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お祭り(宮内熊野大社例大祭/宮内熊野の夏まつり)がはじまります! [熊野大社]

熊野の獅子祭.jpg今日(23日)午後8時祭り初め・稚児舞(チゴタゴ)。いよいよです。

北野猛宮司m_2-E58C97E9878EE78C9B.jpg
たまたま一昨日、北野猛先々代宮司が書かれた『熊野の獅子祭』というガリ版刷冊子のコピーが目にとまり、読んでみると大事なことがいっぱい書いてありました。昭和37年(1962)ですから、黒江先生の『東北の熊野』(昭和49年)よりだいぶ前、今では全く忘れ去られていることも書いてありました。とりあえず獅子冠事務所に関わる部分をデータ化しました。

   *   *   *   *   *

宮内文化史資料第二集別冊  宮内文化史研究会 昭和三十七年(1962)九月十日発行


     『熊野の獅子祭』 北野猛  


        十一 箱ばよい


 シシ祭りは、夜祭りのシシお下り、即ち箱バヨイから始まる。シシやミコシの出御をオクダリ、還御をオノボリと申し上げている。箱ばよいとはシシのお下りのことで、この時はシシが箱に納まったままでお下りになるのでこう呼んでいる。


 夜祭りの日の午前八時ごろ、シシ冠り世話方が本殿につめかけて、シシの幕つけが始まる。神庫にお納めしてあるシシを本殿に移し、本殿の殿内で幕をつけるのである。これをお幕付けといっている。初めに御髪(オシダ)という生紙(キガミ)で作ったものを毛髪のかわりにつけ、幕をぬい、シデという紙で作ったものをお幕全体につける。体毛の意味かもしれない。全部つけ終わると、径一尺もある底深い古びた盃に神酒がなみなみに盛られ、シシをお清め申し上げて桐箱に納める。この箱の上をさらに紙を幾枚も張ってつくった丈夫な箱に入れ、その上をシシの幕で作った袋に納め、本殿の案上に安置して天津祝詞を奏する。


 三番鐘が鳴り渡り、夜まつりの儀式もすみ稚児舞が奏され、オミコシは山を下って枡形に安置される。次に六番鐘が鳴ると箱ばよいがはじまる。

 まず神官二名本殿に昇り、シシ頭取りがシシ添二名をしたがえて仕候する。権祢宜の修祓、祢宜の祝詞奏上があり、終ってシシ頭取りはシシのお箱を背負い、シシ添二名は左右から添縄を執って腕を差し込みこれを扶ける。シシは静かに立って社殿を出ると、待ちかねていた行者は左右前後からシシめがけて殺到する。シシは行者にもまれながら、先頭の梵天のみちびくままにお宮をのの字なりにまわり、お坂を降って社務所に向かう。この間行者は箱に近づき、手を伸しては箱とわが頭を交互に打つ。指先が箱にふれるとご利益があるといわれているので、若者らが真剣に打つさまは勇壮きわまりない。バタバタバタバタと箱をうつ音はものすごく熊野の社にこだまする。

 やがて行者の群れが社務所に近づく頃、斉場から警鐘が鳴りひびき、シシが近づくほどに次第に乱打される。いかにも迎神という宗教的雰囲気がかもし出され、喧噪のうちにも壮厳な霊気があたりをおおう。白丁が警棒を組んで群衆をかき分け、六供の衆につづいて朱傘をかざした神官が斉場に入れば、シシ箱を背負った行者の群れが雪崩のように滑り込む。

 シシは案上に安置され、行者は鳴りをしずめて平伏すれば、世話方の手によって御幕を除き上箱を取り、最後に頭取りの手によってシシは御座所に飾られる。その瞬間万雷の如き拍手が涌き、拝詞が唱えられる。「アアヤニアアヤニクスシクトウトクマノノオシシノミマエニオロガミマツル。」(昔はサンゲサンゲロッコンダイショウ」)霊気堂に満ち、万人これに和す。まさに神の顕現であり、一年振りでシシを拝する行者や信者などの法悦の姿は、他所では見られない真摯なものである。やがて世話方がオヤワラオヤワラと連呼すると、行者は立ち上がり祭壇から退場する。神官が御清め(御幣に神酒を浸して以下同じ)を奉仕し、信者から納った御供が飾られて、祝詞が奏上される。一晩中参拝者が引きもきらず翌日の御上りまで賑うのである。

 祭事が終ってから、神職・氏子惣代・六供の衆・それにシシ頭取りを迎えて簡粗な直会が行なわれる。シシ頭取りの直会には豆腐一丁に醤油をかけて出すのを恒例としている。


        十二 梵天競 ボンデンバヨイ

 

 梵天ばよいは、日まつりにオミコシが御上りになった後で、シシの御宝前で行なわれる。ミコシのお上りが終わると、行者も群衆も社務所に集まる。手に手に榊をもった獅子児(シシゴ)はタスキ鉢巻きの凛々しい姿で集まってくる。やがて定刻が近づくとシシ児らはシシの御宝前すなわち社務所前の庭上の両側に並列する。

 榊をもった大勢のシシ児の中に、御丸をつけた者三人、扇をつけた者三十三人が交っている。御丸とは径一尺位の杉柾の丸い曲(マゲ)の両面に白紙を交叉して張り、糸で榊の上位に懸けたものをいう。この丸曲は天戸開きに太玉命(フトタマノミコト)が八咫鏡(ヤタノカガミ)を懸けた榊を手に持ち、天照大神をお迎えした古事にもとづき、つまり神鏡の意であり、天岩戸に倣って定められた神事である。

 また扇は木羽で扇の形をつくり、白紙を互いちがいに貼ったものを榊の上位につける。扇で神をさし招く招神の御儀である。この扇もむかしは普通の白扇を用いたが、上杉鷹山公の御倹約の思召から今のような木羽に改められたと伝えている。

 定刻になると、シシ冠世話方集の下位の者から順次に梵天を捧げて、シシ児が整列している中を往復して、次の者から次の者へ送られる。梵天が目の前を行き来すると、シシ児は力の限りこれを打つ。梵天持ちが年寄りのときは心して静かに打つが、若い者と見ればシシ児らは全く気負いたって力いっぱいに打つ。時にはシシ冠りがこれに交って榊で打つばかりでなく、この梵天を奪い取り、梵天についている御幣や旗ももぎ取られてしまい、何もついていない幣串を持って神事が続けられる。

 最後にシシ頭取りがこれを奉持してこの神事が終わる。神事がおわると、用意してある新しい御幣と白木綿の旗がつけ更えされる。この神事は、ボンデンバヨイ・ボンデンイタダキ・ボンデンハタキとも呼ばれてきた。


        十三 御獅子冠り


 おシシ冠りは日まつり最後の神事であって、午後四時から始まる。オシシカブリ・オシシバヨイ・オシシオヒ等と呼ばれ、このお祭りでは最大の神事である。古人はシシを熊野の御神体として信仰し、このお祭りは我等の祖先にもっとも親しまれたもので、私たちの風土の中で育ってきたもっとも特色のあるお祭りである。梵天競がすむとシシ冠りがはじまる。

 この時祭場に入る祭官の行列は物々しい。これは大津家先祖とシシの因縁話から始まったもので、このため大津家は永くこのお祭りの主導権を握って来たものであったが、大津家が社家として廃家となってからは、山上のお宮から行列をととのえて来ることになっている。

 定刻が近づくと、参道も社務所の庭も人出でいっぱいになり、身動きもできないほどの混雑になる。警棒を持った警護職二人に道をひらかせ、六供の衆が先導し、次に朱の長柄をかざし衣冠に身をととのえた祢宜権祢宜の二人が、威儀を正して人波をかき分けながら堂々と祭場に入る。

 この儀式は、応永二十年(1413)の火災で社殿旧記等の一切が炎上したとき、社人大津美作守が命を賭し本尊三仏体とシシ頭を救出して奉還したという古事により、シシ祭りのはじまる前に大津神主に礼をつくして祭壇に迎えるという来歴から始められたと伝えている。今日でも往時の功績を偲びこの仕来りを守っている。

 神官の入場が終ると、最後のお清めが行なわれ、一同はシシの御垢を頂戴する。神官から六供の衆に、次に氏子総代へと大盃(径一尺もある菖蒲沢焼とも思われる大きな盃)をまわし、それが終るとシシ御出御の最後の拝み上げが始まる。

 おごそかな祝詞の声が終ると、静粛な祭場がにわかにざわめきたってくる。この時神官(昔は大津神大夫)がシシを執ってシシ頭取りに授ける。これも昔は大津神大夫が必ず手をかけてから頭取りが手をかけることになっているた。シシが正面を向いて口をあけると、神官が御酒を口にそそぐことになっていた。その瞬間警鐘が乱打され、シシ冠りはシシを目がけて殺到する。これはおしだ(髪)を取るためである。おしだとは頭髪の意であり、紙で作ったものである。このおしだを頂いて飲めば、頭痛や腹痛その他万病に霊験あらたかとして信仰されてきたものである。

 この行事次第も社会風教上の移り変わりから、物の考え方がちがったせいもあろうが、祝詞が終ったか終らないうちに行者がどっと襲いかかり、あっという間におしだは全部取られてしまう。その様相は実にものすごく、これを拝観する人はかたずを飲み、手に汗して拝観する。まさに神威あたりを払い、霊気堂に充ち満ち神人合一の夢現境である。

 かくしてシシは行者に護られながら祭場を出て、参道を南して大鳥居に向かう。この様を望見するに、シシは人波の上を、シシ冠りの渦巻きの中を浮きつ沈みつ流れるが如く、時に人波の上にシシの頭が高く踊り出て拝むことができるが、たちまち又人波の中にかくれてしまう。特に勇壮なのは、タスキ鉢巻の幼いシシ児がシシ冠りの肩車に乗ったり、シシ児の少年がシシ冠りの頭の上を渡ってシシに近づき、一生懸命に可愛い手をさしのべてはシシを打ちわが頭を打つ。これを交互に打返している真剣無我の姿である。これを拝む人達は、若しや怪我でもしなかろうかとハラハラする。然しお精進をしたかいがあってか怪我人はほとんどない。血をみれば精進が悪いとされ恥かしいことになっている。

 シシは大鳥居に辿りつくと直ぐ引き返してくる。鳥居から外へは出ないことになっている。もしシシでもミコシでも大鳥居から外に出るようなことがあれば、いくさか騒動が起きるとされ、不吉なしるしとされてきた。大東亜戦争の時は毎年のように大鳥居の外に出たので「これではいくさが大きくなるばかりだ。」と年寄達は心を痛めて歎いたものであった。

獅子舞立場図.jpg

 大鳥居から引返したシシは一路参道をお宮に向う。その途中に立場(タテバ)というシシをつかう(シシ舞のこと)所がある。この立場ではシシ冠りがシシを手放して世話方に渡し、世話方は一人ずつ交代にお幕の中に入ってシシを使うことになっている。シシ舞が始まると、社人は銅鑼を鳴らし笛を吹き扇をかざして差し招く。人みなこれに和して歓呼する。昔はこのシシ舞のときは、シシを世話方に任かせ十分に舞わせ、大いに神慮をなぐさめたものであったが、今では瞬時にして人波に没してもみ合いとなり、もみつもまれつ

人のかたまりは次の立場へ登っていく。

 立場は次の四カ所七神社の十一カ所である。

  一、大鳥居

  二、社務所前

  三、勅使橋前

  四、土社神社(不動尊・境内社の内でもっとも古い社)

  五、御坂上(オミサカウエ)

  六、本宮

  七、二宮

  八、三宮

  九、八幡宮

  十、神明社

  十一、景政神社(元の金剛剣・このお社は神社の鬼門に祀られているためここでおさめることになっている。)






 



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