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出雲行(3)足立美術館(下)足立全康のすごさ [メモがわり]

足立美術館春季特別展.jpg「春季特別展」ということで、「日本画家のつながり〜横山大観をめぐる人物相関図」と「足立美術名品選〜瞬間の美」の企画展があった。もうこれだけで腹一杯。2F横山大観特別展示室「春の横山大観コレクション選」に入る頃にはもうかなりで、約束の時間も迫る。近代日本画大展示室はあまり記憶がない。北大路魯山人室、河井寛次郎室は通り過ぎただけ。これではリピーターも多いにちがいない。

横山大観人物相関図.jpg「人物相関図〜横山大観を中心に」が貴重に思え、写真に収めたがはっきり写っていなかった。横山大観相関図focus_img01.png別のところにあった相関図貼っておきます)
大観は6歳年上の岡倉天心を心から尊敬していた。「私は実に岡倉先生から、厚い恩誼を享けてゐます。私の今日あるのは、骨肉も遠く及ばないほどの先生の真実の愛と、御鞭撻と御庇護とがあったからです。」と言って、老いて酒に酔っている最中でも、話が天心のことに触れると、たちまち威儀を正し、鋭い眼で相手を見守った。だから、大観の前では迂闊に天心のことは口に出せなかったという。その天心、明治19年、フェノロサと共に1年間海外出張、その帰朝演説でヨーロッパの美術に触れながら、今後の日本美術の進むべき道を説いた。「美術論者に四種類ある。第一、純粋の西洋論者。第二、純粋の日本論者。第三、東西並設論者即ち折衷論者。第四、自然発達論者。」として第一、第二、第三に反駁を加えた上、次のように言う。(近藤啓太郎『大観伝』昭和51年)

《以上三種の論消滅したれば、第四の自然発達論に拠ざるを得ず。自然発達とは東西の区別を論ぜず、美術の大道に基き、理のある所は之を取り、美のある所は之を究め、過去の沿革に拠り、現在の情勢に伴ふて開達するものなり。伊太利の大家中に在て参考すべきものは之を参考し、画仙の手法も之を利用すべき場合に於ては之を利用し、猶更に試験発明して、将来の人生に的切なる方法を採らんとす。是鑑画会が常に信行する主義にして、小生等が疑を容れざる所也。日本の美術家諸君よ、美術は天地の共有なり。壹東西の区別あるべけんや。宗派は弊の家宅なり。胸懐洞然以て精神を発達せば、必ず美術の妙に至らん。自ら信じて亦疑ふこと勿れ。美術事業、上は皇国の光栄に関し、下は貿易の消長に係れり。諸君の責任重し。世間の諸君に尽すべき義務も他日其重きを加ふべし。勉めて其精神を存養し、他日の大成を期せられんことを乞ふ。自ら信じ、亦疑ふこと勿れ大観は天心によってこの精神を叩き込まれた。足立全康DSC_1081.jpg足立全康が大観に共感した所以に通ずる。足立は言う《「大観の偉大さを一言で言うなら、着想と表現力の素晴らしさにあると思う。それは恐らく誰も真似できないだろう。常に新しいものに挑戦し、自分のものにしていったあの旺盛な求道精神が、その作品に迫力と深み、そして構図のまとまりの良さを生んでいる」》と。ずなわち、天心の言う「自然発達」。「自然発達」とはとりもなおさず、「自ら信じ、疑わず」(自灯明)に「ほんとうのほんとう」(宮沢賢治・吉本隆明)の道を進む(求道)こと。そこから自ずと生ずる「迫力」と「まとまり」。それが「美術なるものの要諦」ではないか。「天心→大観→足立全康」の図式が見えてくる。足立美術館とは、それ全体がまさにその実現であり、そこに行くことで全身全霊でそれ(美術の要諦)を体験する場なのである。室から室に移る間に見る庭園がそのための大きな役割を果していることは言を俟たない。足立全康という人を「たまたま当たった成り上がり者」視してしまうと、見えるものも見えなくなる。経歴のパネルをじっくり読んできたが、「ほんとうのほんとうの実践者」と見た。こうして書きつつ、あらためて強くそのことを思う。覚悟して、また行かねばならない。

足立美術館庭園DSC_1082.jpg足立美術館庭園DSC_1083.jpg

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