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南陽、その文化の源流 [地元のこと]

昨朝、南陽倫理法人会での講話の機会が与えられた。依頼の時すぐ語ってみたいと思ったのが田島賢亮先生のことだった。「宮内、その文化の源流」としたかったが、「宮内の人だけではないので」と言われて「南陽、その文化の源流」にした。そんなわけで、「南陽市関連、最近のニュース二つ」ということで、佐藤忠宏・広志兄弟を冒頭にもってきた。佐藤兄弟の父佐藤忠三郎氏こそ田島先生が担任した5年甲組の級長であり、とりまとめ役であった。佐藤広志NDソフト社長に「家に田島先生関連の何か残ってない?」と訊ねて「そのうち見ておく」と言われたがそのままになっている。田島先生あればこその社会医療法人公徳会であり、NDソフトウェア株式会社であると思う。


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田島先生はじめ、その継承者達の文章がずらり並んだ貴重な本が宮内小学校百年のあゆみ』だ。編集委員の名前と写真、われわれ世代のもうひとつ前、私の親の世代の懐かしい顔ぶれが揃っている。この本から多くを引用した。


与えられた時間は45分、かなり駆け足になってしまった。わかってもらうより語るだけで精一杯でした。


ほとんどこれまで書いた文章の組み合わせですが、つくった資料を載せておきます。


   *   *   *   *   *


南陽、その文化の源流

1108(火) 午前6時半  於 宮内熊野大社證誠殿

はじめに

・南陽市関連、最近のニュース二つ

   公徳会「米沢こころの病院」新築工事起工式
(9/10

   東日本実業団対抗駅伝 NDソフト出場権11/3


「宮内小学校百年のあゆみ」(昭和473月)

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田島賢亮(明治31年―昭和58年)

《私が長い教員生活の間に、大げさにいえば、命をかけて教育をした学級、ないし学年、また学校は、大体五、六をかぞえるのですが、その中の1つが宮内小学校における五年生甲組への教育でありました。/私が俳人として世に名をあげたのは大正七年、八年に至り、滝井孝作、芥川竜之介、菊地寛、志賀直哉というような人々から、私独特の持ち味が認められて、小説家への転向をすすめられたのが同八年、したがって宮内小学校における生徒への授業や指導もまた単に形式的な常規にのっとらず、奔放自在、闊達不覊、燃えるが如き情熱を傾倒して全生徒の学力の増進に力をもちいたことはいうまでもなく、特に個々の持つ天性の発掘伸長に全力をあげたのでした。・・・・・宮内の教え子たちからは、誰かれとなく始終なつかしい便りが来ました。私の手許には、今もそれらの多くか保存されているのですが、ここにその中から二通を掲げて昔をしのびたいと思います。

     佐藤忠三郎から

  ワガ愛スル先生ヨ、何ヲ見ツメテヰマスカ。/アナタトイフソノ男性ハ、何モノカヲカスカニ見ツメテ考ヘルノデセウ。/一心ニハゲミナサイ。一心ニフルヒナサイ。/(オナツカシイ先生、サヨウナラ)

     芳武茂介から

  太陽の光を暖く浴びて、草木の芽は目をさました。川柳は何やら小さな小さな音楽を歌ひつつ、ささやかに流れる小川の傍で、仲よく遊んでゐる。/白いとみた雪のところどころに、若草が青々として見える。/一人の少年が近づいて来た。どかと腰を落し、草の芽生えを眺めなから、写真機を出して何か写した。》「宮内小学校百年のあゆみ」


「以前『教える』という言葉が使われました。私には不満足であります。たとえぱ、親孝行とはかくすべきだと教えることは誰にでも出来ます。けれどもこれだけでよいものでしょうか。戦争後には『指導する』という言葉が使われるようになりました。これも不満足です。こうして親孝行をしなさいと指導すること誰にでも出来ます。けれどもこれだけでもよいものでしょうか。/ 私は、教育は『感化』であると信じております。自分自身が親孝行でなけれぱ、子供を孝行の人に感化するわけには参りません。感化は理屈ではありません。理屈などは、子供自身が先刻知っております。わかっておるのに理屈を並べるから、子供はますますいやになるのです。/ 教師や大人に純情があり、熱情があり、若々しい鋭い感性があり、けがれない良心があり、同感があれぱ、必ず子供は感動を受けます。感動のないところに、感化はありません。教育は人間との共鳴に出発すると存じます。》(『追想 田島賢亮』昭和61年)


・教え子たち

須藤克三、芳武茂介、黒江太郎、小田仁二郎、大竹俊雄(自由律俳人、果樹農家、市会議員)、吉田誠一(石工、小田仁二郎碑等)、佐藤忠三郎(同級会長、市会議員、(医)公徳会理事長・NDソフト(株)社長の父)、海老名松之助(農業)、漆山源次郎(農業、市会議員)、加藤栄一(農業)、菅原正藏(建具製造)、鈴木隆一(宮内高教頭)、高橋ヨシ(女医)、中山いち(女子美術学校時代に夭折)、高橋儀一郎(東京で夭折)、三須秀三(NHK国際調査局チーフ)、相原四郎


須藤克三(明治39年―昭和57年)

「自由創造教育の開花」(全文)《わたしが山形県師範学校を卒業し、母校に教鞭をとるようになったのは大正十五年の四月一日であった。/校長は恩師の山田二男先生であった。/山田先生は首席訓導からばってきされた気鋭の校長で、おそらく県内でも数えるほどしかいない若手の校長であったと思う。/大正の末期は自由主義のらんじゆく期といってよく、自由、創造、個性というものが教育でも重視されていた頃だった。/山田校長は当時の教育思潮の旗手として高く評価されていたのであった。/わたくしはいきなり高等一年の担任となったが、六年生まで三組であったのが、男女混合の一組に編成され、七十人を越すマンモス学級であった。おそらく校長は、予算上、やむを得ず非常手段をとられたにちがいない。/校長は高等科の学科担任制をとり入れた。学年担任は修身科のほか数科目を受けもつが、可能な限り学科担任をはかったし、ローマ字や英語なども特別指導した。/現在の新制中学の前身ともいうべき画期的なシステムを、四十五年前に山田校長が実施したわけである。/わたしたち若年教師は、田制一士氏(現在の須藤医博)を先発にして故広居忠雄、故稲毛俊郎、鈴木喜次の諸君とともに、佐野敏男氏を若年寄格にまつりこみ、奔放といってよいほどそれぞれの教科にうちこみ、新風をまきおこした。/夏休みに、鼠ケ関で開かれる海浜学校での学芸会は、広居君の音楽指導によってオペラ風の唱歌劇が人気を呼んだし、佐野、田制両氏による科学教育は、直観教育という名のもとに県下に響いた。/わたしは、山田先生の指示により、学校図書館をつくった。どのようにして予算化なされたものかどうかわからないが、とにかく一教室をそれにあて、時間割をつくって尋常科高学年以上に読書の指導をした。これも現在の学校図書館のはしりといってよいだろう。また全校文集「鍾秀」というものを活版刷りで発行したり、夏、冬の休みの宿題として、図画や書き方の外に、児童詩をつくらせ、それぞれの廊下に張りだし、推賞した。/わたしは詩を担当したので、全校の作品をハシゴをかけて一枚一枚読んでは、金紙や銀紙を貼っていたので、一年から高等三年のものが終るのに、深更に及んだものであった。鈴木君広居君が、ローソクをもって審査に協力してくれたことを今も覚えている。/わたしたちは、個人生活では、ややほうらつの点もあったが、勉強を怠ったわけではない。/やがて田制氏は慈恵医大、わたしは日本大学に、鈴木君は音楽を志して上京、また後輩である栗野君は東京高師体育科に入学した。広居、稲毛の諸君は長男のせいもあり、残って佐野氏とともにこの新風をより堅実なものに努められたのであるが、すでにこの頃、軍国主義の無気味な暗雲が教育界にもたれこめてきていたのである。》「宮内小学校百年のあゆみ大正9年卒・旧職員)


理論社を創業し多くの児童文学者を育てた小宮山量平氏が南陽市で『児童文学に賭けた半生―須藤克三との出会い』と題して講演されています。ふたりを結びつけたのは『やまびこ学校』でした。氏は日本の戦後史の中に須藤克三を位置付け、今なおその役割は終わっていないと訴えられました。/
「戦後すぐ、日本語がこの世から消滅するんではないかという風な時代が来ていたわけです。・・・日本人が、本当の意味の日本人の心を失ってはならない。・・・いちばん大事なことは日本語というものを大事にしなければならない、そのことに心を繋いだのが無着さんの仕事であり、それを大きく支えた須藤克三の仕事でした。」「根こそぎ日本は植民地化されるような状態がやってくるかもしれない。そのような事になる前になんとかしなくちゃならない。」そういう中で、「必死になって子どもたちの中でいい文章を守ろうとした。」日本全体、分裂対立の風潮の中にあって、克三は日本語を守ることを通して日本人がひとつになることを呼びかけた。小宮山氏は克三と「日本はもう一度敗戦を迎える。それまでに日本語の大切さを守り育てておかなくちゃならない」と切実な思いで語り合ったといいます。》(「この師ありてこそ―田島賢亮」)


芳武茂介(明治42年―平成5年)

《誰もが望郷の念に駆られる年配になって、直面する大学の学生騒動は、私にとって恰好の「六十の手習」だった。/そんなとき、自然と人世のほどよき調和をたもつ美しい山河を思い出す。その北方に高く、南方にひらけた理想の場所に建ち、百年の歳月をむかえる宮内小学校は、まさにふるさとのセンターであり、郷党のシンボルであり、心のよりどころでもある。》「宮内小学校百年のあゆみ大正11年卒)


今でこそ「デザイン」という仕事は、ものづくりにおけるソフト分野としてそれ自体独立した地位を占めていますが、以前はそうではありませんでした。伝統的な職人的ものづくりの世界では、昔からのやり方そのままの踏襲が基本であり、そこに新たな意匠を付け加える必要はなかったのです。さらに近代になっては、外国製品そのままのコピーでほとんど事足りていたのです。東京美術学校(現東京芸大)工芸金工科卒業後、昭和10年商工省(通産省を経て現経産省)工芸指導所に入所した芳武茂介は、まだ日本人のだれもデザインというものの大切さに気づいていなかった中にあって、ものづくりにおけるデザインの重要性に着目し、商工省の役人として国家的立場から啓蒙する役割を果しました。

 日本従来の工芸的手工業から脱皮し、最新の科学と技術を取り入れて良質と量産の両立を目指すにはどういう形と機能をもつ製品を作るか、そのためにはまずデザインから始めなければなりません。茂介はそうした時代の要請にいちはやく着目し、クラフトデザイン運動の先頭に立って外国製品のモノマネ文化を脱し、やがて日本製品が世界で評価されるようになる礎をつくったのです。》(「この師ありてこそ―田島賢亮」)


黒江太郎(明治43年―昭和54年)

《いつまでも忘れられないのは田島賢亮先生である。そのころ先生は自由律俳句の新進作家であった。田島先生は郷土に文化の火を高くかかげ、教え子の幾人かにともし火の火だねを伝えた先生である。先生はまもなく東京の大学に行ってしまった。》「宮内小学校百年のあゆみ」大正12年卒)


《斎藤茂吉〈明治151882-昭和281953〉は、茂吉を年少より深く敬慕し、疎開中の茂吉に衷心尽くした仲ノ丁の歯科医黒江太郎〈明治431910ー昭和541979〉との縁で、二回宮内を訪れています。
/ 最初の訪問時、茂吉の日記にこうあります。
/〈(昭和
22年)五月十七日、土曜、ハレ、クモリ、・・・(上山駅で)一時五分汽車が来タノデソレニ乗り、赤湯デ降リタ。結城哀草果、西村モ同車デアッタ。徒歩ニテ宮内町ノ黒江太郎方二著イタ。○ソノ夜、女流ノ骨折ニテ鯉ヲ主二シタイロイロノ料理ガ出タ、酒、ぶだう酒、○黒江氏の蔵ニ臥、入浴〉

この時の会話の様子を黒江が記録しています。
/〈先生は目をつむって、「いい歌作ったす。
『道のべに
?蓖麻(ヒマ)の花咲きたりしこと何か罪深き感じのごとく』、どうだ、『何か罪ふかき感じのごとく』はいいだらう。それからこんな歌も作った。『少年の心は清く何事もいやいやながら為ることぞなき』、何事もだぞ。『いやいやながら』はいいだろう。こんなあたりまへの事だって、苦労して苦労して作ったものだ。苦労した歌はいい。」と仰言った。「おれは天下の茂吉だからな。」、先生は一段と身をそらして、恰(あたか)も殿さまのやうに両肱(ひじ)を左右に張って見得をきった。〉
/ その晩の献立表が残っています。「鯉の甘煮(うまに)、鯉のアライ、茶碗ムシ、煮染、豆腐の木の芽田楽、ウドの胡麻アヘ、アケビの萠(もえ)浸し、蕗(ふき)の煮ツケ、トコロテン、ナメコの吸物、蕨(わらび)汁・・・」でした。翌十八日は蓬
?
院で歌会。翌十九日、赤湯御殿守旅館まではリヤカー、宮内高等女学校の生徒四人がリヤカーを引くのを手伝い、茂吉先生大喜びでした。》(「宮内よもやま歴史絵巻 斎藤茂吉と黒江太郎」)


小田仁二郎(明治43年―昭和54年)

なにしろ、先生がきまったかと思うと、すぐのように代わるのだから、べんきょうなんてそっちのけ、教室のなかは、わいわい、がやがや、楽しい毎日だった。先生のほうも、やりたいように、楽しんでいたようである。ローレライの歌を、原語で教えてやる、という先生がいて、始めたところ、二、三回でやめになった。そんなもの教えてはいけない、と学校から言われたそうである。》宮内小学校百年のあゆみ大正12年卒)

小田文学碑建立の平成三年、寂聴さんは宮内での講演でこう予言しました。/ 「その一冊(『触手』)が、将来私も死に、あるいは遺族も死んで何十年かたった時に、日本だけではなく世界の文学として取り上げられ、翻訳され、日本の歴史の一つの文学の流れの中で、ある峯だとして見直される時が必ず来ると私は予言いたします。」・・・・・(『触手』の巻末解説の中で)福田(恒存)は言います。/「かれは現代の日本において、その文学的水準に比して、少々新しすぎる小説家なのである。・・・『にせあぽりや』や『触手』はヨーロッパ文学の今日の水準に達している作品であり、その土地に移し植えても依然として新しさを失わぬものであるに相違ない。」》(「この師ありてこそ―田島賢亮」)


田島先生がこの地に植え付けたもの―世界に冠たる気概

《田島賢亮が宮内に残したものは何だったか。教え子たちの業績を通して浮かび上がってくるのは、人としての「矜恃(きょうじ)」です。自らを恃(たの)むことで自ずから成る矜(ほこ)れる気持ち、深く時代に沈潜しつつ決して阿(おもね)ることなく自らの道を切り拓く、振り返れば時代の先覚者としての役割を果しているのです。文学においてすでに当代一流の評価を得ていた賢亮の矜恃の思いが幼な心にそのまま伝わり、どこに出ても臆することなく自ら信ずるところを進むことができる、その精神を植え付けたのではなかったか。》(「この師ありてこそ―田島賢亮」)

田島先生が宮内の教え子たちに残した「矜恃」という気持ち、それは言い換えれば「高み」をめざす気持ちです。ただしその「高み」は地位や名誉上のことではありません。まして金銭上ではありません。実は田島先生は宮沢賢治とは学年で一級下、ほとんど同年代です。賢治がめざしたのは「ほんたうのほんたう」でした。それには何よりも「精神の自由」が前提です。田島先生と重なりました。賢治と賢亮、二人を生んだ時代の空気をふと吸い込んだような気がしました。》(「この師ありてこそ―田島賢亮」)


21世紀、置賜は世界の中心となる!!


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