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「須藤永次記念館」を! [吉野石膏]

so-netブログからssブログへの移行とかにうまく対応できず、自分のブログにログインできない状態が3日ほど続きました。毎日の朝仕事、手持ち無沙汰でしたが、「宮内歴史を語る会10周年記念誌」に本気になるきっかけになりました。今月中發刊を目指します(と、宣言しておきます)。

30日、「宮内から市民の新しい拠点をつくろう会」の定例会でした。この日出席できないので、文章にして出席の方に渡しました。9月16日の文章に続く第二弾です。どれだけ伝わってくれるか・・・

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「プラスアルファ」をどう進めるか

 公民館(コミュニティセンター)が新しくなるのは当然として、「プラスアルファ」をどうするかが最大の課題です。お祭り会館であったり、先人顕彰館であったり、資料館であったり、菊まつり拠点であったり、その他にもいろいろ「こんなのが欲しい」案が出たわけですが、いまいち焦点が定まらないまま9月24日の「未来トーク」の日を迎えようとしているその朝、「結城豊太郎記念館」の夢を見ました。目覚めても夢の感覚を引きずっていて、「なぜ結城豊太郎記念館の夢を見たのか」について思い巡らしているうち浮かび上がったのが「須藤永次記念館」でした。
 結城豊太郎と言うと菅原兵治先生(安岡正篤先生開設の金鶏学院の第一期生。終戦直後、酒井家の懇請を受けて庄内松ヶ岡に東北農家研究所を創立して農村後継者の教育にあたる)の言葉を思い出します。「日銀総裁や大蔵大臣は何人もいる。結城先生が偉いのは、ふるさと赤湯に水道を敷設しただけでなく、50年100年先を見据えて風也塾をつくり、人材を育てようとしたことです。」いま結城記念館は、まさに赤湯の文化拠点としてめざましい役割を果たしています。
 一方須藤永次といえば、13歳で丁稚に出され、自ら「野育ち」と言うように、優等生結城豊太郎とは全く正反対の育ち方でした。しかしその功績は、結城に勝るとも劣りません。何と言っても「日本の住まいを燃えない住まいに変える」牽引者だったのです。空襲を避けて工場ごと宮内に疎開し終わったちょうどその日が昭和20年8月15日、永次はなんとその晩、ようやくホッとしている恒雄に、「すぐ東京に戻って操業する」と告げたのです。その後、自社の特許を同業者に公開し、石膏ボード業界を育て上げます。「すぐ火がつく紙と木でできた日本の住まいを変えねばならぬ」、その使命感が吉野石膏を大きく育てることになります。リン鉱石からリン酸化成肥料をつくる際の副産物が原材料でした。捨てるにも困っていたものを引き取ってタイガーボードに変えたのです。外から資金調達の必要がないほど儲かって、株式を公開する必要もないまま現在に至っています。膨大な吉野石膏コレクションは、その利益の結実です。
 永次は宮内時代、あまりいい印象を残さぬまま東京に出てゆきました。そのこともあってか、吉野石膏が軌道に乗るや、ふるさと宮内に、南陽に、出し惜しみすることなく貢献しました。しかし、須藤永次についての評価はまだまだこれからです。まず一本、「須藤永次顕彰」を柱に据えて、宮内の拠点を考えてはどうでしょうか。南陽市挙げて取り組む姿勢をもって吉野石膏に働きかけ、吉野石膏コレクションの収蔵も念頭に置きつつ、共同の施設になるようなやり方も考えられます。最高のレベルを目指すべきと思います。   (R.1.9.30記) 


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