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mespesadoさんによる1億人のための経済談義(37) 日本人の労働観(→オカネ観) [mespesadoさんによる1億人のための経済講]

日本人は労働、汗水たらして働くことを「尊いこと」と考える。》文句無しの大前提です。その結果の今ともいえるわけでそれはそれでありがたい。しかしこの文句無しの大前提をいったん脇において(相対化して)、「生きることにおいて何が大事なのかを考えてみよう」という提案にも思えました。

7月4日にこう書いていました。mespesado理論の先に見えてくるのはベーッシックインカム(BI)、そんな思いがあって『AI時代の新・ベーシックインカム論』(井上智洋著 光文社新書 2018.5)を読んだ。最終第5章も終わり近く、そこに著者の思いが集約されていた。いわく、社会保障制度を変革せずにAIのみが高度に進歩した未来の経済はディストピアになるが、BIを導入し、これを反転させてユートピアにすることも可能だ。/ そもそもユートピアとは、資本家による搾取がない社会というよりも、労働が必要なくなった社会であると考えられる。労働こそが人間に疎外をもたらす根本要因だからである。》(272p) 前章まででベーシックインカムが制度的財政的に、それこそ「やる気次第」で十分可能であると納得させられるのだが、BI実現には制度整備と並行して意識改革を伴わねばならない。すなわち、「労働」観の転倒である。》

そしてハンナ・アーレントにつながります。人間の営みを「労働」「仕事」「活動」に分けて考えたというハンナ・アーレントの説が 紹介されるが、よくわかる。マルクスによって極みまで高められた商品生産のための「労働」を高みから引きずり下し、永続性あるものの制作を目指す「仕事」 と、人間としての正体を明らかにした社会的営みとしての「活動」の価値こそ上位に位置づけるべきというのだ。そうして開けるのがユートピアへの道である。》

先日安藤昌益をハンナ・アーレントに対応させる議論を見つけました。昌益研究家 東條栄喜氏の「安藤昌益とアーレントの“活生”論・初探〜昌益の「活真道」とアーレントの「活動的生」〜」です。いわくアーレントのいう「活動的生」、昌益のいう「活真人」という目標概念に向けての生き方として“活生”という用語を思い立った。表記上は日常用語としての“生活”の語をひっくり返しただけの用語だが、毎日を慣習的・惰性的に生きる意味で無く、こうした意識性を込めた語として、両思想家の提起した生き方を簡潔に表現できると思う》(「巻頭言」)

慣習的・惰性的でない生き方とは。この前の土曜日(10月13日)のNHKスペシャル、元気で長生きの秘訣は「食事」でも「運動」でもなく「読書」であることが最新のAI技術によって明らかになったと報じていましたが、関連あるかもしれません。

*   *   *   *   *
77:mespesado :
2018/10/20 (Sat) 18:55:10

 日本では、エリートのミッションは、自分の属する組織において伝統的に「権威」とされてきたことの「尊さ」を守ること。
 その権威の「正しさ」が論理的、実証的に保証あるいは証明できるかどうかは本質ではない。ただただ、その権威の尊さを守り切ればよしとし、逆にその尊さを守れなければ、たとえ世のため、人のためになっても評価されない。

78:mespesado :
2018/10/20 (Sat) 18:55:39

 日本人は労働、汗水たらして働くことを「尊いこと」と考える。
 これに対し、西洋では…というより、日本以外では、労働とは生活のための「必要悪」だから、できれば避けたいもの、と考える。だから、古代ギリシャでもローマでも、労働は奴隷に任せて「市民」はもっと「尊い」ことで日々を過ごすことがよいとされた。
 そんな中でも、アングロサクソンのピューリタンだけは労働それ自体に意義を見出した。戦前の日英同盟とか、皇室の英国皇室との親密な関係はそれが反映していると見做せる。ただし、日本人のそれがアングロサクソンを含めた西洋人と違うところは、労働の尊さを「自分で評価する」のではなく、他人が評価する、というところにある。だから日本では、いくら自分で意義があると思ったことをしても、他人がその意義を評価しないと「仕事をしている」とは見做されない。
 次に、日本では、「オカネ」とは、「尊いものと引き換えで手に入れるべきもの」と考える。だから、日本では不労所得を嫌い、楽して儲けることを軽蔑する。また、尊さは自分で評価すべきことではないので、自分から労働の対価としてオカネを要求することを「はしたないこと」だと思う。「オカネは汚い」という思想はこの延長線上にあるし、日本でブラック企業がはびこるのも同じ理由である。
 また、税金についても、「公務員が尊い労働をして国民に奉仕する」ことの対価として払うことに何の疑問も感じないし、逆に(政治家を含む)公務員が税金で「私腹を肥やす」ことに対しては烈火のごとく怒る。
 こんな国民性のもとで、「オカネは国家が勝手に発行している数字に過ぎず、税金もインフレを防ぐために回収しているだけのことに過ぎない」などと言っても、あまりに彼らのメンタリティーと違い過ぎて理解されるはずもない。
 嗚呼…。

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めい

mesさんの議論に関連して、日本人・日本語の原イメージがくっきりと画かれる貴重な文章が亀さんによって紹介されました。

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100 名前: 亀さん
2018/10/22 (Mon) 09:24:30 host:*.t-com.ne.jp
>>78
mespesadoさん、貴重な投稿ありがとうございます。

>  日本人は労働、汗水たらして働くことを「尊いこと」と考える。
>
>  これに対し、西洋では…というより、日本以外では、労働とは生活のため
>
> の「必要悪」だから、できれば避けたいもの、と考える。

仰せの通り。そうした日本人の労働観については、小生も拙ブログに書きました。まさに、「この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめの田草とるなり」ですね。
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1532.html

現在、「飯山史観」の編集作業を少しずつ進めていることもあり、mespesadoさんの>>78の投稿を読み、世界でもユニークな日本人の労働観は何処から来ているのかと、仕事の合間に思索をめぐらせていました。母語はその人の物の見方・考え方を根底で支配していると考える身として、目にしたのが天童(竺丸)さんの『みち』(9/1号)の記事でした。少々長くなりますが、日本人とは何かについて考える上でのヒントが書かれているので、一読していただけたら幸いです。

****************
もともと日本列島には単一民族が住んでいたのでもなく、単一言語が話されていたのでもない。有史以来の日本列島には系統を異にするいくつかの民族が地域ごとに纏まって住んでいた。言葉もそれぞれに異なっていた。
ところが縄文時代一万二〇〇〇年の間に、何度もの大災害に見舞われることにより、かつまた列島全体および沖縄諸島はもちろんのこと黄海を囲む朝鮮半島南部から山東半島までをも網羅する広範な交易ネットワークに結ばれることにより次第に一体化を強めていき、今からほぼ七〇〇〇年前の縄文中期には日本語の核となる「日本語祖語」が形成されてきた。
その日本語祖語は北方言語と南方言語が混然一体化を遂げた奇跡の言語であった。構文(シンタックス)は言葉そのものを活用・屈折させニュアンスを表現する印欧語系統の屈折語ではなく、助辞を補うことによって言葉と言葉の関係を明確にするという膠着語の系統を引き、北方ツングース語と密接な関係にある。そして語彙には南島祖語(原始アウストロネシア)語に系統を曳く夥しい言葉があって、濃やかな感情表現には接頭辞強調による段階変化(例えば、あか、まっか、まっかっか)をそのまま採用している。
乱暴に言えば、北方からマンモスを追って日本列島にやって来た狩人たちが気候変動によって大型動物が絶滅して食うに困っていたところを、黒潮に乗って台湾からアリョーシャン列島まで自在に行き来していた生活力旺盛な黒潮の民に助けられ、一緒に仲良く暮らすことになった。……まぁー大雑把にはこんな具合だったのではないだろうか。
異なる言葉が一つになるなどということは世界の言語に例がなく、まさに奇跡としか言いようがない。例えば、「~する」という言葉。この言葉は何にでもくっついて、その言葉を動詞化する。読書+する、工作+する、睡眠+する、などの言葉に違和感を感じる人はもはやあるまい。ところが、映画+する、ポケモン+する、などはまだ多少変な感じを伴うが、意味が通じないわけではない。たとえ外国語であっても、「~する」はお構いなしにくっついて、日本語化してしまう。プレー+する、サポート+する……。
何でも受け容れて自家薬籠中のものにする。こんなに包容力に富んだ自由闊達の、滅茶苦茶な言語は世界中にも日本語の外はない。
もちろんそれは、一朝一夕はに成し遂げられた奇跡ではない。系統の異なる言葉と言葉を相通じるようにするという創意と工夫が途方もない時間を掛けて不断に行われた結果である。それを促したのが、否応なしに襲ってくる自然の大災害だった。
****************

つまり、mespesadoさんの以下の記述…、

> 西洋人と違うところは、労働の尊さを「自分で評価する」のではなく、
>
> 他人が評価する、というところにある。だから日本では、いくら自分で意義
>
> があると思ったことをしても、他人がその意義を評価しないと「仕事をして
>
> いる」とは見做されない。

このあたりの背景が天童さんの記事に述べられていると思います。

現在は天童さんのツラン研究に取り組んでいますが、飯山史観の完成には欠かせぬ作業と確信しております。

亀さん@人生は冥途まての暇潰し


by めい (2018-10-23 04:28) 

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