木村東介「宮島詠士」(6) 詠士の生涯 [宮島詠士]
宮島詠士
—詠士書道とわが審美異説—
(六)
詠士の生涯
詠士すなわち宮島大八は慶応三年、米沢に生まれた。同じ米沢の志士雲井龍雄と詠士の年齢の差は二十三年、詠士とわたくしの差は四十年になる。
明治四年、七歳で上京、十一歳で勝海舟の門に入り、十四歳で清国の董遵楷に清語を学んだ。十六歳になると歌人関桂林について詩韻、孟子、詩経、紅楼夢を学び尺牘翻訳の教えを受けて翌翌年卒業、二十歳で江蘇の儒者陳積金について経音を学び四書を音訳し、左伝、戦国策の講義を聴くこと一年、翌明治二十年、二十一歳のとき、父の許しを得て四月に渡清した。
交通も不便な時代に、この二十歳の青年をはるばる横浜まで見送りに行った人たちの中に榎本武揚、副島種臣がいた。時局混沌、政界極めて多忙の折りに、当時の重要欠くべからざる二大巨人が一日を費やして一青年を見送ったことは、なにかこの国の未来を暗示していたように思える。
「七歳の十二月に上京」とひと口にいうが、十二月といえば羽前米沢はすでに吹雪に閉ざされている。四十年来の懸案であった粟子峠のトンネルが開通するまでは雪の難所でもあった。米沢を立って吹雪の山を福島の街まで越すにも、七歳の幼児にとっては命がけのはずだ。そして江戸まではさらに百里の道である。こうした幼児の気丈さを思うと、なるほどこんな人たちだけで明治の日本はでき上かったのだと、しみじみ思わずにはいられない。
それにしても勝海舟の門下に入った十一歳から、二十一歳で渡清するまでの精力的な知識欲、そしてそれを成し得る知能には全く驚かされてしまう。書いているこちらのほうが、頭が少しおかしくなってくるほどである。
二十歳の詠士がいかに優れた人材として渡清したかは容易に想像がつくのである。
明治二十七年、ひとたび帰国した詠士は東京帝大文科の講師となった。
詠士の帰国を聞いた劉生の父岸田吟香が、当時の文人たちを日比谷の松本楼に集めて「栗香(詠士の父)の長男が、八年間張廉卿について書を学んで来たそうだ。どれほどのものか、ひとつ書かせてみようじゃないか」と、一席設けたことがある。吟香が書道の達人でもあったことはあまりにも有名であるが、当時二十九歳の詠士の書を見て、一同驚嘆したという話が残っている。明治三十一年、詠士は善隣書院を設立し、ここに優れた門下三千人を集め、官途につくこともなく、ひたすら子弟の教育に努めたのである。その後、中国に再び渡り、中国要路の人々と君子の交わりを深めていたが、日支事変とともにやむなく帰国している。見送りに出た中国の人々は帰国する詠士のうしろ姿を見て、「東洋の書道之より日本に移る」と嘆息したとのことである。
かれの父、誠一郎は貴族院議員だった。勝海舟とは最も親しくしており、木戸孝允、伊藤博文、榎本武揚、福地源一郎、小松節美太郎らとも政治外交上常に往き来があり、詩文で深く交わっていた。伊地治正治、西郷隆盛、大久保利通、松方正義、黒田清隆、大山巌らの薩摩出身者との交遊も極めてひろかった。東西の情勢に通じていたため、重要問題発生の際には必ずといっていいほど、明治天皇から参議たちに「宮島の意見を聞いたか」「宮島はなんといった」と、御下聞があったという。
明治天皇御親政のもとに台湾征伐、日清、日露戦争が起こり、主戦論が世論として圧倒的な勝利を占めていたことは、明治天皇の御製、
「四方の海 皆はらからと 思ふ世に など浪風の 立ちさわぐらむ」
の意とあまりにも裏腹であり、理解に苦しんだが、詠士も父誠一郎の意を体得するに及んで初めて父の意を常に尊重されていられた天皇の御意中が判然とし、涙ぐましくお察しせざるを得なくなった。
宮島誠一郎は、薩長の顕官たちのごとく名利に執着することには極めて恬淡であったため、案外一般の人には知られていない。ただわが道を守って歩みつづける誠実の人であった。そして日露戦勝の夢いまださめ切れぬ明治四十四年、詠士四十五歳のときに、万事を詠士に託して惜しまれつつこの世を去ったのである。
誠一郎の設立した興亜会は詠士がこれを受け継いだ。東洋民族が打って一丸となるべき東亜問題のイデオロギーは、さらに岡倉天心をして「アジアはひとつなり」
の名言を吐かしめ、東条と対立してあくまで非戦論に終始した東亜連盟の巨人石原莞爾に引き継がれ、そして辻政信をラオスの奥深くに侵入させた思想へとつながっていった。現代にもその思想はなお脈々と日本の少数の在野人に受け継がれてきている。真実の燈がこの世から消えることなどはあり得ない。そして真実の流れに枯渇などあるわけがない。誠一郎が抱いた、そして詠士が受け継いだ東洋に対する平和のイデオロギーは、たとえ紆余曲折、変転しても明治天皇が「四方の海 皆はらから」と詠まれた大海に注ぐことは、当然の帰趨なのである。
昭和十八年九月、詠士は興亜もしくは振亜に異常な情熱を燃やしながら、ついに燃え上がることなく、時の軍閥、政界の愚を痛憤しながら憂悶のうちに逝いた。七十七歳だった。
(写真は『宮島詠士【人と芸術】」(魚住和晃 二玄社 1990))
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