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mespesadoさんによる1億人のための経済講座(番外)  ポリコレ批判 [mespesadoさんによる1億人のための経済講]

《「西洋かぶれ」にまだ毒されず、物事を根本から考えることのできる若い人の方が先入観が無く、ずっとまともな考え方をする。》

「西洋人(欧米人)の都合の元での正義」に過ぎないポリコレ感覚に毒されたわれわれ団塊の世代、まじめに勉強すればするほど人間がおかしくなる」、ここからいかに脱け出すか。私自身もその脱出の精神史をたどることができます。今から15年ぐらい前に書いた私にとって記念碑的文章を掘出してきましたので、この記事の最後に転載しておきます。当時とっていた産經新聞の論説募集、長谷川三千子先生が選者だったので、「憧れのお姉様」である長谷川先生に読んでもらいたくてがんばって書いた文章です。選にはもれましたが今読んでも大丈夫です。

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919 名前:飯山一郎 2017/12/25 (Mon) 20:28:04 host:*.dion.ne.jp
>>915 >>916
安倍晋三のコトを憎悪心ムキ出しで語るシトってのは…
アメリカのネオコンに味方するような論調になってしまっているのだが…
語ってる本人は「安倍憎し!」のあまり↑↑これに気づかない愚鈍さ.

「アメリカ・ファーストのトランプべったり」の安倍晋三は…
戦争屋ネオコンの支配下にあった日本の政治を変えよう!という覚めた戦術・戦略で…
意識して「アメリカ・ファーストのトランプべったり」になっている.

この違いが判るかどうかが,まさに知的水準の分水嶺=馬鹿と利口の分かれ道なんだが…
 
920 名前:mespesado 2017/12/25 (Mon) 22:55:41 host:*.itscom.jp
>> 915 ~ >>919
 団塊世代の頭の固い人たちが安倍政権をこきおろすのはまあ仕方がないとして…。必ずしも団塊の世代とは限らない、多くの「学者」の肩書きを持つ人たちがそろいも揃って反安倍で凝り固まっています(これは、件の松尾匡さんも例外ではありません)。これはどうしてかとつらつら考えると、答はひとつ。それは、「学者はみんなポリコレに洗脳されてるから」
 ポリコレって、要するに「西洋人(欧米人)の都合の元での正義」に過ぎない。だから、ポリコレの元では「戦前の日本は侵略国家だから悪い」ので、戦前をプラスに評価する「極右思想」は「悪」であり、そんな「極右」団体である「日本会議」を強力な支持母体に持つ安倍晋三も「悪」であり、他方でポリコレの元では「人種差別」や「民族差別」は悪いことだから、各種発言でこのタブーを平然と犯すトランプも「悪」ということになる。
 それじゃあ、何で「学者」はみんな「ポリコレ」に毒されているかというと、今の学問というのはすべて西洋で誕生した学問であり、日本人学者はみな西洋で発展した学問のプロセスで学習してきて、西洋人の同僚達に成果を評価されて地位を得ているので、思いっきり「西洋かぶれ」しており、思想的にも洗脳されるのでポリコレの信者になってしまうから。
 これは主として明治維新以降の風潮ではあるけれど、それ以前は同だったかというと、それ以前は儒学だったから、「西洋人」のところが「中国人」になっただけ。つまり、日本における「学問」とは、大昔から今に至るまで、所詮「輸入品」「舶来品」でしかない。
 だから、そんな「西洋かぶれ」にまだ毒されず、物事を根本から考えることのできる若い人の方が先入観が無く、ずっとまともな考え方をする。これは、学問の世界だけでなく、私の職場でも、仕事の世界でも(特に新しいことを考える必要のある分野では)ずーっと感じてきたことです。
921 名前:mespesado 2017/12/25 (Mon) 23:19:56 host:*.itscom.jp
 今日のてげてげ読みました。

> ◆2017/12/26(火) うっぷん晴らしの卑劣な非難行為が激増している

>>920 ではサヨクの醜さの話でしたが、このてげてげの記事は、ウヨクの醜さの話ですね。ウヨク系のツイートでも沖縄の小学校を非難する人たちが多い。彼らは中国や北朝鮮の脅威が何よりも怖いので、その軍事力に対抗すべく米軍という「ジャイアン」に必死ですがろうとする。だから、そのすがっている米軍に対して少しでも批判する人がいると、脊髄反射的にムカッろ来て、誰これかまわずその批判者を罵倒する。まったく浅ましいことこの上ない。
 サヨクもウヨクも本当に碌なもんじゃない。
922 名前:飯山一郎 2017/12/25 (Mon) 23:55:05 host:*.dion.ne.jp
>>920
日本では「リベラル」(ようするに左翼教条主義者)のアタマは固すぎます.
mespesadoさんが,「日本の学者は思いっきり『西洋かぶれ』しており,思想的にも洗脳されるのでポリコレの信者」と書かれたとおりです.
「安倍晋三が憎い!政治が悪い!良くない政治家ばかり!」というムキ出しの感情的善悪論の背景には…
次のような↓↓要因もあるでしょう.

➊ マルクス主義の資本家・政治家悪人論
➋ 西欧市民革命の「権力は絶対的に腐敗する」思想
➌ 「新聞は社会の木鐸思想(=政府は悪!政治家は悪!)」
➍ 労組の政府与党(資本家の味方)との対決主義
➎ 江戸から続く「お上」は悪!思想
➏ GHQの戦争犯罪人断罪!の日本統治戦略
➐ 同じく「皇国史観=悪」説
➑ マキャベリ政治学を知らず政治の表面しか見ない
➒ 財布と知性が貧しいルサンチマンの憎悪心
➓ 権力者(たとえば安倍晋三)の内面を探り分析する学問の欠如

上の10個の要因を1行ずつ考え抜いていけば…
政治の深層(真相)が見えてくるのですが…
みんな感情の動物ですから…www
*   *   *   *   *
↓の掘出し先;原理的思考と関係的思考http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2006-03-19
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 教育の何を変えるべきか
   秩序感覚の回復を
     
 「素直であること」が悪いことであると思わなければならない、と思い始めたのは今から四十数年前、小学五、六年生の時だった。当時の担任であった女の先生は、作文指導の中で、何事に対しても批判的であることの大切さを教え込んでくれたのだった。それまで「人の言うことは素直によく聞くこと」とばかり思い込んでいた私にとって、世界がひっくり返るような教えだったのだと思う。目のパチパチが止まらなくなるチック症で「ソロバン」のあだ名が付いたものだった。
 以来戦後教育の洗礼をまともに浴びつつ高校から大学へ。しかしあの全共闘時代の真っ只中、何とか渦中に巻き込まれずに踏ん張れたのは、祖父母のいる家庭で培われた、学校教育以前の「三つ子の魂」のおかげだったと思う。
 まじめに勉強すればするほど人間がおかしくなる。まじめに勉強すればするほど、自分の住む国がいやになり、世の中に対して反抗的になり、世の中のしきたりなどどうでもいいことのように思えるようになり、年寄りを軽んじて平気な人間になってしまう。自らを省みてそう思う。学校の勉強なんていい加減に聞き流してきた方が、ずっとまともな人間として暮らしてゆけるのだ。戦後教育に内在する恐ろしい逆説である。 
 中学の「公民」の教科書(東京書籍)を開くと、「社会における利害の調節や紛争の解決をめざす営みを広い意味で政治とよぶ」とある。利害の対立や争いごとがあるから政治があるということになる。そうなのだろうか。日本では、政治を「まつりごと」とも言う。そこにはまず秩序がある。政治の役割とはまず何よりも、世の中の秩序を維持することではなかったのか。たしかにもめごとの解決も秩序の維持も同じことの裏表、しかしどちらを表に出すかで、もめて当然かまとまっているのがあたりまえか、天地の隔たりが出てきてしまう。この教科書ではわざわざ「広い意味で」と言っているので、子供たちは、すべて政治は基本的にそういうものなのだと思い込む。その一方では「人権の尊重」とか「自由と平等」とかの言葉で西洋仕込みの個人主義をたたき込まれるわけで、いくら「公共の福祉」やら「寛容の精神」やらで和らげようとしても、世の中もめていてあたりまえ、みんな自分の思いのまま、強いものが得をする、そんな感覚になってしまわざるをえない。
 歴史の教科書も同様である。たとえば、「大正デモクラシー」の節には「米騒動は、およそ三ヵ月にわたり、約七〇万もの人々が参加する民衆運動となり、軍隊の出動でしずまったが、人々の政治的な自覚をうながした。」(日本文教出版)とある。まさにもめごとが「政治的自覚をうながすもの」として奨励されるかのようである。
 また、「公民」の教科書(東京書籍)では、「人権」について三七ページにわたって説明されている。「人権」という言葉と表裏一体のものとして「自由」が叩き込まれる。しかもそれは「国の秩序」や「学校の秩序」や「家庭の秩序」よりも何よりも優先されている。本来「人権」や「自由」という考え方は、弾圧や抑圧に対抗するものとして生まれてきたはずのものなのに、今の教科書ではそれだけが一人歩きしてしまっている。 
 かつてわれわれ世代にとって教祖的存在でもあった吉本隆明は「個人幻想は共同幻想に逆立する」と言った。われわれは、共同幻想からはみ出た部分を自己とし、それを以って存在の基盤に据えようとしていた。存在自体が根底において反秩序なのである。世の中との乖離は必然である。学生時代を含め十年間の独り暮らしから、家業を継ぐため家に戻って、地域に溶け込んでゆく中で、戦後教育で身につけた殻を徐々に徐々に剥がしてきた。教科書を読むと、殻をまとっていた頃の自分が見えてくる。
 フッサールからメルローポンティに連なる現象学の系譜は、コギト(思う我れ)を原理とするデカルトを批判し、コギト以前の「すでに生きられた世界」こそが初源であると喝破した。ハンカチを片手で渡すと渡された相手は片手で受け取り、両手で渡すと両手で受け取るという実験をテレビで見たことがある。私たちは、考える以前の行動のレベルでは、いちいち心の中の「私」が考えて行動しているわけではない。そこでは、まだ「私」の意識が育っていない赤ちゃんがそうであるように、私の気持ちと相手の気持ちとは溶け合っている。自ずとそこには秩序がある。その初源を忘れて「私」を原理としたところに戦後教育の根本的な誤謬がある。「思う我れ」を第一義とするデカルト的主知主義からの脱却、すなわち共感の体験を第一義とすることを通して、個人以前の秩序の感覚を取り戻すことを教育改革の要に据えねばならない。難しいことではない。われわれはすでにそうして生きているのである。

【追記 30.2.18】

上記文章とほぼ同時期の文章です。http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2006-03-19

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そもそも人生においてとどのつまり何を求めて生きているかと言えば、「心の安定」ということなのではないでしょうか。金や地位や名誉もそのための手段に過ぎないのです。としたら、教育も本来そのことをきちんと視野に置くべきです。私は今の教育は原理的に間違っていると思います。

 デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」、この「思うわれ」を窮極の原理として近代合理主義思想は出発しました。「思うわれ」は、思うかぎりにおいて「だれが何を思ってもいい」という意味で、自由でありまた平等です。ところが、それを現に身体をもって生きている人間にまで引き延ばして適用してしまったところに、近代合理主義の誤りがあります。人間は、まず自分が勝手に考え始める前に、親兄弟をはじめとするいろんな人たちと一緒に生きているのです。それがあってはじめて、自分で考えるようにもなれるのです。事実として、ともに生きている世界があって自分があるのです。その逆ではありません。

 本来、「自由」に対置する言葉は、「束縛」ではなく「秩序」です。「平等」に対しては「差別」ではなく「分度分限」といういい言葉があります。世の中に合った自由と秩序のバランスの取り方、平等と分度分限のバランスの取り方から、「倫理」の問題は生まれます。
 ところが、秩序よりも何よりも人権を第一義とする教科書を見るかぎりでの今の教育では、倫理の問題も何も生じようがないのです。今の教育は、原理的に共通の規範を拒否していると言えるかもしれません。精神の安定は、基本的には周囲の人との共通理解の上に立って生きていることでもたらされるはずです。今の教育はそのことをはじめから否定しているのです。

 今の教育では、まじめに勉強すればするほど、自分の住む国がいやになり、世の中に対して反抗的になり、世の中のしきたりなどどうでもいいことのように思えるようになり、年寄りを軽んじて平気な人間になってしまっています。「何のために学ぶのか」の問いかけに「自分のため」としか答えようがない。「そんなら別に勉強なんかしなくても…」に返す言葉がない。道義の感覚はすっかり色あせ、経済的利害とそのときどきの欲望のみが行動の基準、ただただ声の大きいものが、力の強いものがわが物顔に振る舞い、裏では人を欺くはかりごとがうごめくような世の中、これでは精神の安定を得られるはずはありません。今の教育は、人間が本来求めるものから逆行しているのです。

 デカルトの「思うわれ」というのは、秩序が抑圧として捉えられるようになって「人権」思想が生まれたことと歩調を合わせるかのように、身体をもって空間的・時間的に制約されて生きている自分が意識されるようになるにともなって、そうした制約から一切自由な主体として構想されることになったと考えることができます。

 「人権」と「思うわれ」は軌を一にしていると考えるのですが、それは「人権」を言い出すとだれもそれには逆らえないのと似て、「思うわれ」を基礎にすると、世の中の存在すべてが説明できるように思えてしまう。そしてそのゆきつくところは、(うろおぼえですが)イギリスのバークレーのように「自分が知覚しないものは存在しない」となってしまう。もう完全な蛸壺状態。

 それにたいして、そのおかしさを指摘し、理屈はいい、まず事実そのものに立ち返ってそこから考えようとしたのがフッサールに始まる現象学の流れです。

 フッサールの流れを汲むメルロ―・ポンティは、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」に対して、「われなし能う、ゆえにわれあり」と言います。私はこれはすごい言葉だと常々思っているのですが、まだ教科書に載るまでは普及していないようです。教育もデカルト的主知主義(「思うわれ」を主体として、知ることが基本)では全くの片手落ちで、「できるようになることが基本」を原理にしなければならないと思うのです。教育の原理見直しのゆえんです。

 メルロ―・ポンティは、「私が思う以前に、先ずもってみんなと共に生きている」と言います。そこから見れば、「思うわれ」なんて後からの理屈づけにすぎません。ところが今の世の中では、(きっと教育の結果)「思うわれ」の方が本来の自分であって、「現に生きている自分」は仮の姿のように思い込んでしまっているのではないでしょうか。みんな蛸壺の中にいるときがいちばん安心できるように思いこんでしまっているのです。

 「秩序」について言うと、蛸壺に入り込んでしまうと「秩序」なんてさもうっとうしいように思えてしまうけど、「先ずもってみんなと生きている」世界では、意識はしなくてもちゃんと「秩序」の中で生きているということが言えるのではないでしょうか。別にどこかから探し出してきたり、新たに作り出すこともないのです。 そこで、今いったい自分はどういう秩序の中で生きているのかを、あらためて見つめなおす必要があるのではないかと思うのです。

 私もメルロー・ポンティとのおつきあいは30年も前にさかのぼるので、昔のメモを引っ張り出したら、「意識とは、原初的には、『われ惟うje pense que(I think that)』ではなく、『われ能うje peux(I can)』である。」とありました。彼の主著「知覚の現象学」の「身体論」の中の言葉です。そして日本語版の注釈に「この術語は、フッサールの未刊書のなかでしばしば用いられている。」とありました。メルロー・ポンティのオリジナルでない事を今知った所です。それに、いつの間にか「われなし能う、ゆえにわれあり」の言葉で私なりに理解していましたが、意訳として間違ってはいないと思うのでご了承ください。

 また、「思うわれ」を主体として、知ることが基本とする考え方が、知識それ自体自体だけで第一義的に価値があるように思い込んでしまう、頭でっかちを生み出しているのではないかと思えるのです。それに対して、「できること」とは「身につけること」と考えてはどうでしょうか。それにはもちろん、「知識を身につける」ということも含まれます。その時の「知識」とは、いつも生きている世界とのかかわりをもった知識であるはずです。メルロー・ポンティは、先の言葉の後、「意識とは、(みんなと共に世界の中で生きている)身体を媒介にして事物へと向かう存在である」と言っています。まずそれが初源であり、第一義であると言うのです。蛸壺の中が初源ではないのです。


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めい

昨日掘出してきた↑の文章を、天下の「放知技」板で紹介していただきました。http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16256324/947/
mespesadoさん、恐縮です。

   *   *   *   *   *

947:mespesado : 2017/12/27 (Wed) 00:19:18 host:*.itscom.jp
 鯨料理の話題で盛り上がっていますが、反捕鯨という西洋の都合による
ポリコレから目を覚ますには大変良いテーマですね。
 ところで、例によってまた、放知技を好意的に紹介してくれているめい
さんのブログで、15年前に書いたという論文が公開されていましたので
ちょっと長くなりますが、紹介します。西洋かぶれに対する反省を促す内
容です。



by めい (2017-12-27 06:59) 

めい

上記mespesadoさんの書き込みに対し、飯山一郎御大がコメントされ、私に対する御批評もいただきました。ありがとうございます。http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16256324/948/

   *   *   *   *   *

948:飯山一郎 : 2017/12/27 (Wed) 01:19:12 host:*.dion.ne.jp
>>947
mespesadoさん

めいさんという方は「見えている人」ですね.
論理的で,思想的にも深く,柔軟な思考が出来る御仁です.

ただし,段落が少ないので文章が読みづらい.
今どき,長文で段落の少ない文章はスルーされ,読まれない.

めいさんの↓↓この指摘は,目鱗でした.(簡明に書き直しました.)

>ハンカチを片手で渡すと渡された相手は片手で受け取り、両手で渡すと両手で受け取る…
>そこでは,「私」の気持ちと相手の気持ちとは溶け合っている。
>そして,自ずとそこには秩序がある。
>その初源を忘れて「私」を原理としたところに戦後教育の根本的な誤謬がある。

さて…
いま,「私」の噴出=出しゃばり者たちがウザい.
コギト(思う我れ)どころか思考停止の「我」が,我も我もとネットで出しゃばっている.

そこには,「国家意識」,「秩序意識」,「歴史意識」,「国際感覚」が,ない.

ひたすら,ただいま現在の「私」を,感情ムキ出しでシャベリまくる….

だっからワシは,総選挙が終わった頃から,ブログもSNSも,ほとんど読まなくなった.

おかげ様で,自由な時間が増えた.

mespesadoさんの文章は,熟読してるからね!

by めい (2017-12-27 07:09) 

めい

堺のおっさんとmespesadoさん、両巨頭の「ドル暴落はありうるか」についてのやりとりです。
《もし為替でドルが安くなり過ぎれば、米国の消費者は、輸入品を選ぶメリットが無くなるので、国産品を購入しようという方向に向かい、米国の製造業は息を吹き返す》が、お金の背景にある「生産力」を第一義に視るmespesadoさんの見立てです。
《通貨とは交換価値そのもの。それが、変動相場制になってから物、つまり、有用物の側面を持ってしまった。》つまり、通貨が商品化して金融商品の暗躍化が始まったという堺のおっさんの説明にも納得です。ビットコインは所詮「仮想商品」という結論付けにも納得。
↓これだけの中に「経済の本質」を納得させる内容ぎっしり、さすが、二人のやり取りです。

   *   *   *   *   *

957:堺のおっさん : 2017/12/27 (Wed) 20:57:59 host:*.ocn.ne.jp
も~いくつ寝たらお正月~
ですが、一つ年内に片付けておくことが。
メッさん!
御大が悲観的な予想でリーマン並みの暴落がある鴨…と。
実は私もアメリカに関しては余程スピード感をもって
アメリカ・ファースト政策を進めていかないと、
ドルの大暴落もあるのではないかと。
というのは、日本の場合あと1000兆円くらい国債を
発行しても資産から見ればどうってことないのですが
アメリカ政府ってのは実は結構ビンボーではないかと。
そのために、外から米国債を買わせて借金を積み上げてきた。
しかし、ドルは国際決済通貨でもあり…
その限りでは、世界が米国債を買える限りドルの暴落はない。
この条件がなくなる時は、つまり、唯一の国際決済通貨では
なくなる時に、ドルは大暴落するしかない。

世界のドル離れは進み始めると一気に進む可能性があります。
その火種が実はビットコインではないかと。
ドル建てのビットコインがこの予兆を感じ始め逃避先として
仮想通貨に流れている。
それを、中国が後押ししていつでも引き金を引けるぞという
危険水域へと導いている。
暴落により、ドルという唯一の国際決済通貨を失った場合…
相対的に中国元が浮上。
このシナリオは現実味を帯びつつあるように思います。

では、日本円はどうなるか?
下手すると、1ドル50円とかの信じられない円高の可能性も。
まあ、その場合はリーマン並みの暴落した米主要株をさらに買い占め、
日本円によるアメリカ再生をすればよし。
その上、日本円が強い通貨として中国元と並ぶ国際決済通貨に格上げ。
日本の新時代の技術が日本円決済を通じて世界に普及。
かくして世界の覇権はアジアに完全に移ると。
中期的にもこうした見立てもあり得ます。

肝は、アメリカの政府は減税後かじ取りを間違えると
単なる借金漬けのオンボロ政府に一瞬にして成り下がる鴨…
ということです。米株が暴落してそうなるというよりも、
ドルが暴落して米株が暴落するという可能性です。
如何でしょうか?

958:堺のおっさん : 2017/12/27 (Wed) 21:16:04 host:*.ocn.ne.jp
>>957 つづき

ドル=金本位制から変動相場制に移行して以来、
金融と軍事を通じてドルの垂れ流しが続いてきましたが、
唯一の国際決済通貨がなくなると…
私は、世間で言われるような金本位の復活とか
その他の商品の裏付けによる本位制などはあり得ないと思います。
ズバリ、一定のゾーンでの固定相場制へ移行するしかなくなります。
今、世界で、裏付けをできる商品などないからです。小さすぎる。
変動相場制こそ金融の土俵をアメリカが握り続けてきた理由でもあります。
金融ではない、実需に裏打ちされた国際決済をやろうとすれば、
世界が統一通貨を採用するか、固定相場を採用するしかないのです。
統一通貨は通貨発行権を各国の政府が放棄しませんのでできません。
したがって、固定相場しかない。
如何でしょうか?

960:堺のおっさん : 2017/12/27 (Wed) 23:05:02 host:*.ocn.ne.jp
>>958 つづき
通貨とは交換価値そのもの。
それが、変動相場制になってから
物、つまり、有用物の側面を持ってしまった。
なにかの価値を代用する手段ではなく、
通貨自体が売り買いできるものになってしまったところに
金融が暗躍する土俵ができてしまった。
FXなど、まさに典型。
交換価値を実現する手段の通貨が商品相場化する。
仮想通貨も同じだが、発行数を決めているところは
土地と同じで、そのために1ビットコインの価値が変動する前提であるのは
その本質が本来の通貨ではないということとなる。
ビットコインの本質は仮想商品である。

961:mespesado : 2017/12/27 (Wed) 23:46:22 host:*.itscom.jp
>>957
> ドルの大暴落もあるのではないかと。

 う~ん、どうなんでしょう?
 ドル債を大量に持っている中国も日本もドルの暴落は望まないでしょうから、もしもドルが下落し始めたら為替介入して(ドルを買い支えて)ドル安を防ごうとするでしょう。

> アメリカ政府ってのは実は結構ビンボーではないかと。

 「政府が貧乏」というのは「政府が赤字」というのと同じであまり意味が無い概念ですが…。なので、これを「米国の生産力が低い」と言い換えてみます。
 米国がもしギリシャやイタリアのように本当に生産能力が低いというのであれば、為替にも影響があると思いますが、米国というのはそうではなく、自国に生産能力のポテンシャルはあるのに、米国の消費者が海外製品(特にドイツ製や日本製など)の方が品質が良いとか、あるいは品質が同じなら安いほうが良いという理由で輸入ばかりして国産品を買わないから衰退してるのであり、もし為替でドルが安くなり過ぎれば、米国の消費者は、輸入品を選ぶメリットが無くなるので、国産品を購入しようという方向に向かい、米国の製造業は息を吹き返すと思ってます。だからドルが暴落する、というのはちょっと考えにくいと思います。
 米国というのは、ある意味消費者の行動が非常にシンプルというか機械的で、だからこそ経済を単純にモデル化することが容易で、数々の経済モデルが考案され、米国の経済の実態を正しく説明することができたのです(これに比べて日本の消費者の場合は、品質にとことんこだわるので、経済の単純な計量化がしにくく、だからこそ日本の経済を米国生まれの既存の経済学では「うまく説明できない」と言われ続けてきたのでしょう)。

by めい (2017-12-29 05:35) 

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