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『東北の幕末維新: 米沢藩士の情報・交流・思想』(友田昌宏)を読む [雲井龍雄]


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甘糟継成(1832生)宮島誠一郎(1838生)雲井龍雄(1844生)、米沢藩士として激動を共に生きつつ、その時々それぞれが記した貴重な記録が残る。著者は、未公刊資料も含めてすべてを読み込んだ上で、三者三様の行動と思いを浮かび上がらせた。後に「明治維新」として括られ解釈評価される以前の、時代の空気がそのまま伝わる。そして三者三様それぞれの必然が観てとれる。

雲井龍雄に思い入れのある者にとってはいささか辛いが、「おわりに」で幼少より深く交流あった宮島誠一郎と雲井龍雄とが対比される。二人を分けたのは生来の気質個性に加え、それぞれ出合った師の存在である。勝海舟像.jpg《誠一郎は慶応四年の戊辰戦争のおり、勝(海舟 1823生)と出会うことで、封建体制から中央集権体制へと国家意識転換の契機をつかみえたのであるが、安井息軒像.jpg龍雄は慶応元年に江戸に上り、安井息軒(1799生)の薫陶をうけることにより、その封建思想をいっそう強固で揺るぎないものとした。そして、それは戊辰戦争での探索周旋活動を経ても変わることがなかった。》(227p)

二人は版籍奉還の評価ををめぐって対立する。《天皇のもとに国家の統一をはかる方途だと理解し、名実ともに正しい行為と評価》した誠一郎に対して《龍雄にとって版籍奉還は、封建体制はもちろんのこと、藩主と藩士のあいだに育まれた君臣の情誼などそこに息づくすべての価値観を圧殺するものであり、それらを固守しようとする彼には到底受け容れがたい選択であった。それどころか、彼の目には、王土王民の名のもとに政府に権力を集中し、覇権を握らんとする薩摩の邪謀とさえ映じたのである。かくして、彼は一途に薩摩への憎悪を増幅させていく。》(228p)そうして明治3年12月26日、龍雄は刑場の露と散る。《誠一郎のこの日の日記には、「雲井龍雄梟示」と記されるのみである。》(225p)新しい世にあって、誠一郎にとって雲井龍雄は苦労の種であったのだ。

数多く遺した詩に込められていた雲井龍雄の精神は、自由民権運動の中で息を吹き返す。《明治十年代、立憲政体を樹立すべく自由民権運動が全国的に隆盛を極めるが、その民権運動に身を投じた壮士たちが愛唱してやまなかったのが、龍雄の詩であった。》(230p)しかし一方、《誠一郎はと言えば、明治五年にいち早く立憲政体の樹立を提唱したにもかかわらず、民権運動を蛇蝎の如く忌み嫌った。》(231p)なぜなら誠一郎にとっての立憲政体構想は、「君民同治」の理念の下にあった。すなわち《立法権を君と民が分有することとしつつも、政府をあくまで天皇の代理者とし、その政府のもとに行政権を置こうとするものであった。》したがって《民権運動が目指す議院内閣制では、選挙でもっとも多くの人民から支持を得た政党が内閣を組織し、行政をも担当することになる。両者の政権構想が相容れないものであったことはここに明らかであろう。》(231-232p)

実は、誠一郎の「君民同治」論は甘糟継成から得ていた。《「君民同治」の理念のもと議院を政権運営のなかに組み込むというこの構想は、誠一郎が継成から受け継いだものだったようである。継成が残した文書のなかに[君民同治政体表」なるものがある。そこに示された「君民同治政体」は、君主のもと、司法府・立法府・行政府を置き、立法府を上下両議院にわけるというものであった。殊に立法府についてはイギリス・フランス・ブロシャ・オランダの実態が、上下両院にわけて簡略に記されている。誠一郎はこれに着想を得て、自己の立憲政体構想を形作っていったのでないか。》(229-230p)継成には『鷹山公偉蹟録』(全21巻 1854-1862)がある。その流れを受けたにちがいない内村鑑三の『代表的日本人』「上杉鷹山」の章の序にこうある。《徳がありさえすれば、制度は助けになるどころか、むしろ妨げになるのだ。・・・代議制は改善された警察機構のようなものだ。ごろつきやならず者はそれで充分に抑えられるが、警察官がどんなに大勢集まっても、一人の聖人、一人の英雄に代わることはできない》《本質において、国は大きな家族だった。・・・封建制が完璧な形をとれ ば、これ以上理想的な政治形態はない》。徳ある君主を得た封建制に信を置くというのは、まさに謙信公以来鷹山公を経て米沢藩に伝わる基本的エートスではなかったか。してみれば、雲井龍雄にとってもそれはまさにそうであった。それがあっての師安井息軒への傾倒であったにちがいない。そもそも安井息軒は鷹山公の実家高鍋藩の隣藩飫肥藩の出、鷹山公の治政を追って米沢を訪ねてもいる。鷹山公を範とするところの理念の共有を思う。

戊辰後10年経った明治11年(1878)、イザベラバードはこの地を訪れこう評した。《 米沢平野は・・・全くのエデンの園である。・・・実り豊かな微笑する大地であり、アジアのアルカディヤ(桃源郷)である。彼らは葡萄・いちじく・ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。》鷹山公没して半世紀を超えてなお、その善政の成果がこの地に確かに息づいていたことの貴重な証言に思える。しかし戊辰の役が米沢藩の精神に与えた傷は深かった。その傷にどう始末をつけるか 、宮島誠一郎、雲井龍雄それぞれの道を選び、それに続く者がつくった流れもある。それにしても、150年経ってまだその傷が完全に癒えたとは言い難い、そう思う。 この期にあって、あらためて当時の空気を直に伝える三者に思いを致すことのかけがえのないありがたさを思う。タイムリーな好著。



 

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