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構成吟
『最上川 置賜を行く』 [詩吟]

62回県南吟詠大会.jpg秋季吟詠大会開会.jpg昨日、秋季県南吟詠大会が米沢市民文化会館で開催されました。特集の構成吟「最上川 置賜を行く」を担当しました。
この機会に西村久左エ門、黒井半四郎について知ることができました。黒滝橋.jpg久左エ門が開削した黒滝の岩盤に立ち、300年前の工事の御苦労に想いを致しました。水量の少ない時期を選んで、岩盤の上で火を焚いて砕けやすくしての手作業でした。
松川を渡る黒井堰.jpg黒井堰揚水機表示.jpg半四郎については、あらためて黒井堰32キロの一部を辿ってみました。糠野目橋の西側に見えるのが松川を横断する黒井堰であることを、迂闊にもこれまで全く意識していませんでした。黒井堰碑.jpg半四郎はその段取りを終えたところで亡くなるのですが、飯豊の山をくり抜いて、新潟村上に流れる水を置賜に流し込むという穴堰の工事もすごい。とにかく重機も何もない時代です。20年の歳月を要したとのことです。
龍師火帝と堰.jpg米沢の会場までの車中、最上川でいちばん上流の集落である李山出身のY氏と一緒で、李山にも山をくり抜いて水を引いたところがあると聞きました。今は減反と高齢化でやっていないが、数年前までその水路の整備を地元の人たちでやっていたとのこと。また近くには直江兼続が今後の治水について思いを巡らしたと伝わる場所もあるとも聞きました。実は先日、猿尾堰と「龍師火帝」碑を探して迷い込んだのがその李山地区でした。昭和25年生まれのY氏、対岸の「龍師火帝」碑のことを知らなかったとのことで、この度自分の無知を痛感したことも思いあわせて、郷土史教育の必要性を考えさせられています。
郷土の歴史は知れば知るほど奥が深いです。郷土史を学ぶということは、先人の御苦労にどこまで想いを致すことができるかということだと、この度つくづく思い知りました。全国一律の受験体制下の歴史教育では、郷土史は全く漏れてしまいます。身につかない知識だけの歴史教育がおそらく今の現状です。郷土史をしっかり組み込んだ歴史教育からこそ、身近な暮らしに通ずる「生きる力」も身につくはずなのです。この度の体験を通して、このことを深く思わされています。
*   *   *   *   *
s01題名.jpg
 母なる川 最上川 この川が運んでくれた産業や文化が現在の私達の生活を豊かにしてくれました。元号が令和と改まった今年、改めて最上川に思いを馳せ、その流れを辿ります。

s02最上川水系図.jpg 
最上川は置賜を取り囲む山々に発し、山形県一円から豊かな水を集め、酒田の河口まで三日から五日かけて流れてゆきます。 西吾妻山中の【火焔の滝】 (ひのほえのたき) を源流とし、 総延長二二九キロメートル、 一つの県のみを流域とする河川としては国内最長で日本三大急流の一つです。最上川の源流を思うにふさわしい歌からはじめたいと思います。
s03遠藤桑珠.jpg 遠藤桑珠は上郷の農家に生まれ、日展特選賞二回、又寄査員を四回動め「ふるさと山形が生んだ大地の画家、情景の旅人」と評されました。
 彼が詠んだ「吾妻山」を田代俊風が詠じます。

   吾妻山  遠藤桑珠      田代俊風

  吾妻山 水の雫を源に ここに緊めて一本の川
s04吾妻山・・・.jpgs05吾妻山・・・.jpg
s06猿尾堰.jpg 川は流域の人々に恵みをもたらす一方、時には暴れて 時には暴れて人々に襲いかかります。置賜を治めることになった直江兼続が取り組んだのが、李山地区から松川の水を堰揚げし、城下に水を流す猿尾堰の開削でした。 工事は困難を極め、水路堀削の失敗の貴任者が切腹したことから、 切腹堰とも呼ばれたほどでした。 その成果は、 南原用水や堀立川として今も米沢の街を潤しています。
s07直江石堤.jpg もう一つは、その下流に河原石を積み上げた十キロメートルの提防を築き氾濫から流域を守り、 後世「直江石堤」と呼ばれることになります。
 直江兼続はすぐれた文人でもあり、火焔の滝を見たに違いない漢詩があります。

 「瀧水糸を乱す」を斎藤周岳が吟じます。
   瀧水糸を乱す   直江兼続     斎藤周岳

  爆水糸を乱して夕陽に映ず  光陰繋ぎ難く更に秋腸
  清風吹き落す廬山の上  引いて漢宮に入りて一線長し

s08瀑水・・・.jpgs09清風・・・.jpg
s10黒井堰.jpg  上杉鷹山公の時代、水不足に苦しむ米沢盆地北部一帯に水を送るため、藩と農民が一体となって、三十二キロメートルに及ぶ農業用水路が造られました。その指揮を執ったのが黒井半四郎です。その堰は「黒井堰」と呼ばれています。
 さらに黒井は飯豊山の豊富な玉川の雪解け水を白川に流し込むという大工事に取り組み、 この水は川西町一帯の水田を潤しました。 黒井が世を去るのはその段取りを終え、 いょいよ工事に取リ掛かって間もない寛政十一年の冬でした。 工事は困難を極め二十年の歳月を要して完成、「穴堰」と呼ばれるようになります。穴堰は飯豊の山から流れる白川流域一帝の田園に恩恵をもたらすこと になリます。
 鷹山は黒井半四郎忠寄の功績を讃えてその死を惜しみ、 追悼の歌をおくりました。「手とたのむ」を高橋恵山が詠じます。

    手とたのむ   上杉購山     高橋惠山

  手と恃む ま垣を風に倒されて 桂は道うに 頼りもぞ無き
s12手と恃む・・・.jpgs13手と恃む・・・2.jpg
s14黒滝.jpg 十七世紀末の元禄時代、 米沢藩京都御用商人 西村久左衛門は、船の通れなかった荒砥の下流黒
滝を開削し、 置賜と酒田の間の船の往来を可能にしました。久左衛門は私財を投じ、一年三ヶ月の歳月を要して工事を完成させたのでした。 以来、 米をはじめ青亭や紅花、米沢織といった置賜の産物が全国へと流通するようになったのです。 糠野目地区はその最終船着き場として販わいました。
 和歌と共に描かれた「糠野目八景」から当時の様子がしのぱれます。「舟っなぐ」を竹田松岳が詠じます。
 
     舟つなぐ          竹田松岳
   舟つなぐ 芦辺にともす 蛍火は 夏の川瀬の かがりとぞ見る

s15舟つなぐ・・・.jpgs16舟つなぐ・・・.jpg
s17吉野川.jpg 最上川は盆地の四方八方の川から注さ込みます。白鷹山に発し北から南に流れる吉野川は逆川(さかさがわ)とも言われました。 吉野川は宮内、赤湯を潤して大橋で高畠からの屋代川と合流、 そして夏茂((なつも)で吾妻山系から流れる松川へ、 やがて長井で飯豊山系からの白川と合流して最上川となるのです。1
 「吉野川の」を後藤薬岳が詠じます。

    吉野川の   鈴木 茂      後藤萬岳

  吉野川の 川瀬の響(とよ)む 夕暮れに 草笛吹きて 遊ぶ少年
s18吉野川の・・・.jpgs19吉野川の3・・・.jpg
s21簗場.jpg 白鷹町は昔からヤナ漁が盛んでした。戦前は三ヶ所あったヤナ場も、戦後はすっかり忘れ去られそうになっていました。しかし昭和五十年代から築場復元への取り組みが始まり、 今では「日本一の築場」として多くの観光客を集めるようになっています。
 大道寺吉次は、 アララギ派の歌人で故郷の自然や波乱にみちた生活を力強く詠みあげています。この詩を高木奏岳が詠じます。
    最上川  大道寺吉次         高木奏岳
  最上川 鳴瀬の簗の白なみを 見つつし さびし山越えむとす
s22だ大道寺吉次.jpgs23大道寺吉次.jpg
s24布川碧雲.jpg 布川碧雲は長井市に生まれ、 岩手医大を卒業して北海道の深川市で布川医院を開業しました。 多くの漢詩をつくり、 詩吟を深川の町に広めたお医者さんでした。故郷を思い起こしてつくった漢詩「最上川」は、 山形に帰って広く吟じられています。日崎岳明が吟じます。
 
   最上川   布川碧雲     目崎岳明

  渓間集まり来たって水北に流る  三山影を投じて也愈々道し
s25渓間 群り来って.jpg 
 窮めんと欲す百里風光の美    最上の清連羽州を下る
s26窮めんと欲す.jpg
s27昭和天皇.jpg 昭和天皇が摂度宮であられた大正十四年十月、山形で詠まれた歌が翌年の歌会始でご披露になりした。この御製は戦後の変運をへて、 昭和五十七年三月三十一日山形県民の歌として制定されました。最後に会場の皆様と全員で歌いたいと思います。 会場の皆様、ご起立の上、ご唱和ください。先導を福田岳昌がつとめます。 先導者が「広き野を」を 出しますので、皆様も最初からお願いします。
    県民歌「最上周」,
  広き野を流れゆけども最上川
 海に入るまで濁らざりけり 濁らざりけり
s28広き野を.jpgs29夕照最上川.jpg
 これをもちまして、構成吟「最上川 置賜を行く」を終わります。

s30「最上川-置賜を行く」終.jpg
   
*   *   *   *   *
構成吟「最上川、置賜を行く」(前稿)
◉吾妻の山から
 最上川は置賜を取り囲む山々に発し、山形県一円から豊かな水をあつめ、酒田の河口まで3日から5日かけて流れてゆきます。国土交通省では松川からの流れを最上川の一つの流れとし、その上流西吾妻山中「火焔の滝(ひのほえのたき)」を源流と定めています。源流から河口まで総延長229km、一つの都府県のみを流域とする河川としては、国内最長です。
 最上川の源流を思うにふさわしい二つの歌から始めます。
  吾妻山水の雫を源にここに聚めて一本の川  遠藤桑珠
  最上川清き流れはつきざらむ雪の吾妻のあらんかぎりは  湯野川忠世 
 遠藤桑珠は上郷の農家に生まれ、日展特選受賞2回、日展審査員を4回務め、「ふるさと山形が生んだ大地の画家 情景の旅人」と評されました。
 湯野川忠世は、今や山形を代表する果物となったラ・フランスを初めて日本に紹介した人で、音楽評論家の湯川れい子さんのおじいさんです。

◉猿尾堰と直江石堤
 川は流域の人々に恵みをもたらす一方、時には暴れて人々に襲いかかります。置賜を治めることになった直江兼続が取り組んだのが、一つは、李山地内から松川の水を堰揚げし、城下に水を流しこむ猿尾堰の開削でした。その工事は困難を極め、水路掘削の失敗の責任者が切腹したことから切腹堰とも呼ばれたほどでした。その成果は、南原用水や堀立川として今も米沢の街を潤しています。もうひとつは、その下流に河原石を積み上げた堤防を築き、氾濫から流域を守りました。総延長は10kmにおよび、後世「直江石堤」と呼ばれることになります。
 そこに建てられた「龍師火帝」の石碑には、洪水や旱魃といった水難火難が起こらないようにとの水神・火神への願いが込められています。以来400年、大雨で何度も破壊されながら、今なお米沢を洪水から守り、水の恵みをもたらしています。
 「善く国を治める者は、必ずまず水を治める」、その体現者直江兼続はすぐれた文人でもありました。最上川の源流にある火焔滝(ひのほえのたき)は夕日に映える様子からその名がついています。その滝を見たに違いない直江兼続の漢詩があります。
  瀧水乱糸  瀧水(ろうすい) 糸を乱す   直江兼続

 瀑水乱糸映夕陽  瀑水糸を乱して夕陽(せきよう)に映ず

 光陰難繋更愁腸  光陰繋ぎ難く更に愁腸
 
 清風吹落廬山上  清風吹き落す廬山の上
 
 引入漢宮一線長  引いて漢宮に入りて一線長し

(滝の水が糸を乱した様に白く飛び散り、そこに夕日が射してきらきら光っている。絶えず落ちるその滝を見ていると、時間が絶え間なく流れ去る感じがして、それを止めるすべもなく、心は沈んでくる。李白は廬山の瀑布を描いて「飛流直下三千尺/疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと」と言ったが、その廬山の上から清らかな風が吹き落とした水が、一直線の滝となって長く落ちて、漢の宮殿まで届くのだ。)

◉黒井堰と穴堰
 上杉鷹山公の時代、水不足に苦しむ盆地の南部北条郷、今の南陽市一帯に水を送るため、藩と農民が一体となって、総延長32キロに及ぶ農業用水路が造られました。その指揮をとったのが黒井半四郎です。その堰は後世「黒井堰」と呼ばれ、今も置賜北部の田んぼを潤しています。
 さらに黒井は、こんどは飯豊山の豊富な玉川の雪解け水を白川に流し込むという大工事に取り組みます。その工事はこれまでに考えられなかった全く新しいやり方によるものでした。黒井が世を去るのは、その段取りを終えいよいよ工事に着手して間も無い寛政11年の冬でした。その死を聞いて当惑する鷹山公の言葉と歌が伝わります。
 「今暁黒井半四郎病死候。此人は誠に珍しき人物にて、専ら御用に相たて候者に候処、斯る事は天我を喪すとも実に国家の不幸と申すべき事に候。御残念に之有る可しと察し入り候。去ながらなんとも致し方之なき候、唯々当惑に候   」。 

 手と恃(たの)む真垣を風に倒されてかつらは這うにたよりぞもなき 
 工事は困難を極め、20年の歳月を要してようやく完成、穴堰と呼ばれるようになります。穴堰は飯豊の山から流れる白川の流域一帯3000町歩の田畑に恩恵をもたらすことになります。
 高畠町福沢の喜多院に立つ「黒井渠碑」は、黒井の死後2年たった享和元年、黒井の功に感謝する北条郷民によって建立されたものです。

◉最上川舟運の恩人 西村久左衛門
 17世紀末の元禄時代、米沢藩京都御用商人西村久左衛門は、船の通れなかった荒砥の下流黒滝を開削し、置賜と酒田の間の船の往来を可能にしました。久左衛門は私財1万7千両を投じ、1年3ヶ月の歳月を要して、高さ3m長さ50mの岩盤掘削をはじめ、30kmにわたる人力による掘削工事を完成させたのでした。以来、米をはじめ、青苧や紅花、後には米沢織といった置賜の産物が全国へと流通するようになったのです。
 糠野目地区はその最終船着場として賑わいました。和歌と共に描かれた「糠野目八景」から当時の様子をしのばれます。

 入日さす舟場の沖の夕なぎに釣りのいとまも惜しむ暮れかな

 舟つなぐ芦辺にともす蛍火は夏の川瀬のかがりとぞ見る 
 長井市も西村久左衛門の恩恵を受けて栄えた町でした。2年前オープンした道の駅は、「‎川のみなと長井」の名で賑わっています。


◉多くの支流のひとつ 吉野川

 最上川には盆地の四方八方の川から注ぎ込みます。白鷹山に発し北から南に流れる吉野川は逆川(さかさがわ)とも言われました。吉野川は宮内、赤湯を潤して大橋で高畠からの屋代川と合流、そして夏茂で吾妻山系から流れる松川へ、やがて長井で飯豊山系からの白川と合流して最上川となるのです。

 吉野川の川瀬の響(とよ)む夕暮に草笛吹きて遊ぶ少年  鈴木 茂
 普段は長閑な吉野川も平成25年、26年、2年続けて暴れ狂いました。置賜河川砂防課長としてその復旧に取り組んだのが、鈴木茂の歌のこの少年でした。鈴木茂の長男鈴木崇は今、県の建設次長の席に在って県の河川行政の責任を担っています。
◉白鷹の簗場
 西村久左エ門によって掘削された黒滝からしばらく下ると簗場があります。
 白鷹町は昔からヤナ漁が盛んでした。戦前は3カ所あったヤナ場も、戦後はすっかり忘れ去られそうになっていました。しかし昭和50年代から簗場復元への取り組みが始まり、今では「日本一の簗場」の「道の駅 白鷹ヤナ公園 あゆ茶屋」として多くの観光客を集めるようになっています。
 大道寺吉次は、長井市に生まれ中学校に用務員として務める傍ら、生徒に万葉集を講義、「小使先生」と呼ばれ慕われたアララギ派歌人です。故郷の自然や波乱にみちた生活を力強く詠みあげています。
 最上川鳴瀬の簗の白なみを見つつしさびし山越えむとす  大道寺吉次
 簗場の先は大きな集落もなく、最上川は五百川(いもがわ)渓谷の急流を経て、村山へと流れ込んで行きます。
◉布川碧雲「最上川」
 布川碧雲は長井市に生まれ、岩手医大を卒業して北海道の深川市で布川医院を開業しました。多くの漢詩をつくり、詩吟を深川の町に広めたお医者さんでした。故郷を思い起こしてつくった漢詩「最上川」は、山形に帰って広く吟じられています。
      最上川     布川碧雲 
 (広き野を 流れ行けども 最上川
       海に入るまで 濁らざりけり)
 渓間 群り来って 水 北に流る  三山 影を投じて 也愈々 遒し
 藭めんと欲す百里 風光の美    最上の清漣 羽州を下る
◉県民歌「最上川」
 昭和天皇がまだ摂政宮(せっしょうのみや)であられた大正14年10月、山形で詠まれた歌が大正15年の歌会始でご披露なりました。翌大正15年1月19日「山形新聞」夕刊に「光栄の選歌発表 摂政宮殿下畏くも最上川に歌題を選ばる」の見出しで記事が載っています。この御製の歌は、戦後の変遷を経て、昭和57年3月31日山形県民の歌として制定されました。最後に全員で歌います。ご唱和ください。

   広き野を流れゆけども最上川
 海に入るまで濁らざりけり 濁らざりけり
*   *   *   *   *

構成吟「最上川」(元稿)

 

 吾妻山水の雫を源にここに聚めて一本の川  遠藤桑珠
 最上川清き流れはつきざらむ雪の吾妻のあらんかぎりは  湯野川忠世
最上川は置賜を取り囲む山々に発し、山形県一円から豊かな水をあつめ、酒田の河口まで3日から5日かけて流れていきます。その源流は米沢市の「松川」や「黒滝・赤滝の大樽川」、飯豊町の「白川」などいくつかの場所が上げられていますが、国土交通省では松川からの流れを最上川の一つの流れと定め、西吾妻山中「火焔の滝(ひのほえのたき)」をその源流としました。源流から河口まで総延長229km、一つの都府県のみを流域とする河川としては、国内最長です。


直江兼続

開湯1100年を誇る大平温泉、その宿の名は「滝見屋」です。直江兼続もこの宿を訪れたに違いありません。そのとき見た夕陽に映える火焔滝(ひのほえのたき)、その印象が生みだしたと思われる詩があります。
 瀧水乱糸    瀧水(ろうすい) 糸を乱す   直江兼続
瀑水乱糸映夕陽   瀑水糸を乱して夕陽(せきよう)に映ず
光陰難繋更愁腸   光陰繋ぎ難く更に愁腸
清風吹落廬山上   清風吹き落す廬山の上
引入漢宮一線長   引いて漢宮に入りて一線長し
【滝の水が糸を乱した様に白く飛び散り、そこに夕日が射してきらきら光っている。絶えず落ちるその滝を見ていると、時間が絶え間なく流れ去る感じがして、それを止めるすべもなく、心は沈んでくる。李白は廬山の瀑布を描いて「飛流直下三千尺/疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと」と言ったが、その廬山の上から清らかな風が吹き落とした水が、一直線の滝となって長く落ちて、漢の宮殿まで届くのだ。(島森哲男)】 

関ヶ原の戦いを終え、会津120万石から米沢30万石に領地を削られた上杉藩、直江兼続の指揮で米沢城下の建設が始まりました。兼続は、城や堀を整えて城下を広げる一方、用水・治水にも心を配り、猿尾堰を開削、後世「直江石堤」と呼ばれる堤防を築きました。 猿尾堰は、李山地内から松川の水を堰揚げし、南原の用水や、米沢城三の丸西側の堀となる堀立川へ水を流しこむ重要な堰でした。その工事は困難を極め、水路掘削の失敗の責任者が切腹したことから切腹堰とも呼ばれたほどでした。そうしてようやく完成した堰の守りとして据えられたのが「龍師火帝」の文字が刻まれた石碑です。 「龍師火帝」とは『千字文』からの字句で、洪水や旱魃といった水難火難が起こらないようにとの水神・火神への願いが込められています。猿尾堰は、大雨で何度も破壊され、「龍師火帝の碑」も川の中に埋まったりもしましたが、堰揚げ場所を替えながら現在も用いられ、石碑も引き揚げられて昭和56年に現在の所に整備されました。今なお米沢に洪水・旱魃の起きないことを祈るかのようです。

黒井堰

上杉鷹山公の時代、水不足に苦しむ北条郷に水を送るため、藩と農民が一体となって、総延長32キロに及ぶ農業用水路「黒井堰」が造られます。その指揮をとったのが黒井半四郎。黒井は「黒井堰」を完成させると、飯豊山から置賜の盆地に水を流し込む穴堰の大工事に取り組みます。しかし黒井が世を去るのは、その段取りを終えいよいよ工事に着手して間も無い寛政11年の冬でした。その死を聞いて当惑する鷹山公の言葉が伝わります。「今暁黒井半四郎病死候。此人は誠に珍しき人物にて、専ら御用に相たて候者に候処、斯る事は天我を喪すとも実に国家の不幸と申すべき事に候。御残念に之有る可しと察し入り候。去ながらなんとも致し方之なき候、唯々当惑に候  」。重臣莅戸善政はその時の心情を歌に託しています。
 手と恃(たの)む真垣を風に倒されてかつらは這うにたよりぞもなき  

最終船着場 糠野目
元禄時代の17世紀末、米沢藩京都御用商人西村久左衛門は、船の通れなかった荒砥の先の難所黒滝を開削し、置賜と酒田が舟運によって結ばれるようになりました。以来、米をはじめ、青苧や紅花、後には米沢織といった置賜の産物が全国へと流通するようになったのです。糠野目地区はその最終船着場として賑わいました。当時のようすが和歌と共に描かれた「糠野目八景」が残されています。
 入日さす舟場の沖の夕なぎに釣りのいとまも惜しむ暮れかな
 舟つなぐ芦辺にともす蛍火は夏の川瀬のかがりとぞ見る  

多くの支流のひとつ 吉野川
最上川には盆地の四方八方の川から注ぎ込みます。白鷹山に発し北から南に流れる吉野川は逆川(さかさがわ)とも言われました。吉野川は大橋で屋代川と合流、そして高畠町夏茂で松川へ、やがて長井で飯豊山系からの白川と合流して最上川となるのです。
 吉野川の川瀬の響(とよ)む夕暮に草笛吹きて遊ぶ少年  鈴木 茂

普段は長閑な吉野川も平成25年、26年、2年続けて暴れ狂いました。置賜河川砂防課長としてその復旧に取り組んだのが、ほかならぬこの少年でした。

 

白鷹の簗場

白鷹町は昔からヤナ漁が盛んでした。戦前は3カ所あったヤナ場も、戦後はすっかり忘れ去られそうになっていました。しかし昭和50年代から簗場復元への取り組みが始まり、今では「日本一の簗場」の「道の駅 白鷹ヤナ公園 あゆ茶屋」として多くの観光客を集めるようになっています。長井市に生まれ中学校に用務員として務める傍ら、アララギ派歌人として生徒に万葉集を講義、「小使先生」と呼ばれて慕われたそうです。

 最上川鳴瀬の簗の白なみを見つつしさびし山越えむとす  大道寺吉次

 

大石田 斎藤茂吉

白鷹の簗場を過ぎ、流れは置賜から村山へと入ります。斎藤茂吉は天童で最上川に合流する須川沿いの上山市金瓶に生まれました。戦後まもなく、古来最上川舟運で栄えた大石田に疎開、最上川の流れを眺めながら、春夏秋冬多くの秀歌を残しました。

 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆうべとなりにけるかも  斎藤茂吉

 

芭蕉

斎藤茂吉と大石田の縁は、昭和初期、佐藤茂兵衛宅に秘蔵する松尾芭蕉が書いた「さみだれを」を見るために訪れたことから始まります。芭蕉は山形県内に40日間滞在、『奥の細道』には19の句があります。

「最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし 。」

 五月雨をあつめて早し最上川
「羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云物のふの家にむかへられて、俳諧一巻有。左吉も共に送りぬ。川舟に乗て、酒田の 湊に下る。」 
 暑き日を海にいれたり最上川

 

最上川を下る 大久保利通
明治96月、木戸孝允、西郷隆盛とともに「維新三傑」と称せられた大久保利通が、置賜・山形・鶴岡の3県を巡視、612日に最上川を舟で下り、漢詩を詠みました。そこで利通は、中国北宋の文人米芾(べいふつ)の水墨画世界を目(ま)の当たりにしたのでした。 
 下最上川  最上川を下る  大久保利通
千章夏木雨痕鮮  千章の夏木 雨痕 鮮やかに


一棹孤舟下大川  一棹の孤舟 大川を下る

屈曲淸流奇絶處  屈曲する清流 奇絶なる処


米家水墨是天然  米家の水墨 是れ天然
【彩りあふれる夏の木々は雨上がりの色鮮やかに/一隻の小舟が大河を下っていく/清流が曲がりくねって景色がすばらしいところを見ると/まるでかの米芾(べいふつ)の水墨画のようだが、実は画ではなく本物の自然なのだ(汎兮堂)
 

最後に

昭和天皇がまだ摂政宮(せっしょうのみや)であられた大正1410月、山形で詠まれた歌が大正15年の歌会始でご披露なりました。翌大正15119日「山形新聞」夕刊に「光栄の選歌発表 摂政宮殿下畏くも最上川に歌題を選ばる」の見出しで記事が載っています。この御製の歌は、戦後の変遷を経て、昭和57年3月31日山形県民の歌として制定されました。最後に全員で歌います。ご唱和ください。
 ひろきのを流れゆけども最上川
      海に入るまでにごらざりけり
             にごらざりけり


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