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北野達著『古事記神話研究—天皇家の由来と神話—』(2)「はじめに」を読む(前) [『古事記神話研究』]

北野(「宮司」と言うのが私には自然ですが「北野」あるいは「著者」で書き進めることにします)が語るところによれば、5年ぐらい前に一冊の本に仕上げるための視座が固まったらしい。この著に所収なったそれ以前の論文はすべてその視座から書き直されたという。本居宣長、平田篤胤、柳田国男、折口信夫、小林秀雄、吉本隆明、それぞれの思想の根幹に触れた議論が展開される「はじめに」は、著者の基本的姿勢の表明として読める。とはいえ、その理解は一筋縄では行かない。なんとか私なりに整理してみたい。


結論は《筆者は、小林(秀雄)の立場に立って『古事記伝』をよむことができることになる。本書は、宣長をよみ、その導きによって『古事記』が語りかけているところを読み取ってきた成果である。》ということだ。図式にすれば、「北野達←小林秀雄←本居宣長←古事記」の流れで本書は成立した。

 

ではまず、「小林の立場」に立った宣長『古事記伝』の読み方とはどのようなものか。


《小林の「伝統」は宣長の「神の道」に、「伝統というものが、実際に僕等に働いている力の分析が、僕等の能力を超えている」は「すべて神の御所為(ミシワザ)にして、いともいとも妙(タへ)に奇(クス)しく、霊(アヤ)しき物にしあれば、さらに人のかぎりある智(サト)りもては、測りがたきわざなるを」に対置することが可能であろう。》


宣長の「神の道」に対置される、小林にとっての「伝統」とは、北野によって、吉本隆明を経由しつつ「人間存在のリアリティ」と言い換えられている。(小林の《社会的伝統というものは奇怪なものだ。これがないところに文学的リアリティというものもまた考えられないとは一層奇怪なことである。伝統主義がいいか悪いか問題ではない。伝統というものが、実際に僕等に働いている力の分析が、僕等の能力を超えている事が、言いたいのだ》との言葉による。)実は「北野達←吉本隆明←小林秀雄」の流れがあったのだ。


吉本の『共同幻想論』が出たのが昭和431968)年12月。私はと言えば、吉本へと導引してくれた小林一喜著『吉本隆明論』(田畑書店 1968)を読んで間もない頃だった。時代にとってひとつの事件だったのだろう。読んでどこまで理解できたかはともかく、購入した時の記憶まではっきり残る。私の大学もストライキに入っていた時だ。当時の北野は高校一年生。北野はそこで「紛争(闘争?)」を経験している。ちょうど大井魁校長の時代と重なる。代々宮司の家柄であり父が折口信夫の弟子であったことからして当然のように国学院大学に進んだ北野にとって、周辺環境からしても『共同幻想論』はごく親しいものであったろう。北野は言う。


《 吉本は、天皇制国家に代表される共同幻想を解体しようとして『共同幻想論』を書いたことは疑いがない。しかし、吉本は、その解体という思考の中で著しい困難に直面した。吉本は、江藤淳との対話の中で、

  ……ほんとうの反秩序というのは、秩序があるが故に存在しうるというようなものではなくて、

   秩序と、絶対的に、つまり精神的にも存在的にも衝突してしまうものです。言いかえれば、

   自分が自分自身の生に対して衝突してしまうということですね。

と述べている。共同幻想の解体、すなわち、究極的な反秩序は、生半可な反体制などという行動とは本質的な相違がある。それは、「秩序と、絶対的に、つまり精神的にも存在的にも衝突」し、それ故、「自分自身の生に対して衝突してしまう」ものであることを、吉本は見通してしまったのだ。》

 

私にとっての吉本隆明は、『自立の思想的拠点』がアルファでありオメガであった。しかし、いかにして「個」でありうるか・・・と言いつつ、「関係の絶対性」自分でどう思ったからどうなるというものではない。自分の意思に先立つ人と人とのつながりというものがあという言葉がいつも吉本にはまつわりついていたのはたしかだ。北野の吉本への斬り込みはまさにその「関係の絶対性」からであった。その結果、《吉本は、共同幻想を心象の基底に置くことによって、吉本の.言う「対幻想」「自己幻想」を相対化した。》という理解となる。

これは実は私には、吉本理解として新鮮だった。私にとっての吉本は「自己幻想」「対幻想」を橋頭堡に「共同幻想」に必死で抗している人だったから。しかし今の私には北野の理解がよくわかる。


次の言葉がつづく。《吉本において、個人幻想は共同幻想と必ず「逆立」するという。共同幻想は自己幻想を圧倒する。反秩序が「自分自身の生に対して衝突」するのはそれ故である。》したがって、「個である」とは「共同幻想の中で如何に自己を馴致するか」ということにほかならない。(いみじくも吉本は『初期ノート』で、《人間が他人を認識するのは習熟によってであり、その習熟が如何なる種類のものであっても、この原則は正しく適用されて誤らない。》と言っている。) これでいいのだ、と言えるのは古希を迎える歳になったからなのか。(この項つづく)


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【付記】

書幅3-DSCF9891.jpg

熊野考古館に本居宣長の書幅があります。和歌二首です。

 

  たなつものもものきぐさもあまてらすひのおほかみのめぐみえてこそ

  あさよひにものくふごとにとようけのかみのめぐみをおもへよのひと 

 

書幅解説1-DSCF9882.jpg

解説に「この書は明治四年、明治天皇が東北巡行の際、東根の郡衙にて叡覧に供し、ことのほか叡歎を賜ったとの副書がある。」とあります。

 

小林秀雄「本居宣長」.jpgちなみに、小林秀雄『本居宣長』の函の文字は、宣長が自分の墓のために書いた下書からとったとのことですが、たしかに同じです。
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