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友田昌宏氏講演「雲井龍雄から受け継がれたもの」(承前) [雲井龍雄]

友田講演会DSC_0383.jpg友田昌宏氏講演「雲井龍雄から受け継がれたもの〜米沢の民権家を素材に〜」、どうしても聞いておきたくて質問に立ちました。

《今日のご講演、米沢にとって歴史に残る講演だったなあということで非常に感動的に聴かせていただきました。ありがとうございました。それでひとつ質問したいことがあります。「明治3年、雲井龍雄が芝の上行寺・円真寺を借り受け、配下の浪士を収容する寺に『帰順部局点検所』の表札を掲げ、政府には浪士たちを天皇の身辺を警護する親兵として採用されたいと歎願を繰り返すことになった」、そのことについて、「親兵になって政府から武器の支給をうけた後に決起、政府要人を暗殺し、『郡県の御制度』から再び『封建の御旧制』に復そうとする計画だった」と先生は言われましたが、その本気度はどれぐらいのものだったか。あるいは時の勢いの中でそんなことを考えたかもしれないけれども、現実の問題として今食うにも困っている浪士たちを何らかの形で救わなければならないという当面の課題に直面してのことだったのではないか。つまり、雲井龍雄の処刑は見せしめのためのこと、要するに冤罪だったのではないかという印象をもっているのですが、その辺について先生のお考えを御聞かせ下さい。》

一部うまく聞き取れないところもあるが、丁寧な答えをいただいた。
友田昌宏氏.jpg《彼が「封建の御旧制」に復そうと考えていたことは当然確かだと思います。それは版籍奉還反対の意見書を見るとそれは一目瞭然であって、そこから旧制に復する ために政府を転覆するという計画に流れて行くのはごく自然な流れです。その中にですね、やっぱり食いつぶしてしまったというような自分の同志たちの身をな んとかしなければいけないという思いは、べつにそれは両立しないものではなくて、そこにそれは含まれていた。もう一方ではですね、やっぱり、それと共に、 封建制から中央集権体制に移行してゆくことになると、薩摩のようにですね、・・・(?)、天皇の名の下に自分たちの権力を握ってゆく、そういうような状況 を助長するんじゃあないかというような、そういうような危機感を一方で雲井は持っていた。そこの部分が民権家たちによって証明される(?)ところじゃあな いかと思います。ただ、現実的に政府をいかに倒すかということになると、そこらへんのビジョンというのは雲井龍雄は甘かったんじゃあないかなと思います。 雲井っていう人はですね、どちらかというと現実家肌っていうよりか、むしろ、なんかロマン主義っていうかなんていうか、そういうところが詩人気質な人とい う気がします。だからこそ、やっぱり、彼の詩というのが、民権家たちに愛唱されたりするところがあったんだと思います。》
高島真 雲井龍雄.jpgそもそも私の問いは高島真著『謀殺された志士 雲井龍雄―また蒼昊に訴えず』歴史春秋出版 2003)を読んだことによる。当時アマゾンレビューにこう書いていた。雲井龍雄の冤罪を晴らそうとする著者の執念に圧倒された。と同時に、百数十年の隔たりを経てこうした情熱を抱かせえた雲井龍雄という存在のただならなさにあらためて深く思いを致させられた。/雲井龍雄はややもすると「反逆の徒」として語られることが多かった。それは明治政府による龍雄断罪をそのまま真に受けての評価である。しかしこの著によって、龍雄がいかにその時々の切実な課題に前向きな解決を求めて取り組もうとしていた実にまっとうな人物であったことが証せられたといっていい。米沢藩預かり決定前、明治三年四月の「陳情表」に込められた龍雄の思いを文面そのままに受け止めてもいいのだ、ということを著者は証してくれたのだ。/それにしても、龍雄が最後まで信頼を寄せていたかもしれない広沢真臣の日記で締めくくられているのが痛切だ。激動の時代における人心の離合集散、その中で自らをどう処してゆくか。龍雄の場合、肺疾が大きく影響していたことは否めないが、その生き様はひとつの窮極を呈示してくれている。まだまだ世の人々に知って欲しい人物にちがいない。/当時の引用文書が適切な現代訳になっているのもありがたい。》あらためて再読してみたくて本棚から引っ張り出してきたので、その「陳情表」を転載しておきます。私には雲井龍雄が別心をもって書いたとは思えない。
*   *   *   *   *
 陳情表
 このたび天子のおわす都では、根拠のない風評が沸き起こっており、表では歎願といいながら陰では謀反を企てているとの噂が流れ、大いに宮廷をゆるがし奉っており、その罪は実に重くこれは一体どういうわけか、はっきり申し出るようにとの仰せがありました。臣下として悲痛な憤りで心はずたずたに刻まれておりますが、とりあえず立場で申し述べます。
 戊辰の暴挙を起しました際に、五奥両毛に出没して、日光を奪い東京を襲う策を樹てるなどいたしましたのは、恨みと憤りによる全く.時の感情の高ぶりで、方向を誤ったのに過ぎず、はじめから災禍を与えようとしてやったことではありません。謹慎の一室にこもって前非を悔い、以前は至って心が狭かったことを恥ずかしく感じ、顔の赤らむ思いです。
 まだなんとか生きておりますので、今後は過去のような行動を改め、かつて掌握しておりました旧組織の者だちとともに、より良い実績を挙げなければと志を固め、謹慎が赦されると飄然として藩を辞し、常毛総房の間を往き来して各地に隠れ伏している旧組織の者たちを集め、丁寧に言い聞かせ、戊辰のときに誓い合った誓約文を燃やし捨てて、さらに今後の生き方を掲げ示しました。
 ところが今春になり、古い他の組織のなかに私訪して激しく迫る者があり、これを柔軟に善導することなくそのまま聞き流していたのでは、あるいは再び災いを生じさせ、ついには臣下としての私が統率する旧組織にも、影響を及ぼす恐れが出て参りました。
 そこで、ふるってこれらを教え導き、ともに反逆の心を改め、服従する民草にさせうると自任しておりましたところ、土州藩の意志、言行が正しく堂々としているのに感服して奮いたち、ついに志を決めるに至りました。そこで、薩摩藩邸に参り許しを請い陳情し、そのあと佐々木参議に拝謁し、浮浪の境遇に同情して行動する考えを述べました。こうして、いそがしく奔走している次第です。
 たとえ今は、すでに過ちを悔い誠を尽くしたいという、天子の民としての私ごとき者でも、むかしは人の道に背いた賊師でありますので、最後に極刑もまぬがれないことはもとより怪しむには足りません。落ち着いて死を待つと心に決めている身にとっては、讒言が朝廷に充満していても、驚きかしこまることはありません。
 万が一、臣下としての私の良心を汲みとっていただけますならば、天性強情で気の荒い、枠からはみ出た悪少年ではございますが、恩義に感激して前に数倍する勲功を立てないものでもございません。古い悪業を拭い去らぬうち、また新しい悪事のために死ぬようでは、安心して往生することもできません。
 臣下の心が赤誠の赤か、腹黒の黒か、どうぞご洞察下さいますよう言上に申し上げます。
           雲井龍雄  

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