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「置賜発アジア主義」(5)雲井龍雄と曽根俊虎 [アジア主義]

雲井龍雄と曽根俊虎

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雲井龍雄43dc652878e4f5a670f7d60ba9bd1ae8.jpg 曽根俊虎は三歳年上の雲井龍雄1944-1971)を敬愛して止みませんでした。尾崎周道著『志士・詩人 雲井龍雄』の最後の場面に、極めて印象深く曽根が登場します。  
 明治38月、雲井龍雄が米沢から東京に檻送され、小伝馬町の牢に送られる前の三日ほどを藩邸の獄で過します。名詩の誉れ高い「辞世」はここで生まれました。
  死不畏死  死して死を畏れず
  生不偸生  生きて生を偸(ぬす)まず
  男児大節  男児の大節
  光興日争  光、日と争う
  道之苟直  道苟(いやしく)も直くば
  不憚鼎烹  鼎烹(ていほう)を憚(はばか)らず
  渺然一身  渺然たる一身
  万里長城  万里の長城
            龍雄拝
 尾崎は言います。

雲井龍雄「辞世」.jpg 《この詩は述懐とも辞世とも題せられて伝えられてきたが、「渺然一身万里長城」と咄(とつ)と して、何故に万里の長城を龍雄が見るのか、長いあいだ疑問であった。真蹟の詩の終りに龍雄拝とあるのも解きかねていた。が、最近あるとき、フッと二つとも 疑いは消えた。それはこうだ。/  龍雄が獄中でこの詩をうたうとき、牢格子を隔ててこれを聴く一人の男がいたのである。その名は嘯雲曽根俊虎。この詩はまさに米沢の男が、米沢の男に志をつ たえる絶命の詞に他ならない。龍雄は、燈下ひとり剣に看た清国への想いはやまなかった。いま幽明相隔てようとするときに、二人の間に万里の長城はあらわ れ、延々とつづいたのである。荘厳な儀式というべきである。龍雄が死とともに天に騰ると俊虎は一躍して清国に渡って万里の長城の雲に(うそぶ)いた。》
 雲井龍雄27歳、曽根俊虎24歳、龍雄は俊虎に向けてこの詩を詠ったのです。
「心配しなくてもいい、間もなく迎えるであろう死を怖れてはいない
し、偽って生きながらえようとする気は全く持ってはいない。男の真直ぐな生き様が発する輝きは、太陽の輝きにも匹敵する。おのれの歩む道が真っ当なものならば、たとえ釜茹でになろうともかまわない。いずれとるに足らないこの身ではあるとはいえ心は勇躍せよ。勢いを以てさらに、身をも勇躍せしめるべし。狭い日本に留まるのではない万里の長城を思うがいい。」
 その前年(明治2年)秋、同志が集い解盟の宴を催した際、その折の心境を託して詠ぜられた詩があります。「會舊部局將校於。置酒更盟。酔後、賦之」、その一部を引きます。

  聞説八小洲外別有五大洲  聞くならく八小洲の外別に五大洲あり
  長風好放破浪舟  長風放つに好し破浪の舟
  鳥拉之山太平海  烏拉(ウラル)の山太平の海
  去矣一周全地球  去って一周せん全地球

  尾崎の釈、《聞くに日本の外には五大洲があるという、破浪の舟を長風に放ってウラルの山や太平洋と地球を廻り、各邦の俊傑と親しく語り、万国の名勝を観てしかる後、故郷に帰って松菊を伴とすることが出来れば、一世の能事は終りだ》——雲井龍雄にとっての「戊辰雪冤」の念の先は、アジアからさらにウラルを越え、勇躍世界へと羽ばたいていたのです。
  狭間直樹教授は、曽根の「万国公法」に基づく公平性を評価しました。「万国公法」といえば、雲井龍雄の有名なエピソードがあります。龍雄が 三計塾に在塾の折、師安井息軒から横浜に行って毛布を買ってくるように命ぜられます。ところが毛布を買う金で「万国公法」を求めて、帰って師に言うには 「さほど貴重とも思えぬ毛布よりも、この書物を先生に読んでいただいた方が国のためになると判断して買ってまいりました。」息軒は龍雄の判断を諒とし、そ の労を謝したというのです。「万国公法」を尊重する曽根の姿勢に、雲井龍雄の影を感じました。(つづく)


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