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『東北の幕末維新: 米沢藩士の情報・交流・思想』(友田昌宏)を読む(承前) [雲井龍雄]

10月14日の友田昌宏氏講演「雲井龍雄から受け継がれたもの〜米沢の民権家を素材に〜」は、私にとって雲井龍雄を歴史の流れの中にきっちり位置づけることができたということで意義深い講演だった。そしてこのたび『東北の幕末維新』を読んで、宮島誠一郎の視点で見た雲井龍雄が像を結んだ。この著「おわりに」は次のエピソードで締められる。

明治22年、雲井龍雄は恩赦によって罪を解かれ、自由民権の流れの中であらためて評価の声が上がる。《大蔵大臣や逓信大臣を務めた渡辺国武(1846-1919)は、そういった声の主の一人であった。明治三十年、誠一郎は龍雄から贈られた書簡を巻子に表装しているが、その際、この渡辺に題辞を嘱している。渡辺が誠一郎から示されたのは、明治三年正月十四日、龍雄が帰藩を前にした誠一郎に贈ったあの書簡である。》「あの書簡」とは、龍雄がこれから起るであろう大波乱をほのめかしつつ、自ら暴挙を企て主家に迷惑をかけることはないので自分を制約しないようにとの長文の手紙だった。(早稲田大学図書館蔵で安藤英男の『雲井龍雄全伝』には未収)これを一読するや渡辺は、太古の昔、李陵が蘇武に贈ったという書に思いを馳せた。李陵と蘇武は友人同士で、ともに漢に仕えて匈奴攻略にあたったが、李陵は匈奴に投降して将軍となり、蘇武は匈奴に捕えられ、李陵から投降を勧められるも最後まで節を屈しなかった。渡辺が想起したのは、蘇武が釈放されて故国に帰るとき李陵が贈った書のことである。そして、渡辺は行間にすっかりあらわとなった鋭い槍のきっさきのごとき圭角に故人の悲劇の遠因を見て歎いた。/ 渡辺は言う、「世人は往々にして雲井氏を一壮士、一侠徒の行いを為したに過ぎぬと思っているようだが、ああなんたる浅慮か。かの人は一世の偉人と断言しうる。雲井氏は胸中に寛大さを欠き、用いる手段に穏当さを欠いたがためについに刑に触れた。いうなれば、年若く血気盛んでいまだ深く時勢を解せなかっただけのことである。もし涵養するに数年をもってすれば、その才気は熟練され、造詣は計り知れぬものとなったであろう」と。》明治以降雲井評価の定まったところだ。だが、誠一郎はこれとは少しく違った見方をしていたようである。》と著者は言う。《「巻末に余白があるので翁も一筆加えられたい」と渡辺から慫慂された誠一郎は、巻尾に次のような文を寄せている。「この雲井の文はただに結論の段をはっきり言わないばかりか、意は斬新で、文は歯切れがよい(さながら禅問答のょうだ)。禅の古刹に入ってこの手腕を振るえば、一世の文士たりとて意気を挫かれ色を失うであろう。感ずべきである」。龍雄の刑死はあたら文士気質の彼が政治に身を投じたために生じた悲劇だと考えたのである。》雲井の生涯を見尽くした上での評価である。肯んぜざるを得ない。

宮島誠一郎img32.jpg宮島誠一郎写真.jpg一方、宮島誠一郎、掛け値なしの「まっとうな人」と思う。だれからも信頼された人に違いない。その肖像からもその人柄が伝わってくる。宮島誠一郎書.jpg書もゆったりしていて気持ちいい。「上林當苑翠光舒 朝夕欣欣楽有餘 一気直須通御座 五雲咫尺是皇居  甲戌五月移居麹街 養浩堂即興栗香書」【上林(じょうりん)苑に当って翠光舒(の)び 朝夕欣欣として楽しみ余り有り 一気直ちに須らく御座(ぎょざ)に通ず 五雲咫尺(しせき)是れ皇居  甲戌五月移居麹街 養浩堂即興栗香書。
(訳)皇居の御苑、そこにみどりの光(樹木を照らしている光)が、のびやかにあたっている。朝夕よろこばしく、十二分に楽しい。ここから一直線にすべてが天子の玉座に通じている。五色の瑞雲がまぢかにたなびく、そこがすなわち皇居なのだ。甲戌(明治7年 1874)5月、住居を麹町に移す。養浩堂の興趣、栗香書す。】(上杉博物館「宮島家三代」展図録)

明治12年宮内庁御用掛に就任し、帝室典範の制定にも取組むなど皇室との関わりが深かった。「大体俺の親父は詩吟が好きで、今の詩吟などは本当のものではないといって、よく皆を集めて吟じて聞かしたものだ。その中それが段々、人に知られて、当時長く宮内省に出仕していたものだから、明治天皇が宮島の吟声を聞きたいと仰言って、親父は李白の『七徳ノ舞』と頼山陽の楽府の中の一つと、例の『静や静しづのおだまき繰り返し、昔を今になすよしもがな』という歌と三首吟じたところ、大層お気に入って、それから屡々陛下の御用を仰せつかったということだ。」と、息子の宮島大八(詠士)が語っていたという。(『百周年記念誌 山上学話会のあゆみ』平成5年)

友田氏は「おわりに」の冒頭、宮島の生涯を評して《宮島誠一郎は明治四十四年(一九一二三月十五日、七十四歳でこの世を去った。新政府の諸職を歴任し、貴族院議員として天寿を全うした。出世こそしなかったものの、彼が最後まで官に身を置くことができたのは、幕末維新期の探索周旋活動でつちかった鋭い状況判断能力と幅広い人脈があったればこそであろう。》(226p)と書く。「出世こそしなかった」というが、上昇志向的感覚とは無縁だったのだろう。まさに「戊辰雪冤」こそが生涯の課題だった。

雲井龍雄が名をあげたのは死後10年を経てだった。一方宮島誠一郎(1911歿)は100年を経てようやく世に広く知られ評価されつつある。折しも、友田氏は自らの研究紹介宮島は19~20世紀の東アジアへと私を誘おうとしている。》と書いているが、まさにその東アジアが動き出している。今朝読んだ「文殊菩薩」《日本と韓国とロシアの共同出資により、北方四島を含め極東に海底通信ケーブルを新たに整備しようとの計画が持ち上がっている。/これも、朝鮮半島和平に伴い極東の経済交易を活発化させるための、交通・ガス・電気・通信網などのインフラ整備の一環であろう。/電気に関しては、孫正義がモンゴルの砂漠地帯を太陽光発電パネルで覆い、スーパーグリッドで日本まで電気を引く計画を打ち出している。/また、鉄道と高速道路は中国の「一帯一路」とロシアのシベリア鉄道が朝鮮半島縦断鉄道と接続して、日本まで伸ばす案が出ている。》とあってゾクゾクした。宮島誠一郎だけではない。「アジア主義と置賜(3)その源流 雲井龍雄」で書いたことがあるが、雲井龍雄にしても夢は東アジアに羽ばたかせていたのだ。二人が動き出している。後押ししているのが鷹山公だ。

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