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「宮内から市民の新しい拠点をつくろう会」へ [地元のこと]

9月16日に「宮内から市民の新しい拠点をつくろう会」の定例会がありました。その前の会合で、事務局が用意した見解に対していつも異議を唱える私に、「意見をまとめて文章化してくれた方がいい」との意見があり、了解していたところでした。ただしA4で1ページとの制約があり、ギリギリまで苦慮して会合前日一気に書き上げたのが以下の文章。ゴタゴタ理屈を並べるより事実を示した方がいい、との思いで書いたものです。

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 8月24日に南陽市民大学の現地研修で天童市美術館で吉野石膏コレクションを鑑賞してきました。全部で258点、年間3回に分けて展示されています。「きちんとした説明がなければ美術館の意味がない」というのが須藤永一郎吉野石膏前社長の持論だったということで、池田良平館長による作品説明はほんとうに感動ものでした。
 池田館長に「なぜこの美術館に吉野石膏コレクションがあることになったのですか?」と訊ねたら、「南陽市に美術館がなかったからです。」の答えでした。「当時山形美術館が県立美術館の役割を果たしており、永一郎氏の考えでは山形美術館に洋画と日本画両方寄託したいと考えられた。ところが山形美術館としては、印象派に特化した形で美術館としての特徴を打ち出したいという考えがあって、日本画の行き場がなくなってしまった。そこで当時公立美術館は当館だけだったのでここに収まることになった。もし永一郎社長が存命のうちに南陽で美術館を建てると言ったら、そっくり南陽に移っていたと思う。」 池田館長の言葉を重く受け止めました。
 吉野石膏を今日在らしめた須藤永次は、自ら「野育ち」と言うように、料亭の私生児として生まれ、13歳から9年間の丁稚奉公、そこでこすっからい商売(三べえ商法)を覚えて宮内に戻って叩き上げ、そのあげくの倒産で東京へ、ということで、宮内での生き様の印象は決して芳しいものではありませんでした。しかし永次は、悲惨な空襲の経験から「火がつけば燃え上がる紙と木の住まいを燃えない住宅に変えねばならぬ」との堅い決意をもって石膏ボード業界を立ち上げ、さらには日本の至宝ともいえる吉野石膏コレクションの土台を築いたのです。『男子、三日会わざれば刮目して見よ』、永次の一生は「変身の一生」でもありました。
 永次を変えた三つの出会いがありました。「山崎るい」「浅野総一郎」「石膏」です。
 「あなたの思い通りにやりなさい」と言いつつ陰でしっかり支え続けたのが妻のるいでした。永次一大飛躍のきっかけとなった石炭販売に導いた浅野からは、日本の実業界を背負って立つ気概と志を学びました。そして「石膏のように単純な物質で、石膏の機能を代替するものは現れない」と言われる石膏を最大限活かしきることに成功したのです。

 大正8(1919)年、田島賢亮という21歳の教師が宮内小学校に赴任してきました。田島はその時すでに自由律俳句の世界で名を成していました。宮内小学校在職は1年半だけだったのですが、田島の影響を受けた多くの人材が育ちました。須藤克三は「山びこ学校」を世に送り出すなど戦後日本の教育文化に大きな影響を与え続けました。芳武茂介は、商工省役人として、手工業的な工芸界にデザイン概念を導入して量産化への道を開き、日本の工業製品が世界的に評価される礎を築きました。小田仁二郎は、自分の感覚を究めることで、今尚新鮮な言語世界を切り拓きました。黒江太郎は、歯科医として宮内に在りつつ、熊野大社とともにある宮内の歴史に深く思いを致し、多くの貴重な文献を今に残す中心的役割を果たしました。田島学級の級長佐藤忠三郎は、公徳会NDソフト、佐藤兄弟のお父さんです。

 例えば、こうした宮内に関わる先人を知ることで、生きる知恵と勇気が与えられます。「宮内に新しい拠点を!」というならば、単なる建物ではなく、そこからエネルギーが湧き出るような施設でなければなりません。そのためには、構想ができる段階から多くのエネルギーを注ぎ込まねばなりません。ひとりで考えることはたかが知れています。いろんな意見のぶつかり合いから自ずと生まれてくるイメージ、それを共有しつつさらに先に進むこと、その一歩一歩が大切です。先日の会合では、「現在地か、蔵楽か」ではなく、「ともに活かせるような形」という共通イメージにたどり着きました。世代、立場を超えてこうした議論の場ができたということは実にありがたくかけがえのないことです。これからの丁々発止の議論に大いに期待したいと思います。  (R1.9.15 記)
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そもそも、「人口減少を見据えてそれなりに」の発想ではダメなのです。ほんとうに素晴らしい構想を出せば、金は後からついてきます、間違いなく。そしてそういう地域には、自ずと人も集まります。
今の宮内小学校児童数が明治20年ごろと同じ、宮内はそれ以後製糸業の隆盛によって人口増の時代を迎えます。いま宮内は、明治20年代同様、新しい時代に向かう胎動の時期なのです。「宮内から市民の新しい拠点をつくろう会」の会合では、このことをうるさがられるほど言ってきたのですが、事務局はなかなかわかってくれない。ここにも「緊縮脳」が染み付いています。「緊縮感覚からの脱却を!」、そうしないと宮内も日本もいよいよダメになってしまいます。
新時代「令和」を迎えて~明るく生きて行くために~
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