。一般の神社で行はれる神楽を里神楽といひ、伊勢神宮で行はれるのを大々神楽といふ由である。今日参宮する人が祈願や報賽などのために内外両宮の神楽殿で奉納することは広く知られて居ることである。諸国を廻って居たのは「もぐり」であり僣称であったのであらう。

 

明治の詩伯、蒼海先生の長古「山中に乞丐(こつがい)が為す所の大神楽の舞を観る」といふのは面白いものだが、山中とは箱根のそれで、偶然この連中にめぐり逢はれたやうだ。「還って今、士は無神を論ずる時、神を説いて独り存す乞の児」と謳って居られるが、明治も今も、インテリに無神論者が多く、大衆に信心家が沢山居ることで、いつの世のおもむきも変らぬものである。乞丐(こじき)とはすこしヒドイが、廟堂に立って居る人から見れば、さういふことになるのであらう。長いので抄出して見ると、「一球未だ降らざるに一球あ(風偏に湯の旁)がる。掌を以て球を承けて球争ひ飛ぶ。つえを将(も)つて球に接すれば球、つえに乗る。扇を挙げて球を招けば球、扇に随ふ。鼻を用(も)つて球を承けて、球、鼻に附く。額に由って球を召(まね)けば額に麗(つ)く。球を以て球に乗せれば球、球に乗る。球又た扇に乗せれば扇、顎(あご)に乗る。扇上ってつえに乗れば球、つえに乗る。耳を以て扇を乗せれば球、離れず」といったところなどは真に自由自在な描写で、私はこれを読んだときに、窮屈な漢詩といふものでも、これほどまでに活用の妙が発揮できるものかと賛嘆したことである。まのあたりに少年の頃のイメージがまざまざと蘇ってくるのを覚えるのである

 

先生はこれにつづけて、「観罷(や)んで小生も亦た銭を出す。乞丐、あくあく(口偏に屋、2回)又いい(口偏に伊、2回)(お追従笑いで礼を言ったのであらう)。衣襟爽然として涼初めて満つ。日暮れて山を下るも応(まさ)に未だ遅からざるべし」と結んで居られるが、悠然として物にこだわらぬ風格がうかがはれて何ともいへぬ味はひがある。

 

太々神楽のほかに越後獅子といふのが時々廻って来たが、これは小童(こども)で、小さい獅子頭を戴き、軽衫(かるさん)のやうな袴をつけ、胸に小太鼓をかけて打ち囃し、身を反らせたり、逆立ちして手で歩いて見せたりしたものだが、角兵衛獅子ともいったやうだ。越後の国、西蒲原郡月潟地方から出て居り、獅子頭は角兵衛という名工が作り始めたので名に負うたものだ、とは後で知ったことである。かんばらじしともいふさうだが、これらは今どうして居ることやら、人工衛星と同じで、どこを廻って居るのではあらうが、とんとお目にかからないのは淋しいことである。かういうものをかへりみる心のゆとりといふものが人間になくなったせであらうか。この頃はちひさな子供が家出をしたり、自殺したりするものまで出てくるやうだが、世の中に正しい意味の「笑ひ」がなくなり「楽しみ」がなくなったことは確かのやうである。

 

田舎廻りの「だいかぐら」や「かくべゑ」は、もちろん卑しいものの携はるものとされて居たのであらうが、本格の神楽といふことになれば、又た特別のものであらう。今日、宮中に伝はる雅楽は、決して神代直流のものではないことは、その装束や伎楽面などを見ても諾づけることで、西蔵(チベット)や安南あたりから出て、シナやコマなどを通って来たものであらうとは誰しも疑はぬところであらう。ところが今日では完全に日本化して、よくもこれだけの芸術を千年の後まで保存したものと、来日する一流の西洋音楽家に舌を捲かして居るやうである。丁度仏教や儒教がその発祥の風土では頽廃に帰しつつあるのに、わが日本に正脉が保存されて居るのに通ずるものがある。わが国はすべてのものを摂取し陶冶してヨリ立派なものに大成するといふ不思議な霊化作用を有するが、それは日本が神の宗国であり、神国の中の神国であるからのことである。


雅楽も一時衰滅に瀕したが、正親町天皇の頃に復活せしめられたので、この時、京都の楽所に属する者、奈良の春日神社等に奉仕する者、大阪の四天王寺に奉仕する者、これを三方楽人と呼ぶが、すべて召集されて朝廷に於いて統一組成され漸く隆運に赴くやうになったのである。のちに徳川家康が天下の権を握るやうになって、この三方楽人を京都の楽所と江戸城内の紅葉山とに分置するやうなことをして、明治維新に及んだのであるが、王政復古して両所の楽人は合併され、多少制度の変遷があって今日宮内庁楽部の構成となって居るわけである。楽師に帰化出身の家柄が多いのは、雅楽の出自を物語るものであるが、神武天皇の御子、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の後裔である多(おほの)氏の如きもあって、神代直流の神楽が絶えざること縷(いと)のやうに宮中に秘伝されて居ることも疑ひを容れないところである。現に宮中と伊勢の皇大神宮とだけに行はれて居る「御神楽」は神さびたりとも神さびたるもので、賢所御神楽は十二月中旬に行はるる趣であるが、夜を徹して厳かに執り行はれるさまは、想ふだに身の引締まる心地がする。伊勢神宮では神嘗祭の当夜となって居る由であるが、宮中・神宮とも臨時に行はるることもあり、御一世ただ一度の御神楽もあることにて、楽師の中には折角の秘伎も奉仕の機会を得ないことすらあるわけで、すべて門外漢の窺ふことを許さぬのである。


神楽は又た神遊ともいふが、「かぐら」の語源については定説はない。神座遊(かみくらあそび)の略語で、「かみくら」が音便で「かむくら」となり、「む」が省かれて「かぐら」となったといふ説が普通のようである。神遊びの別称からいっても神々をうらがましまつり人も亦ゑらゑら賑ふ神人和楽の陶酔の境地をいふのであらう。神楽の起源は、天照大御神が天の岩戸にお隠れ遊ばされた時、岩戸の前に於て天受売神が神がかりせられてもひもをほとに押し垂れて、槽覆(うけふせ)て踏みとどろかし、歌ひつ舞ひつせられたのがはじまりであるとされて居る。八百万神が笑ひどよもされて、この笑ひの音霊(おとたま)によって天の岩戸は開かれたとは先師の御説である。「岩戸神楽の昔より女ならでは夜の明けぬ国」と言ひ伝へて居るのはこのことで、日本は元来女権尊重の国らしいから、この頃女性の鼻の高くなったのは、さしづめ逆コースといふところ。


げに「かぐら」ほど人の心を和らげるものはないので、このとき神とひとしき状態になり、「神の座(くら)」につくのであらう。神人合一の境地である。孔子さまは斉の国に行ったとき、韶(しょう)という楽曲を聞いて、恍惚として三ヶ月もの間、肉食に対する味覚を失ったと伝へられて居るが、凡人の私でも共感されないことではない。音楽が最高芸術として尊ばれるわけであり、如何なる宗教も音楽の要素を含まぬものはないやうで、人心と微妙甚深の関係を持つものといはねばならぬ。


神々がこの宇宙をつくられたのは、この神遊びの世界を成就しようとして居られるので、「あはれ、あなおもしろ、あなたのし、あなさやけ、をけ」「あはれ」は、“天晴れ”天が晴れて光差すこと。「あな、おもしろ」は、「あな」は感嘆、「おもしろ」=アマテラスの光で面()が白く輝くこと。「あな、たのし」は、“手伸し”喜び手が伸びること。「あな、さやけ」は、草木も一緒に喜び踊ること。「をけ」も、草木が風になびき揺れることhttps://www.facebook.com/kaminghimuka/posts/189389144556754といふのが古神道の理想であるが、このことは東西いづれの宗教もうべなふところであろう。かかる神遊びの世界を出現させるためには、戦争などといふものが要件となるべき筋のものでない。天の岩戸開きには、御鏡や御勾玉や青和幣(あおにぎて)・白和幣などが懸けられたけれども、御剣の懸けられなかったことを深思しなければならない。更らに手力男神の手力によって岩戸は正に開かれたことも忘れてはならないのである。日本には原水爆なくミサイルなく人工衛星もないけれども、何の怖るるところもないわけである。


先師は、あと二十分間で世の終りが来るとして、なにがしの少年聖者が「この球遊びをつづけるさ」と答へたのをよしとされ、「必ず神から救はれるといふ確信のあるもの、否な、つねに救はれてるといふ明白な自覚のある人なら、かくあるべきでありませう。球遊びをやっている少年は、球遊びをつづけるまでであります。それぞれの立場に於いて、平然として、つとむべきをつとむるまでであります」とさとされた。私共はただただ「ますみのむすびのかみあそび」の神髄に徹したいばかりである。(古道昭和331月号)


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