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mespesadoさんによる1億人のための経済談義(57)「日本衰退論」(12) 消費者から見た「小売業」 [mespesadoさんによる1億人のための経済講]

高校卒業後山形を離れ、10年ぶりに戻って地域と関わるようになったのは商工会青年部の活動を通してでした。「大店法」も「地元で買物キャンペーン」も、その立脚点はずっと地元商店(流通業者・店舗業者)側でした。だからいつも後追い、モグラ叩きでした。そうである限り先行き悲観論、おのずと心性はルサンチマンです。一方mespesadoさんの議論は、「消費者」側から見た小売業の変遷です。アマゾン登場の手前までです。次回どんなビジョンが見えてくるのか。ルサンチマンから自由になって明るい未来の構想へ。故飯山一郎師に率いられてきた「放知技板」、まさに面目躍如を思います。

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209:mespesado:
2019/03/16 (Sat) 22:01:23

>>170 「日本衰退論」の続きです。

 前回 >>170 では、流通業が都市部では消費地の近くに商店ができ、生産者から商店への物流があり、まず「輸送」してから「消費者による選択」がある、という順番で「生産者」と「消費者」を結ぶ「流通業者」「店舗業者」に対する秩序が保たれていた、という話をしました。
 さて、こんな秩序の中で、様々な種類の「大規模小売店」という存在が現れて、この秩序がどのように乱されていったかという歴史を綴った論文があります↓

わが国大規模店舗政策の変遷と現状
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/pdf/071604.pdf
 最初に登場するのが「百貨店」というあらゆるジャンルの商品を取りそろえた大型店舗の登場で、従来型の店舗が客との相対で値段がついて取引していたのが百貨店で「定価」を付けて販売するという形で、また出店も繁華街が中心で、主に「高級品」を扱うということで、従来の小売店と「棲み分け」をしていたわけですが、この秩序が「交通網の発達」という「技術の進歩」による洗礼を受けて“乱れて”いきます。
 日本の場合、鉄道網の発達で、今まで「繁華街」の機能を果たしていた人々の集まる拠点が、住居により近いところに多数できてくると、百貨店が大衆化してきた「スーパーマーケット」と呼ばれるようなセルフサービスと大量販売を武器に安い値段で販売できる新たな種類の「大規模店舗」が登場してくるようになります。
 こうなると、従来の小売店とはモロに競合するようになるので、大規模店舗の出店を規制する「大店法」が定められるようになってきます。
 時代は高度成長期ですから、消費はどんどん右肩上がりに拡大していますから、この規制の下でも大規模店舗は順調に売り上げを伸ばしていくことができるので、彼らも(もちろん従来店舗との間で綱引きはありますが)この規制を原則として受け入れます。
 他方で高度成長に続くバブル期には今までの都市部が住居で満杯なので、郊外に高級住宅街が発達し、商店も新しい土地を取得して、「今」の合理性のもとで店を開きますから、最初から大型の総合商店が次々に郊外に発達していきます。この場合は、もともと新興住宅地ですから「従来の小売店」というものが存在せず、彼らとの利害対立は生じないためこれはこれで秩序が保たれていました。
 さて、これらの秩序がやがて主として二種類の要因がもとで“崩壊”していきます。その一つはやはり「技術の進歩」の一つである「モータリゼーション」の発達と、今一つが「経済の相転移」です。
  自動車の普及は、地方都市で特に影響が大きく、市街地から郊外まで楽に移動できるようになると、郊外の大型店舗は旧市街地にある従来型の小売店とモロにラ イバル関係になっていきます。つまり今までは郊外だけで閉じていた郊外の大型店舗が「規模の優位性」で値段が安かったのが、モータリゼーションの普及で旧 市街地の相対的に値段の高い小売店舗の厳しい競争相手になっていきます。これじゃたまらん、ということで旧市街地の小売店からの圧力で「大店法」をより補 強しようという流れになっていくのですが、この流れを阻害する要因が発生します。それが「経済の相転移」の一つである「バブルの崩壊」で す。バブルの崩壊というと、なんか経済史上のアクシデントのように思うかもしれませんが、そもそも「バブル」というのが、限られた資源である不動産の取引 価格がどんどん高くなるというプロセスに過ぎないのですから、いつかは誰も買い手がつかない値段まで吊り上がればそこで高値が尽きて価格の崩壊を起こすのは「必然の流れ」ですから、これはアクシデントなどではなく、必然的な経済現象です。
 すると、今までは売り上げが右肩上がりだった大型店舗も売り上げが急落し、「大店法」の規制を受け入れる余裕がなくなっていきます。
 これだけならまだ双方の綱引きでうまく「落としどころ」を図る、というやり方が通用したのでしょうが、ここでまた「外圧」という新たな矢が飛んできます。
  一足先にモータリゼーションが発達した米国でも同じような大規模店舗と小規模な小売店の対立があり、小規模小売店はやはり日本の「大店法」のような規制で 保護されていました。米国でも経済の頭打ちからやはり日本と同じような問題が生じてくるのですが、米国の大型店舗には「海外出店」に活路を見出すという手 段に出るものが出てきました(日本の製造業が輸出に活路を見出したのと同じですね)。ところが彼らは世間にオープンに国会討論での法律の改正によるのでは ない、事前の「根回し」で「落としどころ」を図るという日本式のやり方が「参入障壁」に見え、日本の「大店法」に対して廃止するよう圧力をかけてきます。
 この結果、大店法は廃止され、従来の小規模な小売店は壊滅していきます。駅前のシャッター街が話題になったのもこの頃です。
 このように、時代は「従来型の小売店舗の消失」という犠牲のもとで、消費者が商品を購入する店舗が、従来の「商品の選択の余地が少なく」てしかも「値段が高い」小型店舗から「商品の種類が豊富」でしかも「値段が安い」大規模小売店にシフトした、という意味で大いにメリットを享受できるようになってきたことがわかります。
 そして、このようなメリットを消費者が得る至ったプロセスは、悲しいかな、消費者自身の「努力」によるものではなく、販売する側の都合によって得られたものである、というところが重要です。消費者は、それぞれの段階で選択肢が提示されたとき、自分らに都合が良い方を「選択」する、という形を「引き金を引く」という役割を果たしているだけです。
 また、更に悲しいことに、もし日本国内だけで閉じていたとしたら、大規模店舗と小規模店舗の間で消費者抜きで「事前根回し」で「落としどころを決める」という日本の“伝統芸能”で、消費者に満足のいく最適解は得られなかったでしょう。そして、この日本の“伝統芸能”を破壊してくれるのは、いつも「外圧」という名の“グローバリズム”なのです。グローバリズムを何でもありがたがっていた小泉改革の時は今にしてみれば異常でしたが、今日これの裏返しでグローバリズムそれ自体を悪いことと見做すのも逆の極論であり、特に日本では、消費者の利便性を「抵抗勢力」に対抗して実現してくれるありがたい助っ人としての役割を果たすことがある、ということは肝に銘じておく必要があるでしょう。
 さて、ここまでの流れは2010年に書かれた上記の論文の記述対象となる「第一次流通革命」の時代の話でした。そしてここからインターネットを通じた第二次流通革命とも呼ばれるような、Amazonがその主役となる時代に突入していきます。      (続く)

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