「宮内よもやま歴史絵巻」は宮内の「思い出話」 [宮内よもやま歴史絵巻]
10月2日のこと、南陽市倫理法人会で講話の機会を与えられて「宮内よもやま歴史絵巻」について語らせていただいた。北野達宮司が、小林秀雄が放ったアカデミズム歴史に対する有名な言葉(という)《過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想》(「無常という事」)と対比させて「おもしろい歴史」と評価してくれたのがうれしかった。その出典、読んでもわからぬまま本棚の隅でしみだらけの新潮文庫(『モオツアルト・無常という事』昭和45年版)を引っ張り出した。
《歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前には大変難かしく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない。そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。晩年の鴎外が考証家に堕したという様な説は敢るに足らぬ。あの膨大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。『古事記伝』を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宜長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代にはいちばん秘められた思想だ。》自分についても他人についても生きている人間はつかみどころがないけれども、死んだ途端にはっきりした相貌を見せてくる。《歴史には死人だけしか現れて来ない。従っで退っ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。》その、のっぴきならないところを掬いとるのが「思い出」というものだ。過去の方で僕等に余計な思いをさせないから「美しい」。《記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。》それに対して歴史家は《頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ない》。その結果としての《過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想》。それはおそらく《現代に於ける最大の妄想》と言っていい。大切なのは《上手に思い出す》ことである。・・・そうして気づいた。「宮内よもやま歴史絵巻」は宮内の「思い出話」なんだ、と。
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