やすえちゃんがなぜ鷹山公とつながったか [舟山やすえ]
舟山やすえちゃんの出陣式のスピーチを聴いて鷹山公を感じ、買ってあった『上杉鷹山と米沢』(小関悠一郎 吉川弘文館 2016.3)を手に取り、実におもしろく読んでいる。そんな折りの今朝(28日)の山形新聞「気炎」欄、いつも刺激的な論を展開してくれる天見玲さん(南陽市在住)の「新しい判断」という文章。
天見さんは、安倍首相の発した「新しい判断」という言葉が「政治の世界と文学の世界の境界を明らかにした」という。異議を唱えたい気持ちになった。というのも、私がやすえちゃんのスピーチに鷹山公を感じ取ったのは、政治と文学の境界を超えた「信義」を当然視する、人間としての「あたりまえさ」のゆえだった。
政治はまずもって利害、その感覚があたりまえの人から政治を遠ざける。『上杉鷹山と米沢』では、鷹山公が35歳の若さにして先代重定の実子治広に家督を譲る理由を、「興利の政」への偏りが「士風の頽廃」を助長しているとの藁科立遠の指摘を真摯に受けとめ、そこを糾して人心を一新するもっとも円滑な方法は藩主の代替わりであるとの判断であったと見る。後年、鷹山公50歳を過ぎてから「家中の生活維持についての申達が『利』に趨(はし)る風潮を助長したのは『残念』だった」と述べているのだという。
「おカネだけではありません、経済だけではありません。地域にこそ豊かさが宿り、地域にこそ、すばらしい人間関係、文化伝統が眠っております。おカネに替えられないこういった価値を守ってきたのは、まさしく地域に住む私たちひとりひとりであります。だから今の農業政策もうまくゆかないんです。農業は単に生産をする、生産をして食糧を供給するだけではありません。農業があって、集落を守って、人が宿って、そうして伝統や文化を守り支えてきた、こういう役割をなぜ評価できないのか。地域社会にある、山形にある歴史や文化をなぜ大事にしようとはしないのか。今のアベノミクスの中には、これを守ろうという、大事にしようという視点は全く入っておりません。」
やすえちゃんに鷹山公を感じ取ったわけをあらためて確認させられたところです。
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新しい判断(28.6.28 山形新聞「気炎」天見玲)
安倍首相は2014年の11月、15年10月に予定していた消費税10%への引き上げを17年4月に先送りした。その際、「再び延期することはない。はっきりと断言する。景気判断条項を付すことなく確実に実施する」と言明した。
ところが6月1日、首相は「これまでの約束とは異なる新しい判断」を下して、19年10月まで再延期することを表明した。理由として世界経済の不透明感や内需を腰折れさせかねないリスクがあることなどをあげる。
再延期の理由は景気判断そのものである。あれほど再延期しないと約束したことを「新しい判断」で覆した。この日の首相の会見をテレビで見ていて「新しい判断」は我が胸に突き刺さった。この言葉を許容するならば政治の世界に信義は存在しなくなる。公約違反はすべて「新しい判断」として片づけられてしまうからである。孟子の「信なくんば立たず」は政治の世界でよく引用されるが、これ
も危うくなる。「新しい判断」は信義に関わる問題を露出させた。
一方、「新しい判断」は政治の在り方を強烈に示唆する言葉でもある。経済は生き物と言われる。首相にすれば生き物の動きに従って判断したにすぎないのかもしれない。税金のアップを喜ぶ人はいない。消費税引き上げに関するアンケートによれば、再延期に賛成する人が多数を占める。この辺りも計算に入れ、だからこそ今回の参院選で信を問うのだというのが首相の言い分であろう。
「新しい判断」という言葉を聴いて、思い浮かべたのが太宰治の 「走れメロス」、上田秋成の「雨月物語」中の「菊花の約」である。どちらも約束を果たすため、信義を守るため命を懸けて行動する。
「新しい判断」からは文学は生まれない。政治の世界と文学の世界の境界を明らかにしたのが「新しい判断」であった。 (天見玲)
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