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朝に出会った方への返信 [思想]

15日の朝に出会った方から「『愛国と信仰の構造』を読んで」に対して次のコメントをいただきました。
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興味深くよませていただきました。ヨーロッパ的価値に対峙するものとしての東洋的価値を挙げるのは、ある意味、尊王攘夷運動以来、日本人が持ち続けてきた、ある種の情念のごこときものかもしれません。それゆえ、ブログの内容には、共感を覚えるのですが、また、それゆえの危惧も覚えざるをえないのです。

日本会議と安倍晋三に対する評価は、私の興味からはまったく関係のないところにあります。私が危惧を覚えるのは、

「戦後教育」の結果へのアンチから出発した運動は、戦後を否定するあまり闇雲な戦前の肯定となり、必然、「個人」の前に「国家」第一の「全体主義」ヘと通底する。の記述です。「闇雲な戦前の肯定」はなぜ「個人」の前に「国家」第一の「全体主義」ヘと通底するのか。

こうした見通しを示したのは丸山真男であったと申し上げれば同意していただけるとおもいます。失礼ながら、時間の合間をぬってこの文章を書いていますので、確かめる余裕はなく、うろ覚えの記憶をたどれば、丸山は、戦前の日本を全体主義国家として定義しようとしましたが、日本にはヒトラーもムッソリーニもいませんでした。そこで、全体主義の責任を地方の知識人――教師・僧侶・神主――と天皇に押し付けたのではなかったのですか。そして、自らを含む一流の知識人は全体主義に抗した人間として免罪符を与えたのだとおもいます。

丸山の死後、丸山が徹底的に批判されたのは当然です。そもそも、丸山が全体主義と指摘したのは、戦時下にある特有な体制であり、それは、いわゆる民主主義国家といわれる国々でも同様であったことは、アメリカの日系人収容所一つをとっても明らかです。ありもしなかった全体主義を愛国やナショナリズムのせいにすれば、愛国やナショナリズムを見誤らせます。

お断りしますが、私は、ナショナリズムを全面的に肯定する立場には立ちません。愛国は人間としての素朴な感情としての愛国は誰もが否定できないでしょう。それに対してナショナリズムはイズムです。私は、主義というものに一種のいかがわしさを感じ続けています。

しかしながら、偏狭なナショナリズムが大東亜戦争の原因であったなどとする立場は、誤りというよりは、ほとんどねつ造でしょう。この戦争を理論的に指導した大川周明は疑いもなくインドに目を向けたアジア主義者であったではありませんか。北一輝が中国の革命に身を投じたことも疑いのない事実だったではありませんか。彼らが大東亜戦争に重大な責任があったことは誰も否定できないでしょう。ただし、彼らは、疑いもなく、アジア主義者であり、偏狭なナショナリストなどではなかったのです。彼らは東洋的価値を旗印に欧米に対抗して敗れ去っていったのではないのでしょうか。私の彼らへの批判は同情とともにあります。

中島岳志と島薗進の本は読んでいませんが、大川周明と北一輝とどこが違うのでしょうか?

by 朝に出会った者 (2016-06-16 12:06)

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返信です。
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朝(15日)に出会った方、早速のコメントありがとうございます。


>私が危惧を覚えるのは、
《「戦後教育」の結果へのアンチから出発した運動は、戦後を否定するあまり闇雲な戦前の肯定となり、必然、「個人」の前に「国家」第一の「全体主義」ヘと通底する。》
の記述です。「闇雲な戦前の肯定」はなぜ「個人」の前に「国家」第一の「全体主義」ヘと通底するのか。


さすがいいところを衝いていただきました。丸山真男や大川周明や北一輝と言われても受け売りの知識しかありません。ここの箇所は知識としてでなく、私自身の感覚で書いた文です。私自身の体験からの言葉と言っていいかもしれません。それだけに「こんな風に決めつけてしまっていいのかな」という思いも過(よぎ)らせながら書いた、あとで読み返して不安が残る箇所でした。それだけにあらためて考えてみるいいチャンスを与えていただきました。

 

「個人と国家」の問題は、私にはまずもって〈私〉と〈公〉の問題としてありました。私(わたし)的にはデカルトとメルローポンティにまで遡ります。「われおもう、ゆえにわれあり」、コギトすなわち超越論的主観性から出発するデカルトに対して、フッサールからメルローポンティにつながる現象学では「われなしあたう、ゆえにわれあり」の言葉が対置されますが、その主体は相互主観性(間主観性)です。このときの人間は抽象的に考えられたものではなく、あくまで身体をもって他者とともに在る人間です。そのレベルでは意識は他者の意識と溶け合っています。このことは、ミラーニューロンと名付けられた神経細胞の存在によって生理学的に裏付けられます。「DNA発見に匹敵する世紀の大発見」ともいわれるようです。ミラーニューロンは、生まれてすぐ、赤ん坊のときにその形成が始まります。母親が笑いかけると赤ん坊は笑い返し、それにまた母親が答えて笑う、この繰り返しにより、ミラーニューロンが育まれ、他人の心理状態を理解する脳に発展します。共感能力の形成です。「ミラーニューロン」は「物まね神経」ともいわれます。他人が転ぶのを見て思わず「痛っ!」、他人の気持ちに「考えることなしに」即座に反応できるのです。「考える」以前、「生きている」そのままレベルでの人間です。デカルトのように「考える」に向うと〈私〉に向いますが、「生きている」そのまま、現象学的には、まずもって人間はみんな溶け合っているのです。そこに開ける〈公〉の世界です。


教職の資格をとるために「教育原理」という講義を受けたことがありました。そこで、日本の戦後教育の原理は、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」によって基礎づけられた主知主義であると聴いていました。ちょうどその頃メルローポンティに出会って、「デカルトはおかしい」と思うようになりました。「新しい歴史教科書をつくる会」の運動に本気になったことがありましたが、私は、「戦後教育の見直し」の射程を、「方便としてしか存在しない『自我』という観念を、何か固定した実体のように錯覚」してしまうこと、すなわち「デカルト的呪縛」からの解放まで考えていたつもりでした。その辺、「アジア主義」を提唱する中島岳志氏と重なってくるのです。氏の『アジア主義—その先の近代へ』(潮出版社 2014)を手に取り始めたところですが、早速序章に《「東洋的見方」は「物のまだ二分しないところから、考えはじめる」思考様式であり、「神がまだ『光あれ』といわなかった時」「あるいは、そういわんとせる刹那」において存立する認識のあり方だと言います。つまり〈主体〉が〈客体〉を一方的にまなざし、認識するというあり方ではなく、その両者の分離が成立しない「主客一致」の状態において成立する認識が「東洋的な見方」であると言うのです。》19p)の言葉を見つけ我が意を得たところです。


まだ答えになっていませんが、とりあえず今日はここまでにしておきます。ただ、私にとっての「戦後の見直し」は、大東亜戦争の反省もふまえた明治以降「近代」の見直しまで射程に入っています。日本会議(私にとっては「ビジョンの会」)は「戦後の否定」に急なあまり「戦争への深刻な反省」がぬけ落ちてしまっています。私にとって「戦争の深刻な反省」で思いうかぶのは遠藤三郎中将です。日本会議的感覚では、遠藤中将はおそらく「赤の将軍」の評価になってしまいます。昨日、遠藤中将揮毫の写真が手に入ったところです。「不惜身命」と「正直者上策也」。前者は大東亜戦争中(昭和18年?)、後者は昭和47年(1972)数え80歳の時です。写真を下さった方いわく、「『正直は上策なり』はまさに遠藤三郎という人の生涯をあらわす言葉です。」


「不借身命」遠藤三郎.jpg「正直者上策也」遠藤三郎.jpg


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めい

Honesty pays in the long run「長い眼で見れば、正直の方が引き合う」
《人間は誰か一人にでも「あなたの言うことは本当だ」と保証してもらわないと身体がもちません。/「あなたの言うことは正しい」では駄目なんです。》

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「「長い眼で見れば、正直の方が引き合う」:内田樹氏」
http://www.asyura2.com/16/senkyo208/msg/142.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 6 月 19 日 00:04:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU      

「「長い眼で見れば、正直の方が引き合う」:内田樹氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/20213.html
2016/6/19 晴耕雨読

https://twitter.com/levinassien

経歴詐称は「調べればすぐに裏が取れることについて嘘をつくはずがない」という合理的思考の裏を衝きます。

ネット上のデマはそれとは違って「嘘だとすぐにわかることを信じる人はいないから拡散しても実害はない」という無意識的な自己正当化によってドライブされています。

ネット上のデマをそのまま報道した新聞の記者たちは、無意識的には「俺たちの書く記事は『そういう事実があればうれしい』と願っている読者のニーズに応えるものであって、それが事実であるかどうかには副次的な意味しかない」と思っているのでしょう。

「正しい」政治的効果を達成するためには、事実を曲げたり、隠蔽したりすることは許される(どころか推奨される)と思っているジャーナリストをあらゆるメディアは一定数含んでいます。

メディア・リテラシーとは第一にその比率を各メディアごとに査定できる能力のことでしょう。

デマというのは「自分の言うことを政治的に利用しようとする者はいるが、本気にとる者はそれより少ない」というおのれの言明に対する予防的な評価切り下げ抜きには成立しません。

それが自分自身に対する「呪い」として機能することにデマゴーグたちはあまりに無警戒だと思います。

Honesty pays in the long run というのは中学で習った英語の格言で「長い眼で見れば、正直の方が引き合う」という意味です。

常習的に嘘をつく人間でも、自分がどこで嘘をついてどこで真実を語っているかを、自分に対しては曖昧にはできません。

その「線引き」に要する時間と手間は本人が想像しているよりもはるかに大きいということを忘れない方がいいです。

人間は誰か一人にでも「あなたの言うことは本当だ」と保証してもらわないと身体がもちません。

「あなたの言うことは正しい」では駄目なんです。

by めい (2016-06-19 05:07) 

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