出雲行(2)足立美術館(上)横山大観「紅葉」 [メモがわり]
お別れ会を終えてから、I先生、N先生とともに足立美術館に向かった。駅までタクシーのつもりで乗り込んだが、美術館まで一人5,000円でいいということでお願いした。着いたのが2時半ぐらい。2時間の見学を予定したのだが、足りなかった。想像以上の規模。タクシーの運転手さんに聞いた話。「足立全康という人は若い頃から苦労した商売人だったが、大阪でたまたま購っていた土地が万博用地に買い上げられたことで莫大な金を手にし、それを元手に始めたのが足立美術館」。足立美術館のサイト「絵画蒐集のエピソード」にこうある。
「紅葉」が足立美術館の看板作品だとは思っていたが、足立全康の「紅葉」への執心についてはこの度初めて知った。「紅葉」は秋の展示ということで今回は「夜桜」だった。私は東京国立近代美術館でじっくり見ている。「紅葉」について、結城亮一氏が『翠松の丘〜宮内高校人脈物語』に書いている。
《二代目亀五郎は日本画を好み、川端龍子や横山大観の絵を集めた。昭和三年には川端龍子の後援会長を引き受け、日本橋三越の画廊で個展を三回開かせ、三回とも全部赤札にして育て上げた。横山大観の絵は、川端から目ききをしてもらって買った。
昭和六年に大観が屏風絵の名作「紅葉」を描いたとき、木の下の流水を表現するのに当時まだあまり使われていなかった描画材料のプラチナ泥を 使ったため、画壇や画商は工芸品とみなして認めなかったのを、亀五郎が二万四千円で買い取ったので大観はいたく感激し、お抱え表具師を連れて漆山まで訪ね てきたのだった。公務員の月給が五十円のころだから、二万四千円といえばざっとその五百倍にあたり、今の金額に直せば七千万円くらいになるだろうか。
後年(昭和30年)、多勢家が左翼の教唆による暴力的労働争議によって倒産に追いこまれたとき、多くの書画骨董品とともに「紅葉」も処分された。その後、島根県の足立美術館で問題の屏風絵が所蔵されているのがわかった。同美術館によると、その作品は、倒産した東洋バルブの創業者・北沢国男氏の収集品「北沢コレクション」 から昭和五十四年に購入したとのこと。それより以前の持ち主はわからず、これが多勢家旧蔵の作品であったという可能性も捨て切れない。》私は「紅葉」が多勢家にあった話を、丸一多勢家が実家の山栄酒造の奥様(タマちゃ/昭和2年生)から聞いた。足立美術館まで足を運んで見てこられての話だった。金上多勢家の倒産に伴う大観作品散逸の実態については、錦三郎先生がかなり探求されたはず(佐藤吉栄氏談)だが、発表には差し支える事実もあったらしく、その資料は眠ったままになっている。時間が経っていつか出てくることを期待したい。
《二代目亀五郎は日本画を好み、川端龍子や横山大観の絵を集めた。昭和三年には川端龍子の後援会長を引き受け、日本橋三越の画廊で個展を三回開かせ、三回とも全部赤札にして育て上げた。横山大観の絵は、川端から目ききをしてもらって買った。
昭和六年に大観が屏風絵の名作「紅葉」を描いたとき、木の下の流水を表現するのに当時まだあまり使われていなかった描画材料のプラチナ泥を 使ったため、画壇や画商は工芸品とみなして認めなかったのを、亀五郎が二万四千円で買い取ったので大観はいたく感激し、お抱え表具師を連れて漆山まで訪ね てきたのだった。公務員の月給が五十円のころだから、二万四千円といえばざっとその五百倍にあたり、今の金額に直せば七千万円くらいになるだろうか。
後年(昭和30年)、多勢家が左翼の教唆による暴力的労働争議によって倒産に追いこまれたとき、多くの書画骨董品とともに「紅葉」も処分された。その後、島根県の足立美術館で問題の屏風絵が所蔵されているのがわかった。同美術館によると、その作品は、倒産した東洋バルブの創業者・北沢国男氏の収集品「北沢コレクション」 から昭和五十四年に購入したとのこと。それより以前の持ち主はわからず、これが多勢家旧蔵の作品であったという可能性も捨て切れない。》私は「紅葉」が多勢家にあった話を、丸一多勢家が実家の山栄酒造の奥様(タマちゃ/昭和2年生)から聞いた。足立美術館まで足を運んで見てこられての話だった。金上多勢家の倒産に伴う大観作品散逸の実態については、錦三郎先生がかなり探求されたはず(佐藤吉栄氏談)だが、発表には差し支える事実もあったらしく、その資料は眠ったままになっている。時間が経っていつか出てくることを期待したい。
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