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「置賜発アジア主義」(7)宮島誠一郎と雲井龍雄 [アジア主義]

宮島誠一郎と雲井龍雄
友田講演会DSC_0383.jpg

 1014日「上杉メモリアルフェスタ戊辰戦争150年」 の一環として開催された、米沢御堀端史蹟保存会による友田昌宏氏(東北大学 東北アジア研究センター助教)の講演「雲井龍雄から受け継がれたもの〜米沢の民権家を素材に〜」は実に聴き応えがありました。後世雲井龍雄が広く世に知られるようになったのは、全国に広がった自由民権運動と共にであったことが、よく腑に落ちてわかりました。それから間もなく、友田著『東北の幕末維新: 米沢藩士の情報・交流・思想』が上梓され、一気に読ませられました。
 その「おわりに」で、幼少より深く交流あった宮島誠一郎と雲井龍雄とが対比されています。二人を分けたのは生来の気質個性に加え、それぞれが出会った師の存在でした。

宮島誠一郎img32.jpg 《誠一郎は慶応四年の戊辰戦争のおり、勝(海舟 1823-1899)と出会うことで、封建体制から中央集権体制へと国家意識転換の契機をつかみえたのであるが、龍雄は慶応元年に江戸に上り、安井息軒(1799生)の薫陶をうけることにより、その封建思想をいっそう強固で揺るぎないものとした。そして、それは戊辰戦争での探索周旋活動を経ても変わることがなかった。》

  二人は版籍奉還の評価をめぐって対立します。誠一郎が《天皇のもとに国家の統一をはかる方途だと理解し、名実ともに正しい行為と評価》するのに対し、心通う君臣関係の上に築かれた封建体制に重きをおく龍雄は、そこに薩摩の邪謀を見て、真っ向から反対します。時の赴くところ、新政府による見せしめの意もあっ たか、明治31226日、27歳にして雲井龍雄は刑場の露と散ることになります。《誠一郎のこの日の日記には、「雲井龍雄梟示」と記されるのみである。》誠一郎にとって、幕末の動乱を共に駆け抜けた同志雲井龍雄も、新しい世にあってはむしろ苦労の種であったのかもしれません。
  多くの詩に込められていた雲井龍雄の精神は、自由民権運動の中で息を吹き返します。《明治十年代、立憲政体を樹立すべく自由民権運動が全国的に隆盛を極めるが、その民権運動に身を投じた壮士たちが愛唱してやまなかったのが、龍雄の詩であった。》しかし一方、《誠一郎はと言えば、明治五年にいち早く立憲政体 の樹立を提唱したにもかかわらず、民権運動を蛇蝎の如く忌み嫌った。》なぜなら誠一郎にとっての立憲政体構想は、「君民同治」の理念の下に考えられていました。すなわち《立法権を君と民が分有することとしつつも、政府をあくまで天皇の代理者とし、その政府のもとに行政権を置こうとするものであった。》したがって《民権運動が目指す議院内閣制では、選挙でもっとも多くの人民から支持を得た政党が内閣を組織し、行政をも担当することになる。両者の政権構想が相容れないものであったことはここに明らかであろう。》

甘糟継成o0715108314339216313.jpg 実は、誠一郎の「君民同治」論は、米沢藩の偉材甘糟継成1832-1869) から得ていました。《「君民同治」の理念のもと議院を政権運営のなかに組み込むというこの構想は、誠一郎が継成から受け継いだものだったようである。継成が残した文書のなかに「君民同治政体表」なるものがある。そこに示された「君民同治政体」は、君主のもと、司法府・立法府・行政府を置き、立法府を上下両議院にわけるというものであった。殊に立法府についてはイギリス・フランス・ブロシャ・オランダの実態が、上下両院にわけて簡略に記されている。誠一郎はこれに着想を得て、自己の立憲政体構想を形作っていったのでないか。》継成には『鷹山公偉蹟録』(全211854-1862)があります。継成にとって「君」は藩主でした。時代が変わって「君」は天皇です。幕末から明治へ、その激動の最中にあって、宮島誠一郎には見えていたものが、雲井龍雄には見えなかった。しかし、龍雄にしても新しく変わった世を生きていれば、「民」への全権委任を求める自由民権運動よりも、誠一郎の「君民同治」論を支持していたと思えます。(つづく)


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