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100分de名著「善の研究 西田幾多郎」(若松英輔) [思想]

善の研究.jpg100分de名著「善の研究  西田幾多郎」を読んだ。「大空に聳えて見ゆる高嶺にも登れば登る道はありけり」という明治天皇御製を思った。井筒俊彦という巨峰を「親しい人」にしてくれた若松英輔氏、今度は、雲の上の西田幾多郎という存在を「身近かな人」にしてくれた。

《「純粋経験」と「直接経験」は同義であり、それは「自己の意識状態を直下(じか)に経験」することである、とも述べています。「直下」 とはカ強い表現ですが、「自己を垂直的に深める」というほどの意味です。/こうした言葉遣いが現代の読者を悩ませてきました。しかし、別の見方をすれば、「経験」や「実在」といった、いくつかの重要な鍵となる言葉を改めて定義し直す手間を惜しまなければ、西田の本からは不思議なくらい「難解さ」という覆いが剥がれ落ちるのです。》(84p)自分をじっくり省みる気持ちがあれば、「知識」なんて必要ない。いや、むしろ邪魔になる。《現代に生きる私たちは、「自分とは何か」を知ろうとするとき、 多くの情報を集めようとしがちです。/しかし、 こうした道は、西田のいう「垂直的に深める」 ことではなく「水平的」に拡散していくことです。 西田は、さまざまな書籍や情報を水平に集めて自分に「ついて」知ろうとするのではなく、 自分「を」垂直的に深く見つめる道を読者の前に開こうとしているのです。》(84-85p)

その思索の成果が的を得たものであればあるほど多くの人を惹きつけ、その解釈講釈も山を成す。その思索そのものに触れる前に、解釈講釈の山に怖気づき、その思索そのものは遥か高みの雲の上で見えなくなる。若松は言う。《西田のいう「経験」は私たちを量的な世界から質的な世界へと導きます。「多い/少ない」の世界から「ただ一つ」の世界へと誘うのです。/「純粋経験」とは、どこまでも対象「を」深く見つめ、直接的に認識することです。このことを考えるときは「直接経験」という言葉の方がよいかもしれません。ある対象に「ついて」、なるべく多くのことを知ろうとするとき、私たちは「直接」ではなく、「間接」的に世界と交わろうとしているのです。このことは対象を「愛する人」に置き換えてみるとよく分かります。その人に「ついて」知ることは、 必ずしもその人の「本質」にふれることにはなりません。むしろその人のことに「ついて」知ろうとすることは、相手に不信感を抱かせることにもなります。》(85p)

昨日、『近衛上奏文と皇道派ー告発 コミンテルンの戦争責任』(山口富永)のコメント欄に、《亀さんブログで取り上げていただきました。
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1727.html
三島由紀夫についての諸評価を知ることができました。『英霊の声』は神道天行居と関わります。「生きる事実」と「書かれたもの」の異和を感じていました。昭和天皇も今東光師もそれを三島に感じておられたのではないかと思いました。三島の最期は、その辻褄合わせのような気がしています。》と書きつつ西田幾多郎を思ったのだが、三島由紀夫が「芸人」のように思えてしまった。哲学者と文学者の違いかと思ったが、必ずしもそうではない。若松英輔氏が三島由紀夫に惹かれることはない。井筒俊彦にしても、西田幾多郎にしても、「自己を垂直的に深める」ことが第一義であった。三島はといえば、ひたすら「知識の海」を泳いでいたように見えてしまう。

天童市立美術館に行ったのがきっかけで熊谷守一に関心が向いて、『へたも絵のうち』を読んでいる。その中の《絵を描くのに場合によって/初めから自分にも何を描くのかわからないのが自分にも新しい/描くことによって自分にないものが出てくるのがおもしろい》という守一の言葉をうれしく読んだ。小林秀雄も守一と同じようなことを言っていた。若松英輔氏に熊谷守一の絵を評してもらいたいと、ふと思った。6ヶ月の孫に守一の絵からなる、子どものための絵本『はじまるよ』を送ったら、大きく描かれた丸を叩く動画が送られてきた。「もっとどんな反応をするかよく見てて」と娘に言ってある。「純粋経験」への導きを「童心」に求めて。 



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