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「置賜発アジア主義」(6)雲井龍雄と内村鑑三 [アジア主義]

雲井龍雄と内村鑑三


対訳・代表的日本人index.jpg 戦後教育で叩き込まれた「民主主義」を至上とする考えは、自分の中にもしっかり根を下ろしています。だから、内村鑑三『代表的日本人』の鷹山公の章の序を読んだとき、「えっ」と思いました。《徳がありさえすれば、制度は助けになるどころか、むしろ妨げになるのだ。・・・代議制は改善された警察機構 のようなものだ。ごろつきやならず者はそれで充分に抑えられるが、警察官がどんなに大勢集まっても、一人の聖人、一人の英雄に代わることはできない》《本質において、国は大きな家族だった。・・・封建制が完璧な形をとれば、これ以上理想的な政治形態はない》。そして時間が経つうちに、投票箱に頼る立憲民主制より徳ある君主を得た封建制に信を置く内村の考えの方が、本来まっとうな考えなのかもしれないと思うようになってきました。
 その内村が雲井龍雄を評価する文章を書いています。
友田昌宏氏の著で知りました。
 《内村鑑三は「萬朝報」(明治30420日) の社説で、「起てよ佐幕の士」と題して「諸士に賊名を負はせ、諸士の近親を屠り、諸士をして三十年の長き、憂苦措く能はざらしめたる薩長の族ハ今や日本国民 を自利の要具に供しつゝあるに非ずや、若し雲井龍雄をして今日尚ほ在らしめバ彼等ハ何の面ありてか此清士に対するを得ん」と雲井を引き合いに出しつつ薩長藩閥の専制を批判し、「嗚呼諸士の蒙りし賊名を洗ひ去るハ今なり、諸士何ぞ起たざる」と「佐幕の士」に呼ぴかけた。彼らは内村の呼び掛けを待つまでもな く、このような思いをより深く胸に刻み付け、自由民権運動に邁進していたのである。》(友田昌宏「雲井龍雄と米沢の民権家たち――精神の継承をめぐって」『東北の近代と自由民権白河以北」を越えて』所収)

 雲井龍雄は自由民権運動の中に甦ったのです。

 雲井龍雄は版籍奉還反対の急先鋒でした。友田氏は龍雄の言い分をこう記します。
 
《封建体制が今日まで続いたのはそれなりの理由があってのことである。全国の諸侯が現在の版図に封ぜられ、位階を保持しているのは、一朝一夕のことではな く、・・・どんな愚鈍な藩主といえども、その土地と民を愛し、祖先の衣鉢を継いでその功績をおしひろげようとしないものはない。そして、家臣や領民もまた、そのような主君を慕っている。天皇家が万世一系、今日まで続いているのは、統治の一切をかかる武家に任せていたからである。もし君臣を引き裂き、諸侯 をほかの土地に移そうものなら身を擲って義に尽くすものはいなくなるだろう。薩摩藩は郡県論でもって私心を覆い隠そうとしているだけだ》
(同
安井息軒像.jpg
 まさに内村の思いに呼応します。龍雄のバックボーンは三計塾の安井息軒1799-1866の教えであり、それを裏付ける米沢藩の伝統、とりわけ鷹山公の存在です。安井息軒は天保13年(1842)に米沢を訪れ直江公、鷹山公の業績に接し読書余適その感動を記しています。このことから「直江公鷹山公安井息軒雲井龍雄内村鑑三」という系譜に思い到りました。そして、内村が『代表的日本人』を書いた時(明治27年刊)、内村の胸には雲井龍雄が躍っていたにちがいない、そう思えたのでした。

河上清1c8c0f20fde715d048bc3950957a78bc.jpg 雲井龍雄と内村鑑三(1861-1930)をつなぐ線上に、米沢生れの国際ジャーナリスト河上清1873-1949)がいます。河上が籍を置いた「萬朝報」で、内村は先輩として河上と深く関わります。さらに河上が米沢中学を出て上京し最初に頼ったのが曽根俊虎でした。曽根は同郷の有為の若者を寄宿させて面倒を見ていたのです。河上はアメリカに渡って日米言論の橋渡しを務めます。しかし日米開戦と同時にFBIから連行され スパイ視されるなど苦難に満ちた生涯をたどります。河村の生涯を描いた『嵐に書く――日米の半世紀 を生きたジャーナリスト』の中で著者古森義久は、河上の変転について《キリスト教に関心を持ち、英語を学ぶ。自由民権に共鳴して、自由の新天地アメリカにあこがれる。社会主義を信じて政党の旗あげまでするが、一転してアメリカに渡り、日本への愛国を誓う。日本が先導する「アジア人のアジア」を唱え、富国強兵を説く。日本の軍国主義を批判しながらも、アメリカに向かっては日本を断固として擁護する。が、開戦後はまた一転してアメリカ側につき、日本を糾弾する。戦後はソ連の体制を批判し、道義を説き、非武装中立を主張する・・・・・。》と記しています。また、戦後間もなく義姉にあてた河上の手紙があります。河上清一家.jpg 《健康だけは大切にしなければと最近つくづく感じています。健康のためにはあらゆる活動を犠牲にするのもやむを得ない。私はまだまだ生きなければならないからです。長く生きて日本が軍国主義のくびきを脱し、また豊かに栄えるのを見なければならない。「アジア人のアジア」という私の永年の理想が現実になるのを見なければならない。そんな新しいアジアでは、日本はまた先頭に立つ国となるでしょう。なんと言っても世界中の諸国が何世紀もかかって達成したことを半世紀でなしとげた日本が、貧弱な敗戦国のままで長くいるはずはありません。》アメリカに渡って時代の荒波に揉まれながら「アジア人のアジア」を言いつづけた河上清も「置賜発アジア主義」の流れに位置づけられるひとりでした。(つづく)

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1938年にイギリスで発行され、2001年に日本語訳が出た『シナ大陸の真相―1931‐1938』があることをいま知りました。下記評価がありました。 軍事評論家=佐藤守のブログ日記です。
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私は今、「大東亜戦争の真実を求めて」手当たり次第に各種の著書を乱読しているが、現在目を通している「シナ大陸の真相 (1931~1938)=K・カール・カワカミ著」は実に示唆に富んでいる。ラルフ・タウンゼントや、ジェームズ・R・リリーらの著書も素晴らしいが、問題はこのような大陸情報満載の書籍が、当時のわが国でどのように評価されていたのか?という点である。

「シナ大陸の真相」に至っては「昭和12年の暮れから13年の春にかけて、わが日本はその8年後の昭和20年8月に襲いかかることになる悲劇的な運命の最初の刻印を深くその身に打ちこまれることになるのだが、カワカミの観察はちょうどその転換期の時点に至ったところで筆を擱いている」と小堀教授が書いているように、この書は古森義久氏が『嵐に書く――日米の半世紀を生きたジャーナリストの記録(毎日新聞社・昭和62年)』という河上清評伝を入手した小堀教授が、福井雄三氏に翻訳を頼んで、平成13年に刊行されたものであって、全く戦中の情報としては生かされていなかったものである。

この書は当時ロンドンのジョン・マレイ社から出版されていたのだが、当時の在英日本人の目には留まらなかったのであろう。言うまでもなく英国は、007に代表されるような情報王国である。現在でもかなりの高度な各種情報は英国が握っているとみて差し支えない。

本書にある「コミンテルンの暗躍ぶりと、スターリン、毛沢東、そして蒋介石とのつながりを知っていれば、西安事件の影響は十分に理解でき、盧溝橋事件に引き込まれなくて済んだはずだ」というのが私の感想である。



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