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汪兆銘という人に注目したい [アジア主義]

汪兆銘1944otyomei_001.jpg「置賜発アジア主義」と題して「懐風」原稿を書き進めています。これまでここで書いてきた事を一本に繋ぎ合わせればいいと簡単に考えて始めたのですが、まとめのところで難渋しています。そうしているうちに汪兆銘という人に行きあたりました。大東亜戦争が始まる前の年、といっても支那事変(日中戦争)の最中なわけですが、中国にできた南京国民政府。何となく名前は知っていても内実については全く無知。その中心人物が汪兆銘。この人、戦争が終わるや、その後は日本からも中国からも総スカン状態で、とりわけ新中国では「漢奸」の極み扱い。その人を、まず宮島大八の談話を通して知り、思いがけなく遠藤三郎中将とリンク。そうしているうちになんかだんだん感覚が合うような気がし出して親しみを感じるようになっていました。
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「九州発アジア主義」と「置賜発アジア主義」
 孫文は大正13年(1924)神戸で2000人の聴衆を前に「大亜細亜問題」と題する演説を行いました。
≪ 東方の文化は王道であり、西方の文化は覇道であります。王道は仁義道徳を主張するものであり、覇道は功利強権を主張するものであります。仁義道徳は正義合 理によって人を感化するものであり、功利強権は洋銃大砲を以て人を圧追するものであります。≫とし、公刊された演説原稿の最後は≪貴方がた日本民族は、既 に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の手先とな るか、或は東洋王道の防壁となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な選択にかかるものであります。≫と締められています。実はこの前日、孫文は頭山満と会談、満州をめぐっての意見の対立が明らかになっていたのです。「九州発アジア主義」は満州利権確保を狙う帝国ナショナリズムの側に絡めとられてしまっていました。満州権益をめぐる日中立場の違いが表面化しつつある中での孫文演説でした。
 しかし、歴史の現実から眼を背け、純なる「王道」的立場で「霸道」を断罪することはできません。孫文の言い分をそのまま諒とすることはできないのです。当時まだまだ貧しい日本にあって、満州はまさに「王道楽土」の可能性で輝いていました。孫文自体、かつて「滅満興漢」を革命のスローガンにしていた時には。満州は日本にまかせる考えでした。ところが革命成就とともに、満州は中国ナショナリズムの圏内に入りました。必然、九州発アジア主義は日本ナショナリズムと一体化、中国との対立関係に陥らざるを得なかったのです。その行動力、それゆえの政治性によって歴史に深くコミットしてきた「九州発アジア主義」と、むしろ文化的な「置賜発アジア主義」の分水嶺がここにあります。
 私自身岡山での寮生活に始まる九州人体験も踏まえて言えば、九州人の行動性、たしかにそれは、頭山満、内田良平、宮崎滔天の「侠」に通ずるイメージです。そして、九州が「剛」なれば置賜は「柔」。ただし、置賜の「柔」の根底には、藩祖謙信公以来の「スジを通す」感覚があります。根っこのところで「ヤワ」ではないのです。「置賜感覚」と言っていいかもしれません。大八はめったに怒るような人ではなかったはずなのに、木村東介に見せた怒りはその表れです。
 大八の中国観がわかる談話記録があります。 昭和15年1月13日、汪兆銘(精衛 1833-1944))による南京国民政府成立(3月30日)に向けた動きの中での談話です。
 《汪兆銘も今度は命を投げ出して出て来たのだから、日本もその点は認めてやらねばならぬ。決して支那人を馬鹿にすべきではない。寧ろ支那人が日本人を馬鹿 にし て居るかも知れぬ。馬鹿にされても何でも構わぬ、日本は正しいと考うる道を堂々と進んで東亜永遠の平和のために努力しさえすればよい。そうすれば支那人も きっとついて来る。日支人相互にその長所を認め合ってお互に尊敬して行けば必ず親愛の情が起って来る。一体日本人は余りに長い間西洋を尊んで支那を侮り過 ぎた。今こそ反省すべき吟である。支那人は利害問題では西洋人と親密になるが、精神的に結び着き得るのは同じ東洋人たる日本人ではあるまいか。日本人もこ の際支那を見直さねばならぬが、支那もその国本来の大学間たる漢文を復興してその歴史なり民族性なりを研究して自己を研くべきであろう。》「詠翁道話」 (富永覺『素描ー人と画とー」1969)
 大八のいかにも腰の据わった中国観が読み取れます。
 汪兆銘書.jpg後「赤の将軍」と言われながら平和運動に生涯を捧げた小松生れの遠藤三郎中将の中国観も宮島大八と通い合います。私から見ると、やはり「置賜感覚」です。
  《戦後私は毛沢東氏を始め中華人民共和国に多くの知己を得ましたが、私の見る所中国人はやはり数千年の文化の歴史を持つだけあってどこの民族よりもおとな の様であります。我々の学ばねばならぬ幾多の徳操を持っている様に思います。「他からは学んでも他に求めず、なし得れば他に与える」という心構えがあれば 人も国も争いは無くなるのではないでしょうか。》(『日中十五年戦争と私』1974)
 遠藤中将は、中支従軍中の記念として汪兆銘から掛軸を贈られています。帰国に際しては、リップサービスと言いつつ、政権の国防部長から「日本陸軍中もっとも親しみあり、かつ信頼し得る将軍だ」と評されたと記しています。
 汪兆銘は戦後の中国史の中で、日本の傀儡、売国奴、「漢奸」の極みとばかりに断罪されてきました。しかし最近、戦争によらない日中関係打開を模索した「愛国者」との評価が出ています。なんとか日中戦争の泥沼から脱け出そうという日本側の動きに呼応していたのです。「善意の平和主義者」との評価もある汪兆銘 に「置賜発アジア主義」との親近性を思います。日中両国で汪兆銘をどう理解してゆくかが、今後の日中関係良好化へ向けたメルクマールとなる、そんな気がします。

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