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米沢興譲館高校が今の場所になった理由(わけ) [教育]

平成24年11月に総会が開催されて以来、ずっとおとなしかった米沢興譲館高校同窓会宮内支部(山水克美会長)が、久しぶりに動き出しました。「とりあえず動き出そう」ということで、総会開催日が今年6月5日(水)に決まりました。会場は熊野大社證誠殿です。宮内に関わりある同窓生の方々、予定して下さい。今回は女性パワーに期待しての開催です。ひと味ちがう会になるかも。規約では「原則として宮内、金山。吉野。漆山、梨郷在住」の方が対象ですが、今住んでなくとも(出身者や転居した方)OKです。4月ぐらいに案内が届くはずです。その時、またここでご案内しますので、届かなかったらご連絡下さい。

興譲館130周年記念誌.jpg平成28年12月31日発行という立派な「創立130周年記念誌」をいただきました。「母校が生んだ先人」としてA4判17ページにわたって、明治13年(1880)入学から平成21年(2009)卒まで、ざっと500人ぐらいの同窓生の名前があがっているのが壮観です。その他に少佐以上の海軍、大尉以上の陸軍も。海軍は藩校興譲館まで含めると大将が3名、中将12名、少将9名。陸軍も中将7名、少将10名です。工藤俊作e46e671b.jpg海軍の大正9年に「工藤俊作 海軍大佐(海兵51期)駆逐艦「雷」艦長」とあるのがうれしい。(2010年、高畠の安久津八幡に顕彰碑建立

42年前の昭和52年「興譲」22号に掲載された座談会「興譲館の教育を語る」の転載が読み応えある。大井魁先生が校長の時(昭45.04~昭55.03)で、大井先生の貴重な発言があった。

興譲館の教育を語る.jpgひとつは大熊信行博士(明治45年卒)が語ったこと。

《大井 米沢の人が、先生を大切にするということのエピソードを一つ紹介したい。興譲館卒業で、現在八十三才の経済学博士大熊信行先生が、ある時 私にこういう話をポツンとされたんです。/ 大熊先生が経済学を学んだ先生はもう歴史上の人物です。福田徳三先生(明治七年?‐昭和五年)。ずっと前にお亡くなりになりました。大熊先生は、その福田先生のお墓に、毎年必ずお参りしておられる。ところがある時、未亡人が言われるには、お弟子さんがたくさんいる中で、毎年欠かさず墓参りしてくれるのは大熊さんだけである。大熊先生は、はてな自分はそんなに先生を大事にしているか、そうだとすれば、それは自分の個性にちがいないと思っていた。しかし、あるとき気がついた。それは自分の個性ではなくて、自分が育った米沢という地域の特性である。米沢で育ったものだから、知らずして自分はそんなことをしていた。米沢ほど師を大事にする土地はない。自分が恩師を大切にするのも米沢に育ったおかげである、と大熊先生は語られたのです。》

大井先生には『細井平洲』の著がある。大熊博士も細井平洲先生を念頭に置いて語られたと思う。

もうひとつが「興譲館の将来構想」についての発言。座談会のまとめにもなっている。

《大井 今までお話しを伺った輝かしい歴史のある興譲館に現在動めている我々にとって、将来の興譲館の構想を樹立するのは、大切な義務だと思っております。/ 先程、明治の初期に本校から多くの人材が育っていった、それはどうしてだろうかというお話しがあり、今泉先生は、貧乏だから世に出るには、勉強するほかはなかったのだとおっしやった。松野先生がつけ加えて、能力のある者がたくさんいたとおっしゃった。私は、それにもう一つつけ加えたいのです。/ それは何かというと、旧藩時代の興譲館は儒教教育ですから、治国平天下の学、経世の学という思想が根底にあった。自分のために勉強するんじゃなくて、世の中の役に立つ、人のために役に立つ、明治になれば国のためにお役に立つんだという意識が強かった。その結果、国のために役に立つような人材がつぎつぎに出たんだと思うわけです。/ 徳川時代の学問思想は、経世の学と処世の学とに二分類できると思う。/ 武士の学校藩校は前者であり、町や村の塾や寺小屋は後者処世の学だった。昭和五十一年の現在の教育界の風潮は、だいたい、”処世の学”に傾いていて、自分一個の将来のために勉強する意識が強い。しかし興譲館は、藩校時代の意識を受けて、人のため世のため国のため、そして現代では広く人類のために自分が勉強する、世の中のために役立つような人材をつくる、というのを教育の目的にしなければいかんと考えております。/ 日本の将来社会は、高度な専門化社会、高度な知識社会である。その将来社会で役に立つためには、高度に専門的な知識技術を身につける必要がある。そのためには、国民一般として必要なレベルの教育と、将来の専門の方向にその人の個性をのばしていく教育とが、合せ行なわれなければならない。現在は、在学の三年間、どの生徒も同じ内容の勉強をしているのですが、将来は、基本的な共通学習のほかに、自分の得意領域を存分に伸ばしていく教育をしたいものである。そのためには、一クラスずつの授業という考え方を修正いたしまして、ときに百人ぐらいの単位で教える場面もあり、四・五十人の単位で教える場面もある。十人内外で、先生が中に入って勉強していくこともあり、ひとりで勉強することもある。そういうことが可成り自由に行われるシステムにしたいものである。例えば、数学が得意な者は、早いうちからその能力を伸ばすべきである。早いうちに伸ばさないと、将来伸びるべき者が伸びずに終ってしまうことがあるわけです。そのためにはこれまでの講義のほかに、資料・参考書・教育機器を駆使して、生徒が自らの意欲で学ぶということを、相当に大巾に採り入れていかなければなるまいと思っております。/ 以上述べたこととならんで、大切なことですが、それぞれの能力をつかって人のため世のためにつくすという使命意識を育てていきたい。道徳的な倫理的な訓練は、是非若いうちにしなければならない。教育には従来もそういう要素はあるわけですが、それをもっと自覚的にやっていく必要があるだろうと考えております。/ それから人材育成の一つの要素として、体育を重視したい。人間の活力の源泉は体力である。また体育スポーツは人間形成に貢献する。現在も出来るだけそういう方向を重要視しているが、将来は生徒全員が、それぞれの持っている体力・性格・考え方にもとずいて、いろんな種類の体育活動ができるような教育をしなければならないと考えます。/ 以上の要素は、古来からいっている知徳体である。これが実現できるような教育構想とそれに対応するところの施設を構想していくべきである。実は同窓会の名誉会長さん、同窓会長さんその他みなさんのご指導を得ながら、そういう構想の実現に近づきつつあるわけであります。学校というのは人間を鍛える場所であり修業する期間であります。学校は、ごみごみした街の中にあるよりは、世俗を離れた、緑の豊かな、広大な空間に立地するのがよいのではなかろうか。幸いに以上のような構想は、中学校、小学校段階で、米沢市において実現しようとしておりますので、それをうけて興譲館においても実現していく、小中高一貫の方向を研究してみたいということでもあります。/ それから、教育の原理は、将来においても師弟の原理に立脚しなければなるまいと思います。教育における師弟の原理は、古代から現代、未来にいたるまで教育がある以上変りないのだろうと思います。師弟の原理は「学則」の細井平洲先生の書かれた八十字に書きつくされているわけです。その最初の二行に、先生が生徒を教える、生徒はそのご指導に従う。虚心坦懐心を白紙にして教わったことを徹底して勉強する。これが弟子たるものの心得である。生徒が無条件に先生の教えに従うのがよいというには、先生の人格と識見と指導力がそれに値いしなければならない。学則は、そういう意味を含んでいる。学則のこの原理は、どんなに教育方法が新らしくなろうと、どんなに施設がすすもうと、見失ってはならない大事な点であろうと考えております。/ 興譲館の将来の方向を以上のように見定めて、鋭意研究中であります。》

この後、我妻栄博士と同級の大正3年(1914)卒で、同窓会名誉会長の高橋與市氏の次の発言がある。

《高橋 私は旧制一高のような全寮制をとりたいものだと思います。広大な自然のなかで、寝食を共にしながら、自治の精神を培い、互いに人格を磨きあげていく・そんな制度が採れないものかと思っているのです。》

一昨日の会合出席者は全員関東町にあった旧校舎出身、「何で今の場所に行ったんだべね」の話が出た。大井先生から直接「全寮制のつもりだったが、どうしても法律的にクリアできなかった」と聞いたことがある。この座談会が全寮制に向けた地ならしだったのかもしれない。今の場所に新校舎造成が始まったのはこの座談会の8年後、昭和61年だった。土地が決定してからの全寮制断念だったのだろう。大井先生残念そうに語られたのを思い出す。20年ぐらい前のこと。





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