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追悼 熊野秀彦先生(2) 「先師友清歓真先生を偲び奉りて」 [神道天行居]

熊野先生書簡 s60422.jpg

いま私の手元には、直接間接いただいた熊野先生の数多くの御文章、書簡、葉書、それに語られたテープ等が残る。私にしてこれだけあるのだから、いったい、どれだけの文章、言葉を残されたことか。書かれたものはすべて毛筆である。いずれも読む度に心躍り、聴く度に新鮮である。

 

修斎会で先師友清歓真先生について語られ、それが活字になったものがあった。いつどのようにして手に入ったかは定かではない。熊野先生が先師を偲んで語られたものだが、私には熊野先生を偲ぶ格好の文章だった。何回もコピーを重ねた印刷で、OCRでの読取、整理も時間がかかったが、熊野先生を間近に感じながらの、ありがたくまたうれしい作業だった。テープから起こしたそのままのものではなく、熊野先生の手が入った文章と思う。


(昭和60年3月に初めての修斎会に参加したあと、当時修道部長としてお世話いただいた熊野先生からのお手紙です。「九龍屋用箋」とある上質の和紙に、菅原道真公の漢詩と和歌が添えられています。


  秋月不知有古今 一條光色五更深 欲談二十餘年事 珍重當初傾蓋心

  君が住む宿の梢をゆくゆくと隠るるまでもかへり見しはや    菅 丞相 )


   *   *   *   *   *


先師友清歓真先生を偲び奉りて(五月修斎会講話) 熊野秀彦


 私は学生時代に同志となり友清先生ご帰天の昭和二十七年まで約十年間、直接先師のご尊容を眼の当りにしてまいりました。自宅がお山と防府の凰鳳寮との中間の下松にある関係で、比較的たびたびご面晤の機会を与えられ、今考えてみますと先生には大変ご迷惑であったと存じますが、いつも機嫌よくご応接を頂きました。私共が参上致しましても、先師の前では正直なところ泰山の麓を這い回る蟻のような実感であり、いつも先生の方からぐっと次元を下げてお話を合せられる状態でありました。本日は先生のお祭がめでたく斎行されましたが、その夜にこうしたお話ができることはまことに光栄に存じて居ります。今晩隠現は現界に居られた当時の先師との交渉の中で、許される範囲内でお話申し上げ、数ならぬ私事でまことに恐縮ですが皆様のご参考に供したいと存じます。お話の順序として止むを得ず私事を語る僭越をお許し願います。

 私は本籍地はこの石城神山の背後地になります熊毛町ですが、父が広島師団に居りましたとき広島市で生れました。私が生れたときは祖父は既に早く世を去って居りましたが、その祖父は熊野松右衛門と申しまして当時十九か二十才位いと思われますが、石城山の第二奇兵隊に参加し、一夜歩哨に立って夜番をしている折から、提灯か焚火かの火で火事を出し、小さなお社を焼いてその責任を追求されて腹を切るということになりましたが、年が若いのを哀れんで特に口を利く人があり、九死に一生を得た人物であります。祖父は晩年に生れた一人息子の父に対して酒を呑むたびにそのとき腹を切っていたらお前はこの世に生れておらなんだと話していたそうであります。私もその話を父から聞かされていましたので、石城山(この地方ではいわきさんと云います。)の存在は当時から耳にしていたわけであります。父の勤務地の関係で私は九州の門司で生長致しましたので、子供のころ山口の郷里のいわきさんには、木の切り株に弾を打ち込んだり斬りつけたりした奇兵隊陣屋の跡が今でも残っているという父の話を好奇心で聞いた程度でありました。

 その後、学生時代の昭和十七年の秋に本郷の赤門前の古書店で、『古神道秘説』を入手致しました。立派なクロス装訂で巻末に『異境備忘録』がある昭和三年の発刊のもので、その奥付に周防国田布施局区内石城山とあり、石城山とは父から聞かされていた「いわきさん」ではないかとハッとした覚えがあります。

 その当時、神道関係の書籍を渉猟しておりまして筧さんの『神ながらの道』を宝物のように大事にして、幾度読み返しても活ける実神が出て来られないので、失望していた矢先きでしたからそれこそ貪るように読みました。一方本部に手紙を出してつぎつぎと出版物を送って頂いたのであります。翌十八年の夏休みに修斎会にはじめて参加したのが、石城山結縁の最初であります。その後休暇毎に、時には学校をサボッて夢中で修斎会に参加させて頂きましたがその頃門司から下松へ両親も疎開して来ますし、お山にも宮市にも近くなったものですからしばしぱ参拝を重ねていた次第であります。

 当時の修斎会は一週間でしたが、先師は絶えず霊的に修斎会を指導して居られた様に存じます。お山に赴任された某先生が参山と同時に本部神殿にご家庭のことをご祈願されますと、誰にも語っていない秘事について翌日宮市からお電話で、祈願のことについては心配はいらぬからと、具体的なご教示があったりしたことを、修斎会中にその先生から承ったことを記憶しております。当時は若うございましたし、一生懸命やっておりましたので、ときには夢中脱魂を経験することもあり、得意になって無知の悲しさから人にも話していましたが、ある修斎会のとき、例のごとくふらふらと極めて現界的な低次元の世界を彷徨していますと突然背後から両肩をぐっと掴まれて、ぐいと更らに霊的な世界に押し込まれました。

 その界はつつじの花盛りの小丘で、行けども行けども羊腸として尽きない庭園風の細道を、七彩のつつじが満山咲き乱れ荘厳を極めた一種の仙界とも申せる処でありました。そのとき肩を掴まれた方が、友清先生であることはその瞬間に分りましたが、当時の頻繁な脱魂現象も実は先師が常に背後にあって世話を焼かれておられたので、決して自分の霊力でも何でも無かったのであります。今は故人ですが当時東京支部長をやって居られました須長清先生からこれに似たお話を承ったことがあります。須長先生は石城山開山前の天行居の門人であります。当時、先師が日時を定めて遠隔送霊法を行って居られたころのこと、友清先生のご指示のあった時間には、須長先生の自宅の大前にあった目覚し時計が躍り上がったということであります。修法の内容は詳しく承っておりませんが、実に如実の現象であった様であります。その須長老人が石城山開山後、ある日自宅で神法衣を着用し修法刀を拝用して修法の後、常になく心気澄明を覚ゆる折から、窓の外に浮ぶ雲を伺気なく修法刀を抜いて斬ってみたのであります。すると窓外遥かの大空に浮ぶ白雲が、次第に縦に真二つに分れて行ったそうであります、そこでぞ半信半疑ながら今度は横一文字に切ると再び次第に雲は横に切れて行ったのであります。須長老人は自分も空ゆく雲を切れるようになったかと、大いに心中悦ぱれたそうですか、その 頃で近所にかねておつき合いの方が居られ、どうしても神秘的なことを信ぜず神様の実在も肯定しないので日頃から、残念に思っていたのですが、この現実を見せたならぱいかなる男でも納得すると考えられて、直ちにその人を迎えられ再び修法の準備をされておもむろに雲斬りをやられたそうですが、どうしたことか今度は一向に切れないので、これではならじと心気を鎮めさらに幾度も必死に修法されたのですが、遂に雲斬りの実演は失敗に犯終ったのであります。 

 それ以来その友人に対して大変苦しい立場に立たされたというご体験を、戦争も末期の昭和十八年の年末、ご自宅で話された須長先生の面影を昨日のように思い出される次第であります。そのときのお話の結論は、結局これは友清先生が眷族を使って示現された霊異現象であり、自分の霊力で切れたのでも何でも無かった、人に見せようとした自分の慢心を神様が戒められたのだということでありました。

 須長先生で思い出しますのは、十八年頃から先師が内々で道士の人々に東京は焼野原となる覚悟をせよと申されて居られたので、須長先生ご夫棄も老令のことでもあり、疎開されてはどうかど私もおすすめしたことがありましたが、須長老人は私のところは大丈夫です隣まで焼けて来ても私のところは残りますと云って居られ、奥さんもすすめても駄目ですよと申しておられました。頂度夏休みで郷里に帰りますので東京支部に挨拶にまいりましたら、須長老人が疎開の必要があるかどうか友清先生にお尋ねしてくれと申されたので、帰郷して宮市をお尋ねした折にその事を先師にお話し申し上げますと、一寸と瞑目されてすぐ「あの辺は木っ葉ですな」と一言申されました。私は上京の折そのことを老人に話しますと、今までの強腰も勿ち砕けて一も二もなく疎開することにされた次第であります。事実二十年の春にはあの辺は一望の焦土と化していたのであります。また嘗って須長先生が宮市を訪問され、先師に対座して種々お話を伺ううちに、ご自分に出されたお茶碗が左右に躍るように動き出し、暫く霊動して止まらなかったそうであります。そのときはそのまま退出して東京に帰ってから、その折の状況を手紙で先師に報告致しますと「君の鎮魂も相当のものなり」とのお葉書を頂かれたそうであります。

 実は私も類似の経験があります。宮市で対座される先師のお茶碗は全く静止して微動だにしないのに、私の茶碗だけがカチカチと音を立てて動いており、周期的に三回四回と動きやまず、始めは何かの間違いだろうと思っていましたが霊動が続くうちに須長老のお話を思い出し、ことさら先生のお顔を拝しますと、全く意に介せず知らぬ顔にてお話をされながら悠々と団扇を使って居られました。そのうち霊動も消滅致しましたが、あとで先生が座を立たれた隙に茶卓の霊動によるものかと手で卓上をたたいたりゆすってみたり、茶碗を動かしてみたりしましたが全く関係がありません。これはずっと後年反省してみて気が付いたのですが、要するにこれほど明かな霊的現象を披見せしめられながら、自らの鎮魂不足から霊的感覚がにぶく、先師の思いやりにより看見せしめられた現象をそのまま正当受容出来ず、徒らに疑議してその真に迫ることが出来なかったものであります。これは明かに友清先生のテストに不合格であったと云うべきであります。

 さきの須長老人は美事に合格されたものと拝察申し上げて居ります。恐らく旧参の道士の中でこうしたご体験をひそかに秘めておられる方が多いのではないかと存じます。

 そろそろ時節も切迫している昨今、我々後進にお示し頂いて修道精神の策励の種とさせて頂きたいと切望するものであります。

 先師は同志の方々の霊的状態を折々ノックしてみるということを『玄扈雑記』にお書きになっておられますがこ同志の個人的な霊的生活について実によく知っておられました。

 終戦当時お山に奉仕して居られこれも故人になられた高橋先生というお方が、宮市に行かれての帰途私の宅に立ち寄られたことがあります。その折高橋さんが申されるには今日友清先生から修法についてのお話を承った中で、たとえば下松の熊野のように短時間に集中しながら回を重ねるという方法もあると申しておられたが、どんなやりかたをしているのかとの事でした。当時私は三十分位い修法して二十分休み又三十分修法するという風に、波状的にかなり集中して修法しておりました。併しこれらの事は家人も知らぬ云わぱ吾がウチツシマのヒメコトでしたが、先師がそうしたことをご存知なのには今更らながら驚いた次第であります。

 昭和十九年の秋、私は頂度その年の九月に獣医専を卒業し、学友達は直ちに各所属管区の部隊に入隊する中で、不思議と三ケ月ほど自宅でのんびりした時期がありました。

 そんな或日、私は母と共に熊毛郡の勝間村に參りまして私共の旧宅の付近の柿の木から渋ぶ柿をとり、その日の午後渋ぶぬきをして翌日宮市に持参したことがあります。予て歯が悪いので先師が醂(ほ)し柿しか喰べぬと申されて居られたのを聞いていましたのでお届けしたのでありました。

 暫く世間話をして失礼致しましたが、当時は列車は.ローカルは七、八本しかない時代でしたから、夕刻になって帰宅政しますと、ガラリと開けた玄関の敷台の上に、友清先生のお葉書がキチンとこちらにむけて置いてあるではありませんか、手にとってみますと秋色豊かな柿を有かたく存候と一筆に書いてあり、柿のところは先師独得の霊妙な筆致で柿の実の画が書いてあります。日付を見ますと前日の午前となっていました。頂度母と二人で柿を椀ぐ頃に全く予告もしておりませんでしたにも拘らず、早くもお礼状を投函されていたのであります。しかも配達人が恐らくポイと放り込んだ葉書が、ピタリと敷台の中央にこちらを向いて鎮座し、私が帰宅して玄関を開けるとパッと眼にとぴ込んでくるとは、全く先生の実にうまみのある神通であります。それまで母は息子の尊敬措かざる先生だから、自分も尊敬するという程度でしたが、この一事で友清先生を信仰するようになったのであります。

 軈て私は二十年一月十日に広島の西部十部隊に入営することになりましたので、十九年の十二月宮市に最後のご挨挨に参りました。最初は貴方は獣医部だらかそれほど危険はないでしょうと仰せられておられましたが、一寸上をむかれて瞑目されひとり肯かれて、奥からお守をもって来られ賜りました。後年このお守りは水位先生伝の神秘なお守であることを知りましたが私はこのお守により広島で原爆により確実に死すべき命を救われたのであります。その日辞去するとき業々ご夫妻で玄関までお送りを頂き「まあそのうちに早くかえって百姓をせいということになりますよ」と事もなげに申されたのであります。

 私は獣医師ですから広島の馬部隊に入隊しましたが、初年兵教育の初期に東京の陸軍獣医学校に入校し、卒業して隊付になったのが二十年の八月一日付でありました。ところが任官するために必要な履歴書に、獣医師の免許番号を記入しなくてはなりません。

 私の部隊に陸獣に一緒に入った候補生が七名いたのですが、それぞれ広島市内の野砲や重機のある馬部隊に別れ別れに配属され、即日見習士官になったのですが、私だけは免許証の認可番号がまだ農林省から通達が来ていないので見習士官になれぬこととなりました。これは獣医専を卒業と同時に各市町村役場を通じて卒業証明証と一緒に農林大臣に申請をすれば、有資格者である卒業生には自動的に取得できるのですが、私の分だけは戦災にでも申請書がかかったのか、遂に到着しなかったのであります。

 このため現在の私の獣医師免許証は、戦後一年たった二十一年十一月交付になっております。私の部隊長は大変同惰してくれまして、直ちに兵科の幹部候補生隊に編入してくれましたので、私は唯一人交付された銃を担いで、当時幹候隊が疎開して訓練を受けていました広島市街地から八キロぱかり離れた山中の営舎に移動したのであります。

 まもなく運命の原爆の日がやってまいり陸獣同期の六名のほとんどが、所属部隊で死亡するという惨事となりましたが、私の原隊は頂度爆心地で、一、七〇〇名の部隊全員が被爆し、四○○名が生き残っていましたが次第に原爆症で死亡して行き、十二月に私が復員するときは五〇名しか生きていないという状態でありました。私は免許証が来なかったばかりに死すべき命をながらえたのであります。その前後の霊的現象についてはお話をすると長くなりますので、このお話のしめくくりとして次の事実だけをご報告しておきたいと存じます。それは当時既に宮市の考運悶(「心」でなくて「必」)暦を頂いていましたが、陸軍獣医学校から帰隊して同じ兵舎に帰隊していた他の連中が見習士官となり、私は彼等に慰められながら、ただひとり銃剣の交付を受けた日が数霊七五であり、山の中の幹候隊に重い足どりで入った日が十二と各れも悶暦中最良の数霊の日であったことであります。憧れの見習士官になれず、大いに悲憤慷慨すべき断腸の暗い日々が、連日実に運気のよい吉日が続いているのでありました。

 悶暦に「吉日に凶事おこるとも結局憂うるに足らざるの微意を暗示す」と示された通りであることを、命がけの体験で味得した次第であます。と同時に、お別れの折先師の賜りしお守のご霊威を泌み泌みと痛感して感涙にむせんだ次第であります。

 ご帰天後の友清先生との霊的交渉についでは、皆様も種々ご体験のことと拝察致します。私はこの機会に次のことを申し上げておきたいと存じます。

 皆様の石城山への道は、所縁の神様やご先祖様方の格別のご啓導によることは勿論でありますが、何と申しましても石城山登高の修行生活には何よりもまして友清気玉彦大人命のご啓導が大切であります。それは恰も神仙道における師仙と弟子の関係であり、まことにむすびも深き霊緑によるお導きであるという事実であります。霊的世界は感と応の世界であります。こうしたお導きに対して石城山登高の求道者たる私共から、直接の師仙である友清先生にご啓導を祈念する必要性について大機切迫の折からこの際格別な意味において強調申し上げたいのであります。

 特に近年、宮市より先師のご分霊が全国的に奉斎されていますが’神分ちの大機進行の今日、愈々具体的な先師のご啓導が冥々の間に活発となりつつあり、格別のご霊威が期せらるる次第であります。

随分私事を語りましたがお許し願います。

       以上 

(未完)


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