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吉野石膏 須藤永次伝(南陽市民大学講座) [吉野石膏]


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吉野石膏 須藤永次伝

◎なぜ、須藤永次か
吉野石膏コレクションポスター 1.jpg・「吉野石膏コレクション巡回展」
2019年4月9日~5月26日 名古屋市美術館
・2019年6月1日~7月21日 兵庫県立美術館・
2019年10月30日~2020年1月20日 三菱一号館美術館
《石膏ボードを中心とした建築資材で知られる吉野石膏株式会社は、社内の創造的環境づくりを目的に、1970年代から日本近代絵画、1980年代後半からはフランス近代絵画の収集を開始しました。1991年、創業の地、山形県の山形美術館に作品を寄託し、モネ、ピサロ、ルノワール、シャガールらの作品を公開すると、市民の大きな反響を呼びました。2008年には、美術活動へのさらなる貢献を目的に、吉野石膏美術振興財団を設立、若手芸術家の育成や美術における国際交流の支援などにも力を注いでいます。収集の歴史は比較的新しいものの、今や日本ならびに西洋近代美術の名品を多数所蔵し、質量ともに充実した国内有数のコレクションとなっています。》(兵庫県立美術館)
・今年2月24日、日曜美術館「日本で出会える!印象派の傑作たち」
《絵画に革命を起こした印象派の画家たち。彼らの作品は日本でも数多く見られる。アートをこよなく愛する3人の有名人が、日本にある印象派の殿堂を巡り、その魅力を味わう。》《ひろしま美術館を訪れたのは、高校時代にモネの絵を見て印象派のファンになった女優深川麻衣さん。モネが連作の手法で描いた「セーヌ河の朝」の1枚と出会う。山形美術館に向かったのは、自ら個展を開くほど絵に力を入れている演出家・作家の大宮エリーさん。シスレー、ルノワールの傑作と出会い、不思議な色彩表現に心奪われる。茨城の笠間日動美術館を訪ねた歌舞伎俳優尾上右近さんは、ある作品に歌舞伎との共通点を見いだす。》
須藤永次2.jpg・2月28日、連続テレビ小説「まんぷく」。戦争のひもじい思いが原点でインスタントラーメンを開発したはずの主人公(安藤百福)が、それをそっくり真似するメーカーの出現に怒りを爆発(その後の回で和解)→20年前に吉野石膏の須藤恒雄会長から聞いた、競争会社に特許を公開して石膏ボードを普及させた話を思い出す。→ちょうどその日、市民大学運営委員会。

平源助さんDSC_1927.jpg・平源助さんの話を聞いておきたい。『須藤永次翁伝』に、幼少時いちばん親身になってくれた叔父として登場する平角太郎の孫である源助さんには、身内ならではの話を折あるごとに聞いてきた。しかし断片的なので、今のうちにきちんと聞いて整理しておきたい。まだまだ元気だがもう82歳。

◎生い立ち
山崎屋Scan 15.jpg・明治17年(1884)6月21日 宮内仲の丁 山崎屋(大正元年、宮内で初めて菊人形を飾る)に生まれる。母 須藤こん(須藤克三の祖父の姉) 父 加藤吉右衛門(1842 池黒生れ 明治22年 漆山村長 32年 製糸業)。(須藤こんは正式な結婚はしていないが、8人の子供がいる。晩年吉右衛門は山崎屋に入り浸りだったという。それでも池黒の本妻がよく気にかけ、孫娘に言いつけて仲ノ丁の吉右衛門にいろんなものを届けさせたという。孫娘は芸者さんなどで華やかな山崎屋に来てお化粧してもらったりするのが大変楽しみだったという。その孫娘というのは横町加藤歯科医院のおばあちゃん。米沢有為会の第9代会長加藤八郎はその義弟。平源助さんがそのおばあちゃんの運転手として、荒砥杉沢の衣袋家ー須藤恒雄の実家ーなど、盆の親戚まわりについていった時の話。) 
・明治31年(1898)3月 宮内尋常高等小学校卒業  8月 荒砥の大友(惣八)商店へ奉公。大友商店は30人近い使用人をかかえる西置賜一の豪商。蚕物問屋。
・矢の沢、須刈田、杢の沢を越えて荒砥への道筋(里程5里)、平角太郎DSC_1922.jpgほぼ中間の大石峠で角太郎叔父(粡町平源助さんの祖父)に「お前が三つの時だ。(ちっしょ子に出された金山から)一応家に連れて帰ったが、里親をしたって逃げ出したので、おおさわぎしたことがある。それにお前は強情でいったん泣き出したら、誰がだましても半日は泣いているような子だった。それやこれやで八人きょうだいのうちお前は一番母からめんごがられなかった。」「その上、母が可愛がっていた長男の鋭平が十五で死んで、めんごくないお前があとつぎということになったから、なおのことみょうなかっこうになったわけだ。それだけお前ら親子は両方とも不幸というもんだ。」(ちっしょ子とは里子に出された子のこと。子供の多い時代はよくあった。兄弟間差別は普通だった。)
・牛馬の飼料にするたまり粕を自分たちが食べるためいつも買いに来る老婆にまけてやったら咎められた。この体験から「商人になるなら、その日暮らしのような貧乏な人からしぼりとるようなもうけ方はしたくない。何とか世の中のためになり、世の中の人に感謝されるような商売をしてもうけてやりたいもんだ。」
・米琉(長井紬)の買継ぎに従事。夏場は農夫の手伝い。
・大友の主人は「商人は三兵衛でなければ駄目だ」という。三兵衛とは売る兵衛、買う兵衛、盗む兵衛ということだが、それ位の腕がなければ、商人になれないと店員たちにどなりつけていた。
・兄の法事で帰郷の折、父から「お前の主人の大友は、わがまま勝手な男だとは聞いている。だが、たとえ主人が悪くともお前が悪くなってはいけないぞ。昔から君君たらずとも、臣臣たれという教えがある。それをよく覚えておいて間違えぬようにしろよ。」
・明治39年(1906) 大友家足かけ9年の奉公年期あけ。宮内に帰るとき大石峠で9年前を思い出し、《あの頃は、おれもまだ子どもだった。母からかわいがられなかったことで、内心は淋しかったし反抗心もあったものだ。だが、角太郎叔父に、ここ(大石峠)で教えられてから、おれの人生に対する目が開かれたといってもよい。》
・明治39年(1906) 池黒の製糸工場(父加藤吉右衛門経営)の現場長に。やがて、繭の仕入れに従事。《養蚕家の中には「何だこの若僧が・・・」と、なかなか取り引きに応じてくれない人もいたし、ナメてかかってくる連中もあった。永次は、こういう時に大友家の三兵衛商法なるものを思いだし、内心おかしくなるほどの商法を生かしてみることもあった。だが、この取り引きは一回だけではないと思うと、その場きりのハッタリは禁物である。誠意がなければ信用がつかないのは当然だ。永次は両方とももうかるよう、心をくだいて奔走した。》

◎結婚
・明治40年(1907)25歳。 山辺の豊子(山形の高等女学校卒)と出会い結婚。このころ工場を辞め、蚕物一般を扱う仲買業者として独立。《両親から結婚の話がでるたび、永次はあれやこれやと考えたが、「どうもおれは野育ちである上、もともと頭がよくない。せめて妻だけは頭のよい女をめとりたいものだ。そうでなければ、自分の将来もさることながら、生まれてくる子どもに申しわけない」と考え、町の娘の誰彼をひそかに頭の中にえがいてみた。粡町の染屋山崎与左衛門の娘るいは、小学校に入学以来、卒業まで成績は群を抜いていた。当時は成績一番のものに、県賞、郡賞というものがあったが、彼女はその賞を独り占めしていた程である。永次はこのるいこそ理想の妻であると思ってはみたものの、なにしろ里子永次は、両親にそのことを願い出る勇気がなかったのである。そのうちにるいは、米沢市の豪家と婚約ができたということを伝え聞いた。永次はくらやみの中に突き落とされたように悲観した。だが今さらどうなるものでもない。せめてるいに代るべき第二の理想の妻を探し出さなければ――と心がけていたのであった。豊子との出合いは、ちょうどその頃であった。》
・豊子とは半年で離婚。(須藤家になじめず去る)《そのうち、永次は思いがけない噂を伝え聞いた。「山崎与左衛門の娘るいが、一年で不縁になり、家に戻ってきたそうだ。」この女と結婚し、豊子との破鏡で荒んでいく自分の人生を、しっかりたて直していきたいものだ。思いたつと矢も楯もたまらなくなるのが永次の気性だ。》《彼女は永次の素寒貧なことも、家庭の複雑なことも、何もかも承知の上で結婚することを承諾したのであった。》
・漆山、宮内の製糸工場の二等品を鶴岡の羽二重工場にあっせんすることで新境地を拓く。
須藤るい.jpg・いつも言う るいの言葉《「あなたが考えて一番よい方法だと思ったら、思いきってやることがいいと思います。」永次「妻はおれに何とかして自信をつけさせようと励ましてくれるのだ。」永次は、いつのまにか、この妻の励ましを期待しながら、商売の道を突き進んでいくようになっていった。》
須藤邸跡黒江邸Scan.jpg『翁伝』 とはちょっとちがう平源助さんの話。《料理屋の須藤家と染物屋の山崎家とでは家風がちがう。料理屋の女将をまかせるのにあの娘はなじまないということで、永次の母はこの結婚に反対。永次は、豊子との別れの二の舞は避けたいということで角太郎伯父に泣きつく。角太郎は二人を平家の二階に住まわせることにする。それから二年間平家で新婚生活を送る。角太郎叔父は軍人恩給を元手に金貸業を営んでいた。かなり鷹揚で催促無し。今も当時の証文が分厚く残っている。博労に馬を飼うための金を貸し、買って来た馬の品定めのため、家の前にズラリ馬が並んだ。浜田藤兵衛くんの祖父、荻から出て 「浜田博労」として名をあげた人だが、常連の一人。中には、返せなくて毎年詫び状だけは送って来る米沢の呉服屋(米沢粡町だいまる屋。今はない)があり、源助さん結婚の時、父親から「詫び状持っていって反物の一反ももらって来い」と言われたが、源助さんは行けなかったという。》「移ろうままに」より)

吉野石膏広告Scan 16.jpg◎「須藤永次商店」独立へ
・明治43年(1910) 母の須藤家から二人が独立。永次27歳、るい21歳。《「おれは文字通り本当の裸一貫になった。ただ、あるのは、だれにも頼らずに、自由な天地に躍り出していくための勇気と力だけだ。それにもう一つは、妻の愛情と理解だ。これさえあれば金や物など、努力次第でどうにもなる。》《永次はさっそく丸多と石黒製糸所の主人(多勢吉郎次と石黒七三郎)のもとに行って、こと(家を出ること)のなりゆきを話し、こんごの援助をたのみこんだ。「君は資本もないだろうから明日から家のぺケ糸や赤糸をもっていって、君の取引先に売ってきたらどうだ。価格は君の腕にまかせるし、手数料は売り上げによっていつでも支払ってやろう。」というありがたい話である。永次は「渡る世間に鬼はない」のたとえの通り、世の中には神も仏もおいでになるものと、心の中で手を合わせておがんだ。》
・明治44年(1911) 宮内に電話開設。須藤永次商店20番 池黒工場10番。
・浅野総一郎からの誘い→石炭販売《百二十五銀行宮内支店長飯田虎太郎氏から、突然銀行に来てくれるようにとの電話がきた。銀行に行ってみると、見たことのない紳士がいる。「この方は東京磐城炭鉱株式会社浅野総一郎氏の代理で安井信一郎さんという方です。」飯田支店長が紹介してくれたが、まさか天下の浅野総一郎氏の代理が、吹けば飛ぶような一介の田舎仲買商に用事があるわけでもあるまいと、永次は黙って一礼した。ところが思いがけなくも、この大浅野が永次に用があるというのだから驚いた。浅野さんの会社で採掘した石炭を、宮内地方の製糸工場に販売したいというのでわざわざお見えになったのです。だれか適当な人がいないかと相談をうけたので、君に白羽の矢を立てたところだ。君は各製糸工場と懇意にしているしそれに信用もある。この際、浅野さんの石炭売り込みに腕をふるってみたらと思うがどうだ。」条件は1トン売れば50銭の手数料を支払うし、数量は多い程よいから、思う存分売込めという。》→約5,000トンの商談をまとめる。→250円の手数料(計算合わない。500トン or 2,500円)
・波乱をくぐりぬけながら商売は急上昇《永次はここで、はっきりと方針をたてた。第一、できるだけ自分より上の人と交際する機会を多くすること。第二、たとえ上の人とでも、交際費は自分で支払われる限り支払うこと。永次のこの二つの鉄則は、やはり人情の機微にふれたものであったことは、東京の多くの人々からいつの間にか信用され、思わぬ恩顧を受けたことによっても証明された》《石炭で浅野総一郎翁に目をかけられ、かわいがられたことは終生忘れ得ないことであった。翁は再度にわたって永次の家を訪れ「かせぐに追いつく貧乏なし忍耐」と揮毫して若い永次の人生訓として与えたのであった。》
浅野総一郎 1.jpg・浅野総一郎(1848-1930)への傾倒《浅野翁は富山の貧乏寺の次男坊として生れたが、寺をきらって横浜に出た。そして先ず人の一番いやがる事から手を出そうと考え、 清掃の仕事をはじめた。やがて石炭連びの人足となったり、あらゆる下積みの労働に従事したが、渋沢栄一氏に見出され安田善次郎、大倉喜八郎氏と共同者として事業界に乗り出したのである。当時の事業界の重鎮となっていたこの浅野翁から聞かされた若き日の苦心談の一言一句は、永次の胸にじいんとしみこんでいき、感動でからだ中が熱してくるのであった。永次は、 同じ人間として生まれ、同じ事業界に生きるのであるから、何とかしてこの浅野翁の末尾につらなれることのできる人間になりたいものだ。それには、この翁を一生の手本として学んでいかなければならないと思うにつけ、今まで身につけてきた田舎商法のせせっこましさや、ものを見る目の狭さなどが、今さらのように哀れに見えてならなかった。わずかばかりの金をもうけ、 猫の額のような故里の町で多少人から信用されるようになった位で、鬼の首でもとったように心がおどっている自分自身の志の小ささが恥かしくてならないのである。浅野の邸宅は芝の田町にあったが、(秦の始皇帝の)阿房宮といわれる程の豪華で広大なものであった。永次はそのような大邸宅を格別美しいとは思わなかったが、その邸宅にも増して広大な翁の志と、奥知れぬ人間の深遠さには心から尊数したのであった。》 
・永次28歳 、「三兵衛商法」からの脱皮
(鶴岡の生糸羽二重問屋平田商店支配人佐藤千吉氏)「生糸の一等半格のもの2000斤買い入れたい。一流どころの製糸所を御紹介いただきたい」。丸多を紹介、商談成立。(永次)「それでは手付金を・・・」。(佐藤)「それなら、この商談は破談に」。永次「どういうわけ!?」。(佐藤)「今の世の中で、そんな時代おくれな・・・。あなたがたの方では、私どもの店に不安を感じておられるからそういう申し出をされると思いますが、私どもの方から見れば、むしろあなたの方の品物の方が不安に思われます。・・・いろいろお世話になったが、手前どもとしては、そんな旧時代的な方を相手にしているわけにいきませんから、おことわりすることにしましょう。」(丸多・多勢吉郎次)「何千斤ものものを商売する人だ。そういう取り引きは当然だろう。先方通りに契約した方がよい。」(佐藤)「昔は三兵衛でもよかったでしょうが、それでは一人前の商人は相手にしてくれないでしょう。第一この平田商店では信をおきません。」《一を捨てて十を採るという鉄則も、三兵衛根性を捨ててこそ生きるのではないか。相手を信頼し、一旦算盤を捨ててこそ十を採ることになるのではないか。永次は佐藤さんに、明日から心のもち方を根本的にかえることを誓った。》《その後鶴岡方面からの生糸の需要は、永次が一手にまかなうことになり、その数量も相当なものであったから、その得るところはすこぶるおおきかったのである。》
・丸中・多勢慶輔が石炭から手を引き、永次も丸中を退店→完全に独立した須藤永次商店に。

須藤永次商店広告Scan 13.jpg◎石膏事業への参入
・明治34年(1901) 戸内応助(米沢)、南陽市吉野村坂町に吉野石膏採掘所を開所。製品は浅野セメントに供給。宮内六角町に工場建設するも戸内、不摂生ゆえの病状悪化もあって行き詰まり状態。永次への石炭代未払い、在庫山積み→(戸内、永次へ)「若し売れたら、一樽で50銭は君への借り分に返金するから、工場渡し100キロ購入で金5円でいいから何とか君の手で処理してくれないか。頼むよ君。」→(戸内)「君が見る通り、おれの病気は相当重い。そこで石膏工場と山元とも一切を石黒さんと相談して買い取ってくれまいか。」→(石黒)「何も考えることがないじゃあないか、値段次第では買い取っておれたちの手でやろう。」
・大正7年(1918) 資本金15万円(11;4)で吉野石膏採掘製造所(名義主 石黒七三郎 経営 須藤永次)スタート

◎製糸業への参入→業績向上→大陸豪遊→生糸大暴落→破産
・大正9年(1920)永次38歳、置賜郡是製糸㈱倒産寸前に。
(安部八郎)「君、何とかしてこの事態をまとめてくれないか。」→(父加藤吉右衛門の製糸業失敗を思いつつ)「この機会に郡是を引きうけ、立て直しに成功したら、あるいは一挙に父の不遇を慰めることになる」《利益だけを目あてとしたのではなく、大義名分のたつこの困難な中に飛びこんでいくことに、永次の血は燃えたぎったのである。》→3年目には第二、第三工場を買い入れ、220釜、従業員300名、この地方製糸業界のAクラスに。社長自ら従業員と同一の食事をとることで一体感→素質のよい従業員が集まり生産の量でも質でもおおいにプラスに。業績向上。
・昭和4年(1929)3月、満州にサクサンシ(山蚕)工場視察。石黒徳蔵、多勢吉次(丸多)、多勢賢次(丸中)、多勢準一(丸一)、多勢亀五郎(金上)、布施長蔵、髙橋庄三郎、斎藤松太郎、団長須藤永次。「満州のオナゴの研究をするには君でないと団長がつとまらないよ。」 
・40日間の旅の間の生糸価格大暴落。《野次喜多道中にも似た満鮮の旅から帰った永次は、直ちに横浜の生糸の相場を問い合わせて驚いた。出発の時は、相当もうかるはずであった生糸が暴落に次ぐ暴落であり、今後どのようになるのか、てんで見当さえつかない状態であった。永次はこの生糸の大暴落から次第に事業が落ち目となり、追いつめられる一方となっていくのであった。そして郡是製糸の経営も不可能の状態となってしまい、ついに本業の石炭の資金を製糸に流用してしまったから、当然石炭代の支払いをも不可能におちいらせる破目となっていった。すべてを潔く運命に任せ、再挙をはかろう―永次は取り引きの東銀行にも相談し、諒解を得ていよいよ破産ということになったのである。》
・善後策に奔走
《この度の永次の倒産は、ひとり永次のみのことではなかった。全国の業者は大なり小なり、いずれも苦しみ喘いだ。これは業界だけの損失ではない。農家養蚕家のうけた打撃から、大にしては国家の損失多大なものがある。永次はゴマメの歯ぎしりにも似た怒りをもち、破産にのぞみ素裸になろうとも農家をはじめ多くの人たちだけは迷惑をかけたくないものと、日夜奔りまわった。・・・自分と何の関わり合いもないのに、永次を何のかんのと批判する声もあったが、一切の雑音に耳を傾けることなく、ただひたすら善後策にかけづりまわった。》
平源助さんの話から
《須藤夫妻の胸像が双松公園の琴平神社に建ったのは昭和34年。建てられて間もなく、その像にペンキがかけられるという事件があった。須藤永次に恨みをもつ人がかなりいる、という話を子供心に覚えている。永次38歳の大正11年、倒産寸前の置賜郡是製糸株式会社(本社 梨郷)を乞われて引き受け、建て直す。その後製糸業経営が順調だったことから《永次は思い切って大飛躍することに意を決した。・・・まず第二工場は宮内粡町にある元の三輪工場を、第三工場は妹の宮(おみやさ)の夫である髙橋与五郎の工場を買い入れたのである。/総計釜数は220釜、従業員数約300名であったから、その規模においても生産数量においてもこの地方の製糸業界のAクラスの仲間入りをした。》源助さんの話では、ここで社長に金山村の名望家菊地氏(息子は仲の丁に菊地医院を開業)を担ぎ上げ、株式会社として多くの投資を募る。しかし結果として昭和4年の生糸大暴落で会社は倒産、投資した金は無に帰し、さらに大きな損失。《置賜郡是の損失は百万円内外、店の損失は三十万円内外とみて合計約百三十万円。そのうち財産は三十万円、自己三十万円差引七十万円也の不足である》とあるが、金を出した方には「投資」の意識などはなく、「金を貸した」つもりだったのだろう。それが無に帰したわけで、「踏み倒された」となり、その恨みがペンキ事件になったのかもしれない。この時の体験と反省が、吉野石膏が大きく発展を遂げてからの地元への惜しみない貢献につながることになる。》(移ろうままに)

◎再起
6-水園IMGP9623.JPG住宅組合を10人で組織して県から2万円借入。(一人当たり2千円。15年月賦)
《「こういうところに住みたいものだな、お観音さまも近くにあるし」・・・永次は何をさておいても、若かりし時に胸に刻みこんだ土地をわが住宅の地に選んだ。・・・総仕上りが2千円である。元の家と比べると5分の1ぐらいの小さな規模であり、しかも当時は辺りにはだれも住んでいない山ふもとの一軒家である。ここに一切を無にして引きこもることは、大損失によって迷惑をかけた人々にも一分の申しわけがたつのではあるまいかと思うと、かえってすがすがとした心境であった。》
・「水園」関連のうた
   秋の色よそにおとるなふるさとの我がつちかひし園のもみぢ葉  須藤永次
   滝の音も蛙のこゑにきえゆきて秋葉山なみを月さしのぼる      須藤るい
   とこしへに園のあるじのこころうけてゆたけし清し山は樹々は   佐佐木信綱 (水園邸内歌碑)
3-DSCF0651.JPG4-DSCF0654.JPG5-DSCF0655.JPG
・石膏事業に関して石黒七三郎氏の言葉
《「君、何も石膏をやめることはあるまい。財産は全部石黒のものになっているんだから、君の債務とここは何の関係もないわけだ。今まで通りやったらいいじゃないか。まあ身分や名義上では石黒の使用人ということにしておればよろしい。・・・こんどは当分助平根性をおこさないで、石膏に専念してくれるようにたのむ。」》
・永次述懐
《多勢吉郎次氏とこの石黒七三郎氏の両氏は、ひとり永次の恩人であるばかりでなく、須藤家子々孫々にいたるまでの大恩人であり、その恩を忘却してならないことを、固く言い残しておかなければならない。》(これはその時の感激によって思ったのではなく、永次の生涯にわたってつねに語っていたことでもあった。)

吉野町.jpg宮内町地図(賑わいの記憶3)吉野石膏所.jpg◎石膏に専念
《いよいよ永次は石膏事業に専念することになった。これは文字通り背水の陣であるから、心ひそかに決するものがあった。》
・昭和6年(1931) リン酸石膏で焼石膏にするテスト成功→格安生産への道を開き、耐火ボード普及の決め手となる。
《大日本人造肥料って会社が、燐酸肥料を作る時に燐鉱石から燐酸を取って加工して、燐酸肥料というものを 作っていたんだが・・・その時に副産石膏が大量に出るということが分かった。ただ、これが黒くて使いみちがない。石膏なんて、白いから使いみちがあるわけで、黒い石膏なんて誰も相手にしない。白いほど良い石膏になってるわけだからね。/ そういう状態の時に、これをうまく使ってみてくれと、うちの販売店がね、10トン車で宮内に寄こしているんだ。当時、宮内には東京工大(当時の蔵前高工) 出身で、陶磁器会社から親父が譲り受けた優秀な技術屋(坂場松男)がおって、俺と一緒に寝泊りしていたんだよ。彼が分析してみたところ石膏としては最高の値打があるというんだなあ。/それではというんで、ボード用としてタイガーボードの東洋建材に売ってたわけよ、何十トンかずつ毎月ね。紙と紙の間に石膏を包んだのがボードだから、色が黒いだけで石膏として値打ちがあるというんで、試作してみたら非常に立派なものができたんだな・・・。/燐酸石膏を使うんだったら、原料工場の傍に行った方がいい、というわけで、足立に荒川放水路を挾んで、大日本人造肥料の反対側、橋を渡って反対側に土地を借りて、急遽うちの工場が行ったわけ。》
・昭和7年(1932) 焼石膏の最大得意先タイガーボード製造合資会社に貸倒れ発生(1万6千円)→半年間の委託経営で石膏業者が経営すべき事業であることを確信→日本興業銀行によって競売。吉野石膏採掘製造所が落札(単独応札。1万3千5百円)永次「実は私も保証金(一割)の外資金は持ってません。この建物を自分の工場の方に移転します。その落成と共に担保に入れますから、残金の全部を何とか貸してもらいたい。」「興業銀行と申せば、国民の事業をおこすための銀行であると信じていますから、この破れ果てた工場を再興しようとお願いするのです。私には必ずやってみせる自信があります。そこを信じてください。」→承諾。一方石黒家《石黒家は、山形県では有力な資産家であり、事業は製糸家であり、銀行業者でもある。東京で破産になった事業を引き受けるような危険なことを敢えてしなくともよい家である。》→永次、ボード事業はひとりでやらなければならない破目に。(昭和7年2月まで、赤湯出身の結城豊太郎が日本興業銀行総裁。結城はその企業の将来性を判断して担保なしの融資にも応じ、日本銀行から睨まれることもあったという。(佐藤庄一結城豊太郎顕彰会々長談)それでも2月からは日本銀行総裁に乞われて就任。隣町同士の二人、当然接触があったと考えられる。結城は永次の7歳上
・昭和9年(1934) 吉野石膏採掘所で竪坑陥没事故発生。石膏工場東京移転へ
《製造所が山形にあるということは何かにつけて歩が悪く、品位の研究から運送と、すべて悪条件に悩まされるのである。》
(石黒)「東京に移転してから後は、たとえどんなに資金が入用であっても、一円も投資するわけにはいかない。それを覚悟で、今の資本で遂行したまえ。」(永次)「はい、そうなれば苦しくなると思いますが、死ぬ決心でやってみます。」(石膏販売月160tが330tに)
・昭和10年(1935) 東京工場(足立区江北)3000坪(借地/坪5銭)。機械設置後涌き水発生も従業員と一心同体となり10日間の苦闘の末、困難解決。(魚籃観音はこの時出現?→昭和36年、双松公園琴平神社に合祀。毎年5月4日例祭)
・昭和11年(1936) 「焼石膏業界は陶磁器用の付属物的存在で、生産の90%はこの需要に左右され、建築材料としては装飾用に使用されるにすぎなかったので、何とか焼石膏の分野から脱却した石膏事業ができぬものか」→ボード事業継承。
・昭和12年(1937) 個人経営を株式会社化(資本金24万円 石黒:須藤=11:4 社長 石黒七三郎氏 専務 須藤永次 取締役 石黒喜助 石黒圭助 監査役 須藤恒雄(加藤家から嫁いだ白鷹町杉沢衣袋家永次の異母姉お倉姉の末子。るいの長姉の三女駒と結婚。昭和4年入籍。昭和6年福島高商卒同時入社)
・昭和13年(1938) 石膏工場と同じ土地2000坪にボード工場移転。
・昭和15年(1940) 石黒七三郎、石膏事業から撤退。永次全株引き受け。単独での事業継承に。
・昭和17年(1942) 「タイガーボード」→「耐火ボード」(外国語忌避)
         石膏工場が軍需省管理工場に。資金繰り好転。
・昭和19年(1944) 生産激減。ほとんど休止状態。
・昭和20年(1945) 足立工場空襲、宮内町に疎開。
《空襲後、建物を点検したところ、石膏原石置き場の木部羽目板が数か所にわたって焼けていたが、その上部に張ったタイガーボードの部分で火は止まっており、ボードの耐火性がここでも証明された。》《田端駅発の疎開貨車最後の貨車到着が終戦の8月15日であった。》

◎須藤恒雄氏の話(「週刊置賜」より)
須藤会長と衣袋監査役.jpg 《そう、一番最後の35両目の貨車が八月十五日に到着したわけだ。前の日にね、「明日重大放送があるそうだから聞くように」と言われたから、お昼ごろ、聞いたんだね。あの玉音放送が始まったんだ、聞いて皆ぷったまげたわけだ。まさか、敗戦になるなんて、だれも思ってもみなかったろうし。
(東京工場の方は止めて全部運ぱれたんですか?)
  全部! 軍事省の管理工場になっていたからね。吉野石膏という看板を外して二八〇〇番なんて番号がついて。その代わり電気はなんぼ使ってもいい、燃料も石炭でも 何でも配給する・・軍需工場にはそういう特典があった。そして爆弾の型とかね、ギプス包帯とか歯科用の石膏とかを兵器廠に納めておった。時々将校が視察にきてね。それが毎日毎日爆撃が始まって、とてもここじゃ駄目だ、山形に移転するから移転資金をもらいたい、と言ったら、なんぼ掛かってもいいから、大至急で移れということでね。
(同業者というのは?)
 東京には一社も無かった。私は当時三十五歳かな、その工場の生産責任者になっておった。山形で召集されたんだけども、工場の生産責任者にされたために、七十何日かで帰されてね、昭和十九年に東京に帰って来た。帰されなければ戦死していた。僕と一緒に枕を並べていた中隊の仲間は、全滅だった。それで、あんまり空襲が激しいんで、疎開しようとなったわけだ。
    ・・・・・・・
  終戦になって、先代(須藤永次氏)は「マッカーサーは、これ以上日本人を殺したりしないだろう。終戦になったのだから、大至急東京に戻ってボード工場を復活しろ」というんだ。焼夷弾一発で何百戸も焼けるような、燃える家を作らせちゃ駄目だ、戻って早くやれ、というわけだよ。
(終戦のその年の内にそういうことを言われたんですか。)
  終戦の日の、その夜だよ、「大至急、東京に戻れ!」という号令を出したのは。こっちは、命からがらようやく宮内に来たのにすぐ東京に戻れ、だろう。とんで もないって言ってがんぱってたのよ。疎開してきた荷を全部送り返すまで宮内におった。十月過ぎくらいまで宮内にいたんじやないかなあ。 先代は、「俺はこれから東京に行く」ってね、九月にはもう、ステッキー本持って東京に出てきたね。その時に終戦で解散した原電気から今野正さんという技術屋を貰い受けたわけだ。
(今野氏はその後、大正末期に製作されて老朽化していたボード製造機に改良を加え、新マシンを設計、完成させた)
(その辺の判断というのは凄いもんですね。)
 ああ、たいしたもんだった。運よく住宅が焼けずに残ったということも幸いしてね、東京に出てきて復興に取りかかる。
(ご家族は宮内に?)
 まだ家族は宮内にいた。東京に出てきて生活できる状態じやなかったからね。うちの倅(前社長永一郎氏)は昭和九年生まれだから、宮内小学校に行った。長井中学まで行ったかな、一年ぐらい。しぱらくは先代が単身できておったねぇ。
   ・・・・・・  
  そうしているうちにね、だんだん復活してくると、GHQ(連合軍総司令部)から、進駐軍宿舎建設用として、石膏プラスターの生産命令が出た。命令だけども、値段はこっちで原価計算して、いくらいくらだと出すわけだ。何月何日まで千t納めろ、いついつまで四千t納めろって、とんでもない単位だよ。それで、 そちこちにあった石膏工場に分配して、業界で製造することにした。
 そのうちに物価庁というのが出てねぇ(これが後に特別調達庁となるんだが)そこに行ってすべてサインをもらわなくちやならん。で、そこの担当官とだんだんだんだん親しくなってね、最初は一万円だったものがだんだん高くなって、二万五千くらいまでなったなあ。
 そうするとだね、最初はぎりぎりで、一割も儲からなかったものが三割とか五割とか儲かり過ぎるようになった。計算したものにサインさえしてもらえばいいわけだから。それを皆分配してやったもんだから、景気が良いなんてものじやない、皆恩恵にあずかったわけだ。
(衣袋)ボーナスなんか、凄かったですよ。
 それで、儲かりすぎて、ある会社などは変な所に金使って、おかしくなったところもある。
 うちの社長の偉かったのは、その時期に「いまは粉(石膏プラスターは粉末)でいいが、これからは燃えない建材を大量に普及しなくちゃならない。(ポードは 吉野石膏の専売特許であったから)それには、強力な競争会社をたくさん作って、切瑳拓磨していかなくちゃならない」というわけで、須藤式タイガーポード製造機っていうのを作ってね、わずかな技術指導料をもらって分配した。各社の技術屋を呼んで、寮に泊めたりして、何カ月か研修させ、機械をこっちで試運転し て引き渡して・・と競争会社を作り、ボード業界というものを作ったわけだ。いまはそれが「石膏ボード工業会」ということで・・・。長い間、その会長やったりなんか、そんなことで勲章二回ももらったということになんのかねぇ。
(聞き手:これはもう無くてはならないものですしねぇ。)
ポードなんていうのはね、重厚長大安物の代表だから、気安く使えるわけですよ。》

こうして石膏ボードは戦後日本の「住」になくてはならないものになったのでした。
※吉野石膏(株)は株式を公開していない、したがってその内容は明らかでないが『90年史』に平成元年までの推移グラフがある。(出荷量の推移売上高の推移)その後については、石膏ボード出荷量:平成元年3億6400万平米→平成28年4億9900万平米。売上高:平成元年987億円→平成16年1,191億円。

※《平成8年4月、吉野石膏㈱は『再生’利用業」の厚生大臣認可を受けた結果、建築現場から出る「せっこうボード端材を、再びその生産された工場に回収して、「タイガーポード」の原料として活用できることになった。/「タイガーポードは単なるリサイクル資材ではなく、端材の回収後も、無駄なく活用される『循環リサイクル・システム型」の建材なのである。/地球環境とリサイクルが世界の合言葉となったこの頃、「タイガーポード」はこのように21世紀に向かっての注目に値する産業資材として評価されるに至っている。
「タイガーボード」はリサイクルの優等生地球にやさしいタイガーボード
「種々の素材が開発されてきているが、いまだに石膏に代わる物質は生まれていない。おそらく将来にわたり、石膏のように単純な物質で、石膏の機能を代替するものは現れないと思われる」(瀬戸山克己工学院大学名誉教授)

●参考文献
・『須藤永次翁伝』 須藤永次翁伝編集委員会 昭和41年
・『吉野石膏90年史』 吉野石膏株式会社 平成2年
・『週刊置賜』 置賜タイムス社 (平成9年秋は宮内の水園で、平成10年秋には本社ビルでのインタビューをそのまま掲載した記事。インタビュアーは、置賜タイムス社の木村陽子さんと高岡) 

琴平神社須藤夫妻記念写真P5053479.jpg
魚籃観音合祀祭.jpg
宮内双松公園の琴平神社に魚籃観音を合祀記念写真
      
須藤永次夫妻.jpg長谷観音に佐佐木信綱歌碑建立
  国のため玉とくだけしますらおをとはに守りませ長谷の御仏


・
須藤永次DSC_1328.jpg須藤永次長谷観音DSC_1329.jpg須藤永次肖像碑除幕式(長谷観音/伊藤長太郎氏と)



水園の今。平成26年夏の豪雨水害で菖蒲沢一帯が大きな被害を受け、水園も水浸しになった。その修復がなされぬまま現在に至っている。(今年の6月3日撮影)
水園いまDSC_1375.jpg水園いまDSC_1387.jpg水園いまDSC_1389.jpg水園いまDSC_1385.jpg水園いまDSC_1388.jpg

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