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福来友吉→山本健造→宥明上人(南陽) [福来友吉]

中沢信午「福来友吉の生涯」.jpg中沢信午著『超心理学者福来友吉の生涯』をがんばって求めた。先に転載した「福来友吉先生の晩年の学説」がさらに詳しく展開されているかもしれないと期待してのことだった。稀書とはいえ4700円という価格に大部の著を想像していた。意に反して、届いたのはソフトカバーA5判230pのなんでもない本だった。しかし学者らしいケレン味のない記述で気持ちよく一気に読まされた。期待した福来学説については『念写発見の真相』(山本健造著)記載以上ではなかった。しかし、晩年の福来博士、さらに亡くなられてからの仙台における動きについては、自らの体験に基づく記述であり、一次資料として貴重に思えた。また、福来博士臨終昭和27年3月13日の前夜、真夜中に突然大声をはり上げて、「福来友吉第二世生まる」と三度くり返したとあるが、それはその日を誕生日とする人(今年66歳)なのか、またある人を後継者として認識したのか。ただ福来夫人は、山本健造こそその人と考えたのではなかったかと、以下の記述から知れる。山本健造はわが南陽の生んだ稀代の神通力者宥明上人の再発見者であり、宥明上人顕彰の遺志はその夫人山本貴美子に引き継がれて今に至る。われわれ、山本貴美子さんとは13年来の御縁である。いうなれば、福来友吉の学統(霊統)はこの南陽の地へと流れ込んでいる。

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第十二章 研究所の創立
 残された問題
 病床にある福来は、もはや再起不能と悟ったとき「仕事を残したまま死ぬのは残念……」と語ったという。
  この福来の最後の言葉について、私たちはその意味するところを正しく理解せねばならない。福来が「仕事を残したまま……」といったその仕事とは、果して何 であったか? である。ありきたりの意味としては、念写が真実であることを世に受け入れられないままでは残念だ、という福来の気持ちであろう。したがって 残された仕事とは、現代科学者に承認されるような実験を行うことであり、その目的で実際に晩年の福来は何度も実験を試みたか、いずれも不明確な結果に終 わってしまった。それが残念だ、と福来の最後の言葉を理解するのは普通の見解であろう。
 だがこれは正しくない。
  福来は自分の研究が世に受け入れられないのを、それほど残念には思っていなかった。彼はむしろ、自分が俗人には理解できないほど奇抜な現象を発見できたこ とを誇りとし、そうした道に進み得たことに限りなく感謝していたといってよい。彼は一般に時代に先んじた研究が世俗に受けないのは当然だと、この点は淡々 としていた。このことは彼が昭和二五年九月二一日付の私にあてた葉書の文にある次の言葉からもわかる。片仮名文である。

  スウェデンボルグガ霊ト肉体トノ関係ヲ如何様二説イタトテ、別二驚クニ足リマセン。唯一説トシテ見テオケバ宜イデス。又土居氏ガ物体活動ヤ念写ヲ信ジナイ カラトイッテ、ソンナコトヲ問題ニスル必要ハアリマセン。土居氏ハスウェデンボルグヲ妄信シテ居ルヤウダガ、私共ハ批判的二見テ居ルノデス。
 牧師ヤカント信者ナドモ、心霊ノ神通ヲ信ジマセン。ケレドソンナコトヲー々神経的二感ジテハ駄目デス。吾等ハ乾坤一擲先人未踏ノ境ヲ開カントスルモノデス。(原文のまま)

  この文面に出てくる土居氏は、スウェーデンボルグの研究家として著名な東京西大久保教会牧師土居米造のことである。当時宮城県角田の牧師遠藤甚四郎がス ウェーデンボルグの信奉者で、福来家にも出入りし、私とも親交があったことから間接に土居米造のことも福来は知っていて、右の葉書文は私の質問に対して福 来が答えたものである。
  福来は念写か一般に容認されていないことについて、さらに意見を述べ「数学者でない者が高等数学の論文を見ても、何のことやら全く理解ができないが、高等 数学にはそれなりの論理があり、新しい研究もなされる。これと同様に、念写の問題も、関係のない者にとっては、あり得ない現象だとして理解もされない。そ れで良いのだ」と、一般の無理解を残念には思っていなかった。
  福来が今後考えていた仕事とは、念写に関する新しい実験であり、また超心理に基礎を置いた新しい世界観の確立であった。自然と人生と存在と倫理を統合した 一つの巨大体系で、未来における人類の指導原理となるべきものを彼は夢見ていたのである。それを打ち立てる仕事をせずに去って行くのが残念だ、というので あった。
  しかし、福来亡きあと未亡人となった多津夫人としては、やはり亡き夫君が世に受け入れられずに死去したのが残念でたまらなかったのは当然である。三七年前 の大正四年に福来が帝国大学を追われたのは、迷信家だったからではなく、「福来の研究は正しかったのだ」と、世に知らしめたい一心であった、と見られる。

福来多津夫人.jpg多津夫人の決意        ]、
 しぱらくして、心の落ち着きを取り戻した多津夫人は、親しい人々が来訪するたびに、何とかして超心理の研究所を設立し、福来の研究を継続し、一般に超心理現象、なかんずく念写の真実を承認されるようにしたいと決心を語った。
  これにはだれもが賛成したか、いざ研究所設立となると、まず莫大な費用がかかり、またそれを実行する人材、設立以後の運営などについて具体案がないままに 月日が過ぎていった。またこの前後、福来と親交のあった黒田正典は新潟大学へ、やや遅れて星猛夫も新潟大学へ、また私は山形大学へ赴任し、福来家には頻繁 に出向けなくなった。多摩夫人の寂しさは察するに余りある。
  しかし間もなく、福来家に出入りする人々の友人なども含めて、また新しい来訪者ができた。いずれも催眠や超心理に関心の強い人たちである。そうした仲間の あいだから、いつとはなしに福来の研究業績を世に広める顕彰会を発足させる話が持ち出され、数名がその実行にあたった。これに拍車をかけたのが飛騨高山か ら来訪した山本健造であった。
  山本は大正元年生まれだから当時四三歳であった。彼は幼いころから夢の不思議に心をひかれ、後には夢の分析を研究し、福来を限りなく敬慕していた。たまた ま高山の’近辺で話題となった不思議な出来事について、かつて大阪の箕面に在住の福来に手紙を出したことから、すでに山本と福来との間には文通があり、山 本はいつの日か福来を訪ねて指導を受けたいと思っていた。
 そのうちに福来が仙台で死去したのを耳にし、もはや福来に会えなくなったのを残念に思っていたが、ある日友人の勧めによって、彼は仙台の福来家へ来てみた。それは昭和三〇年八月五日であった。
  福来亡きあとの福来家に数日間滞在しながら、山本は多津夫人から福来の最期についで、また生前の計画について聞き、深く感動し、自分が福来の残した仕事を 受け継ぐべく決心したとみられる。多津夫人も山本の熱意に共鳴し、できる限り応援しようと、福来が残した図書、原稿、また遺品などの数々を山本に託し、後 のことを依頼した。
  山本の手元には多津夫人から託されたという柳行李に一つの福来の原稿がある。このような重要物があったことは、昭和六〇年に私が高山を訪れて初めて山本か ら聞き、見せられて知ったのであった。多津夫人は山本を深く信頼し、実行力のある山本にこれを預けたのであった。それほどに山本は信頼されていた。
  やがて福来家に来訪する人々が集まって、山本の意見も取り入れ、「福来霊学顕彰会」を組織しようと一決し、この会が発足したのは昭和三一年八月であった。 会長に甲田栄佑(仙台平織元)、会員に西本寛一夫妻(食品商)、熊谷直亮(材木商)、加藤ちとせ(主婦)、高平なほ(電気器具商)、そのほかに多津夫人を 加えて事務所は福来宅に置かれた。
  仙台から高山に帰った山本は、友人荒井寅吉らと相談し、高山に福来博士記念館を建設すべく活動を開始した。まず山本がこの計画を高山市長日下部礼一に打診 したところ、狂気の沙汰といわんばかりに問題にされなかったという。何といっても福来友吉といえば、事情を知らない者にとっては単に世間のうわさ話によっ て詐術がバレて帝国大学を追放された、郷土の恥となる人物でしかなかったのである。
 しかし後に郷土史家角竹喜登らのとりなしもあって、市長も福来を再認識し始めたとみえて、ついに昭和三〇年九月二一日に関係者五名の連名で市長に「福来友吉博士記念館設立趣意並嘆願書」を提出した。
  この嘆願書に対する市長からの回答は、以前よりも好意的で、建設には反対せずただ場所としては嘆願書に記してある城山公園でなく別に選定するようにと指導 的であった。しかし地域としては城山公園が最もふさわしいので、同公園内にある照蓮寺の境内に白羽の矢を立て、住職と交渉の結果、ついにそれが可能となっ た。この経緯については山本健造の著『念写発見の真相』に詳しく述べられている。
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『超心理学者福来友吉の生涯』より)
晩年の福来友吉.jpg ホープ心霊写真(福来).jpg
国際スピリチュアル連盟.jpg山川健次郎書簡(福来宛).jpg
上杉謙信念写像.jpg福来友吉戸籍.jpg
 多津夫人の父町田真秀は米沢市関東町の出身。

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