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白川前日銀総裁は結城豊太郎をどう評価したか(2)大きな流れに抗するも・・・ [結城豊太郎]

白川方明14323832081.jpeg「結城総裁時代の日本経済と金融政策」ということで、大蔵大臣、日銀総裁としての結城豊太郎がどう考え、何をしようとしたか、そして「悲劇の総裁」と呼ばれざるを得なくなった、その経過が見事に説明されています。そこから白川方明という人の考え方も浮かび上がります。白川氏色紙14325538702.jpeg結城豊太郎記念館の館長日記で白川氏の色紙を見て驚きました。見かけ通りのいい人です。

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3.結城総裁時代の日本経済と金融政策

 昭和12年2月、大蔵大臣に就任した結城豊太郎は、前任の馬場大蔵大臣——高橋是清の国債漸減政策を放棄して軍事予算拡大を図った蔵相——の路線を軌道修正します。大蔵大臣に就任した当日、結城蔵相は馬場前蔵相の編成した12年度予算案について、「物価騰貴、悪性インフレ誘発の懸念なきにしもあらざるゆえ、修正組替えを行う」と述べ、わずかな間に1割弱削減しました(3,038百万円→2,814百万円、2月12目閣議決定)。しかし、すぐに林内閣が倒れて近衛内閣が発足し(昭和12年5月)、結城豊太郎は大臣を辞めることになります。
 その後間もなく、昭和12年7月、結城豊太郎は、池田成彬総裁の後任として日本総裁に就任します。池田総裁は、病気のため日本銀行には毎日は出勤していませんでした。それを理由に軍部から「池田総裁を辞めさせろ」という声が強くなり、辞めざるを得なくなりました。しかし、その後軍部を抑え政府に対してもしっかりものを言う人物がいないと大変なことになるということで、池田総裁は結城豊太郎を後任として強く推薦します。その結果、近衛内閣の下で結城豊太郎は総裁として日本銀行に戻ることになるのです。
  結城豊太郎は喜びに溢れて日本銀行に戻っています。当時の手紙には、「小生として最終の勤務地として最善の努力を尽くすべく、他に何等野望私心などは無 之。此上欲を申せば現職に斃れ、『日本銀行総裁結城豊太郎之墓』として残し度念願に候」という覚悟を述べています。しかし、結城豊太郎が総裁に就任した時 期は非常に厳しい時代でした。就任の直前に北京郊外で盧溝橋事件が起こり、日中戦争が本格的に拡大していくことになります。昭和16年12月からは、太平洋戦争が始まります。日本全体が、戦争をどう遂行するかに集中した時代です。日本銀行に引き付けて言えば、政府に対する財政資金の供給、軍需産業への資金の供給が大きな仕事になっていきました。そういう意味で結城総裁は「悲劇の総裁」と呼ばれることもありますが、正にそういった時代環境でした。
 この間のことを、少し詳しく申し上げたいと思います。


○国債消化
 国債の引受けは当時日銀の大きな役割になっていましたが、結城総裁は唯々諾々と従っていたわけではありません。抵抗を試みております。高橋是清総裁が国債の引受けを始めてから、引受けは続いていましたが、結城豊太郎が総裁に就任した後の最初の国債発行は、実は日銀引受け方式によるものではありません。民間金融機関にシンジケート団を作らせ、民間金融機関が国債を消化する形で国債を発行しています。ここには、結城総裁の理想が表れているわけです。しかし、いったん安易な日銀引受けが始まりますと、皆、その状態に慣れてしまいます。政府も民間金融機関も、シンジケート団による引受けを嫌がり、結局、シンジケート団による発行は一回限りで終わってしまいます。以後、国債発行はずっと日銀引受け方式によるものでした。
○軍需産業への資金供給
 日中戦争・太平洋戦争の中で、軍需産業への資金供給を優先せざるを得ないという現実がありました。日本銀行も各種の優遇措置を設け、軍需産業に低利資金を供給して支援しています。しかし、この面でも結城総裁はそうした流れに対して一定の抵抗を試みています。資金の融通にもっと民間の考え方を反映させたいと考え、民間金融機関と日本銀行からなる「金融協議会」を創立し、なんとか流れを少しでも変えたいと努力しています。
○通貨の大幅増発
日本銀行のバランスシート.jpg そうした努力はされましたが、大きな流れは決まっていましたから通貨は大幅に増発されていきました。日本銀行のバランスシートをみると、銀行券発行高は、高橋財政が始まる前年の昭和5年末(14億円)から、結城総裁就任の前年である昭和11年末(19億円)までの間に5億円程増えていますが、6年間で30%の増加ですからそう増えてはいません。先ほど申し上げましたように、日本銀行は国債を引き受けるとともに売却していますから、そう増えるわけではありませんでした。しかし、結城総裁が辞任する前年の昭和18年末には110億円と昭和11年末対比では5倍になっています。さらに戦争が終わった昭和20年末は233億円と10倍以上、昭和22年末には2,188億円と100倍以上になっています。お金の供給が大変に増え、当然インフレになってきます。
経済、物価情勢の推移.jpg 戦中についても戦後についても、物価統計は残っていますが、当時は価格統制が敷かれているため物価指数をみても本当の物価はよくわかりません。いずれにしても、最終的には大変に激しいインフレが起きてしまったということです。
 この間、戦争を遂行しているため国債の発行は増えます。当初日本銀行は引き受けた国債を市中に売っていましたが、そのうち売ることができなくなり、日本銀行が保有する国債の残高が増えていく事態になりました。政府債務残高の対GDP比率.jpg政府債務残高の対GDP比率は、大きく上昇しています。1930年代初めには40%程度であったものが、終戦の頃には130%近くに達しています。
 結城総裁は、昭和16年12月31日の職員向け挨拶の中で、「日本銀行という重大な責務を背負って居る所に働く我々の職責は、戦費の調達生産資金の供給通貨の調節という経済界として最も大切な事であります」といったことを言っています。最後に登場する「通貨の調節」という言葉は、結城総裁の悲痛な叫びのように聞こえます。

○日本銀行法改正
 日本銀行に関する法律自体変えられていきます。政府は、ナチス・ドイツの中央銀行(ライヒスバンク)と同じような法律を目本でも作ろうと―—つまり中央銀行を政府のコントロールの下に置こうと——、昭和17年の2月に法律改正を行います。ここでも結城豊太郎総裁は、一定の抵抗を試みておりますが、大勢は決しておりまして完全に政府のコントロールの下に置かれた中央銀行制度が作られました。 

○総裁辞任
 昭和19年、結城総裁は辞任します。これまで申し上げましたような結城総裁の姿勢に対して軍部・政府の間で不満が頭をもたげ、最終的に辞任に至るわけです。

 戦後の結城豊太郎は小田原の別邸に隠棲し、世の中との交渉を絶った形で過ごしました。日本銀行時代について、ほとんどと言ってよいほど語っていません。もし語れば、他人を傷付けると同時に、自らも傷付けることになることを知っていたからだろうと想像しています。
  亡くなる1年1か月前に、当時東大の経済学部の経済史の先生であった、土屋先生の下で行われたイシタビューが残っています(『日本金融史談』に収録)。そ の中で、結城豊太郎は、こう言っています。「昭和19年に日銀を引いてから、それとともに、あらゆる公職を、公職だけじゃなく、色々な関係を絶っておるよ うな具合で、色々なお話は喜んで聞くが、私の方からお話しすることというのも、ほとんどない」。インタビューをした土屋先生の感想として、結城豊太郎氏 は、「大蔵大臣および日本銀行総裁時代、すなわち戦争時代のことについては語ることを好まれないようであった」と記しています。戦時下の中央銀行総裁の置かれた立場の辛さが伝わる感じがします。

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