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吟道岳鷹会「創立60周年記念誌」完成 [詩吟]

「創立60周年記念誌」表紙カバーver2.jpg吟道岳鷹会「創立60周年記念誌」がようやく完成して会員の手元に配布され始めている。昭和7年1月1日生まれの85歳で自前の歯が31本健在という矍鑠たる編集委員長をトップに、男性3人が主体となって春先から取組んだ仕事だったが、どんどん構想が膨らんで当初のB5判70pがA5判100pフルカラーとなって完成した。表紙カバーをコート135に艶PP加工としたのが正解で、われながら立派なできばえとなった。当初の群青色案は、「60周年だから赤いちゃんちゃんこ、赤い表紙にしよう」という委員長の提案で、これもまたインパクトがある。コート90で100pというとけっこう重い。一箱50冊入りは運ぶにも難儀した。ともかく大きな肩の荷が下りた。

やはり今回の編集委員長が中心になってつくった20年前の見事な「40周年誌」があり、その中に「創立四十周年記念座談会」があって貴重に思え、それを土台に置賜の詩吟史を自分なりにまとめてみた。(いずれ整理して発表したい。)けっこうな分量になったのでそのまま掲載というわけにはいかず、それをもとにA4 2pに詰めて載せさせてもらった。

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      吟道岳鷹会のルーツを見る
                         ———『創立四十周年記念誌』より

「米沢詩吟」の源流
 詩吟は、江戸初期青少年教育の場として、林羅山によって開設された昌平黌の勉学の一端として取入れられたことから、全国に広がりました。特に五指に数えられたのが仙台養賢堂、水戸弘道館、米沢興譲館、会津日新館、熊本時習館それぞれの流派でした。米沢においては明治期、市内小国町の青木清次が興譲館流に独特の工夫を加えて米沢流を創設しました。昭和十二年に発表された全国の主な十六流派の中に「米澤流・青木」の名があります。昭和十一年には市内小学校において二千五百人の聴衆を集めて全国詩吟大会が開かれ、このとき『米澤詩吟讀本』が発刊されています。

山上学話会
 江戸期以来の米沢詩吟の伝統の中で、青少年教育の一環として詩吟と剣舞を取入れたのが山上学話会です。その中心を担ったのが、佐藤岳瞭本会顧問(当時副会長)のお父さん、佐藤常一(初代鶴城)です。佐藤顧問が語っています。
 「明治という新しい時代になって旧藩の武士たちは生き方にとまどいました。しかし、当時の山上通町の青年たちは、刀にかわる学問と言論で世に立とうとしました。その集まりが学話会となったものです。百十一年前でした。詩吟と剣舞は、討論、試胆会などと並んで修練の一科目でした。時代とともに浮き沈みもあったようですが、昭和三年、『山上一刀流剣舞』と命名され、上杉神社に剣舞が奉納されて、現在に受け継がれています。」 
 福島岳優本会副会長のお父さん、南波正義(渓風)もまた山上一刀流剣舞師範でした。米沢流詩吟の流れを汲む山上学話会の伝統は、小山通隆会長、米沢一刀流詩吟剣舞会は南波栄会長が守り続けられています。

木村岳風先生と江田忠先生の出会い 
 戦前において詩吟は、戦意高揚を目指した国粋主義的なものが主流でした。しかし敗戦によって壮士的詩吟が影を潜める中で新しい詩吟の在り方を示したのが木村岳風先生でした。岳鷹会の歴史は岳風先生と江田忠(岳鷹)先生の出会いに始まります。平吹岳導前会長が江田先生について語っています。 
 「戦前戦中と木村岳風先生は朝鮮、満州に詩吟慰問されていました。 昭和十五年、京城の吟詠家たちを集めた吟詠会の席上で、(江田先生が)岳風先生に認められて、その場で奥伝をいただけることになり、ほどなく送られてきた雅号『天風』の許証を手にした時は大変うれしかったと語っておられました。」
 江田先生は山形県社会教育課の係長時代、若妻学級を創設して全国に広めるなど、社会教育面の先覚者としても多数の著書論稿を残されています。また民俗の分野にも造詣が深く、「置賜民俗学会」を立ち上げて初代会長を務められました。 そのころ江田先生が好んで吟じられていた中には、戦後大ヒットした流行歌「異国の丘」の詩情を七言律詩調にしたものもあったそうです。

「米沢吟友会」の誕生
 昭和三十二年八月、米沢市中央公民館で江田忠(当時の雅号は天風)先生が講師となって、市民対象に詩吟講座が開講されたことから本会の歴史が始まります。会場が満員となる状態だったと伝えられています。この講座から数えて六十周年です。このときの受講生が中心となって動き出し、翌三十三年二月には新春詩吟大会が開かれ、三月八日には江田先生を会長として「米沢吟友会」が創設されます。

「吟道岳鷹会」へ
 江田先生の天風という雅号は木村岳風先生から直接いただいたもので、後に典岳という時期もありましたが、総伝になられたとき、上杉鷹山公の鷹”をとって「岳鷹」と称されました。
 江田先生は昭和五十年代に山形芸術学園を始めとして、高畠町、南陽市と拡げてゆかれ、米沢という地域の枠を取り外して「吟道岳鷹会」と命名されます。
 昭和五十三年四月、米沢吟友会は発展的解消をして「吟道岳鷹会」となりました。昭和五十四年以来、米沢の冬の風物詩として有名になった上杉雪灯篭まつりの雪見の宴では吟詠をしたり、武蹄式で吟じたりして、広く地域の人々に詩吟の存在が認められるようになりました。
 昭和五十五年四月、江田初代会長が惜しまれつつ六十八歳でご逝去。次いで当時副会長の平吹岳導が会長に就任しました。平吹会長は平成十六年から二十年まで全国の理事長を務められました。
 昭和五十七年に上郷吟友会が発足し、続いて五十九年に川西、六十二年には白鷹、飯豊町にそれぞれ吟友会が結成されて、会員数も六百余名の大世帯となります。平成八年、組織改革が行なわれ、各吟友会は支部となります。翌九年、南陽宮内岳鷹会(宮内支部)が発足して今日に至ります。この間各支部は、地域の文化祭等に積極的に参加して詩吟の普及に努め、会員増加に寄与しております。
岳鷹会のルーツ A4冊子右014P-P015 [更新済み].jpg

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