SSブログ

木村東介「宮島詠士」(5) 「書は人なり」  [宮島詠士]

《捉美五十年の歩み、ハンター行路の終着駅間近になって、ついにわたくしは、詠士の書を日本最大の巨跡と決定するに至った。》

そうして次回の詠士の人となり紹介につなぐ。


*   *   *   *   *


宮島詠士

  —詠士書道とわが審美異説—

(五) 


「書は人なり」 

 


 詠士に関心を持つようになったのは、嘘と偽りの多い実の世界で本腰を入れて仕事をやるようになり、この世の真実の美を追求してゆくに従って、美の究極は、ことによったら、墨の芸術に帰結するのではないかと思うようになってからである。

 ピカソもルオーもミロもべンシャンも、必然的に墨の領域に没入してくるのではないかと感じた。かれらがひたむきに突きつめてゆく美の桃源郷は、まさに東洋にあると思ったのである。

 真実を求める欧米作家の群れは、川を遡る魚の本能のごとく東洋の神秘境へと集いよってくる。

 色のない色の美しさ—。牧渓、因陀羅、梁楷、禅月、大燈、虎関、明本、弘法も道風も日蓮、親鸞、一休も俗塵を洗い去った神域の人々で、墨の芸術はそれらの人々が人間界の俗心をかなぐり捨て、無心の中から自然界に生み出した神泉にほかならないのである。

 画面の構成、色感の配置、練達された描線、ダイナミックなタッチ、強烈なエスプリ等々どれを取ってみても、キャンバスや紙面に向かう作家のいかなる気魄も、ただ一点の無心な墨のしたたりには及ぶべくもない。ことによったら、世界の美術界のエポックである烈迫なフオンタナの提案も、東洋の墨の真実には、到底太刀打ちできないとさえ思えるのである。

 東洋の書に異常なまでの魅力を覚えて以来、わたくしはむさぼるように書を集め出した。慈雲、寂巌、明月、良寛、一茶、白隠、仙厓、米山等々。

 最近舌を巻いたのは、大岡越前守と塙保己一で、まさに「書は人なり」だとしみじみおもわずにはいられない。大岡越前の書などは考えてもいなかったもので、映画と浪曲と講談の作りごとの伝説ぐらいに思っていた。が、その書を見ると融通無碍、変通自在、円転滑脱、天衣無縫等あらゆる禅語が共通する幅の広い書で、この心で善悪正邪を判定していたものとしたら、なるほど名判官とうたわれたことも当然と思わずにはいられない。塙保己一の書もいわゆる心眼によってにじむ墨色であり、真にこの世の貴重品である。近くは中林梧竹、碧梧桐、会津ハー、魯山人、西田幾多郎らの書や、鉄斎、芋銭、高村光太郎らの書にも趣があり、誠に東洋こそは墨の花壇であると、しみじみうれしくまたありがたくも思うのである。

 そうした捉美五十年の歩み、ハンター行路の終着駅間近になって、ついにわたくしは、詠士の書を日本最大の巨跡と決定するに至った。その専横ぶりには、審美上の諸先輩からつるし上げを食うシーンであることを予測してはいるものの、たとえいかなる拷問に会おうとも、この決意をひるがえすものかと心で固く誓っている。ここでどうしても、詠士の履歴とその人となりについて簡潔に述べる必要がある。

 先にも言った通り芸術の本体は、その芸術を生み出す母体、つまり作家本人のエスプリにあると思うからである。(つづく)





nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。