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木村東介「宮島詠士」(7) 人種差別撤廃 [宮島詠士]

大正81919)年、第一次世界大戦における戦後処理を行うために開かれたパリ講和会議において、日本の代表である牧野伸顕次席全権大使が人種的差別撤廃を提案した。人種差別撤廃が国際会議において議論された最初である。この法案は差別行為が当たり前であった欧米諸国にとってかなり急進的かつ画期的な内容であった。牧野は真の世界平和を達成するためには世界から人種差別を撤廃することが必須と訴え、会議は紛糾し何日にもわたった。アメリカの黒人協会は歓喜し「全米の黒人は日本国に最大の敬意を払う」と賞賛した。さらにはアフリカ、アジアの指導者たちも喝采を送った。会議が紛糾する中で牧野は、「この法案は日本国民の揺るぎない総意である。そして、世界の真の平和と平等を願う人々すべての揺るぎない総意である」と主張した。 多くの国の代表がこの提案に賛成したが、アメリカ・イギリスなどの植民地を数多く持ち、その利権を手放したくなかった国は猛反発した。アメリカ国内では内政干渉であるとの反発をも呼んだ。採決の結果、賛成11・反対5となり人種差別撤廃法案は圧倒的多数で支持された。しかし、議長のアメリカ大統領トーマス・ウィルソンが、「全会一致を見なかった」ためとして法案は不採決と宣言。これに納得できない牧野は「これまではみな多数決で決めてきたではないか。全会一致でないといけないとは、一体どういうわけだ!」と詰め寄ったが、強制をもって否決された。


この結果を受けアメリカでは、政府に激怒した黒人達による暴動事件やそれに関連した白人による有色人種への暴行などの人種闘争事件が起こり、100人以上が死亡、数万人の負傷を出す。一方日本国内でも牧野や政府を軟弱と批判、国際連盟加入を見合わせるべきという強硬論も噴出、アジア主義者や反米英主義者達による政治結社が多く結成されることになる。やがて1924年のアメリカの排日移民法成立や1929年の世界恐慌等を経て、太平洋戦争への道を進んで行く。(参考:ピグシブ百科事典 http://dic.pixiv.net/a/人種的差別撤廃提案)


とはいえ、国際政治の舞台で人種の平等の確立を訴えたのは、日本が世界で初であり、この日本の主張は、欧米諸国による、人種差別にあえいでいた有色人種民族や、植民地支配国の人々からおおいに絶賛され、第二次世界大戦後の植民地解放の先駆けとなった。 そして実は、人種差別撤廃議論の発端をなすのが外ならぬ宮島詠士であったことを、以下木村東介が明かす。


*   *   *   *   * 

 

宮島詠士

  —詠士書道とわが審美異説—

(六) 


人種差別撤廃

 

 詠士の略歴は以上のように簡単ながら述べたが、さらに詠士の思想の片鱗について、もう少し詳しく語りたいと思う。

 「思想」などとえらそうなことを言ってはみたものの、わたくしの学歴、知性、教養のお粗末なことは、まことに心細い限りである。それにわたくしは、あくまでも世俗的な書画屋であり、未だその域を一歩も出ていない。この詠士の書に魅せられて、詠士のことを書くなどというのは、言語道断の話で、暴虎馮河もこれより甚だしきはないわけだが、己のコンプレックスに押しつぶされて、ペンを取れないほど気の弱い善人でもない。貧農の子秀吉は公卿に伍して和歌を詠んだのである。別に恐れることはないはずだ。わずか六百円のものが、十年もたたないうちに百倍にはね上がったという掛物の記録を残すことは、書画屋としてのわたくしにも許されていいだろう。元来、わたくしの性格はハッタリと虚勢に満ち、自信過剰は再三周囲の人の眉をひそめさせてきたものである。ところが詠士の場合だけは、その片鱗に触れることにすら、さすがの心臓男も萎縮してしまった感がある。

 「群盲象を探る」ということわざがあるが、探るにしても触れているところが足、鼻、尾の一部なら、曲がりなりにも格好がつくが、わたくしの詠士という巨象の捉え方に至っては、まさにそのうぶ毛すら、はたしてつかんでいるかどうか……。

 いまわたくしは、荒野に巨大なマンモスの骨片を拾い集めている。その拾い集めたもので、おぼろげながら巨体を組み立てていこうとしている。

 おそらく多くの識者は、このわたくしの暴挙を苦々しく思い、軽率な言動に眉を寄せるだろうが、かと言って、この巨人を一般大衆に知らせないような偏狭狷介な愚かさは、特にわたくしには堪えられないことである。

 第一次欧州大戦の直後聞かれたベルサイユ会議の席上で「人種平等」を全権大使牧野伸顕に叫ばせたのはほかならぬ詠士であった。この叫びこそは、全人類にとって千古に輝く不滅の言葉であった。

 会議出発に先立って、牧野が「出発準備に忙殺されて、自分でお訪ねする時間かありません。代理に小村欣一をお伺いさせますゆえ、パリの会議の席上で、日本は世界の代表に向かってなにを提案したらよいか、あなたのお考えを聞かせて下さい」と、小村に詠士の門を叩かせた。

 詠士は、言下に「人種平等の提唱」と答えただけである。いまでこそ当たり前になっているこの「人種平等」という言葉は、当時では暴論に近かった。同じ黄色人種の中でさえ、国力の差によって軽侮の念がみなぎっていた時代である。

 現在、世界の各地に人種平等ののろしがあがり、騒乱と歓喜の中に強烈な民族意識がたぎっている。かつて、強力、苛酷な弾圧によって押さえてきた強国も、世界人類の監視の中では自由がきかなくなってきた。まるで鶏をぶらさげた野人が衆人の前で殺して食えなくなった形である。やがては高原地帯でも、ジャングルの奥地でも、あるいは絶海の孤島でも、人間という生きものである以上、白黄黒の色の違いによる優劣上下はなくなり、すべて平等である天の理が全人類に浸透するときが来ることだろう。そしてそのときこそ、今日まで弱小民族として虐げられてきた国の人々から「人種平等の神は東洋の日本にあった」といわれ、渇仰礼拝の合掌が詠士に集中されるに違いない。詠士が釈迦や孔子やキリストに優るとも劣らない思想と信念の巨像であるゆえんは、そこにある。

 詠士が世界に向かって宣言した人種平等の言葉と三年前に東京で行なわれたオリンピック終幕のあの夜の感激とを思い合わせてみるがよい。

 世界九十三カ国の歓喜の嵐の中に陛下の前を手をあげ、帽子を振り、敬礼し、万歳を叫び、肩を組み、またある者ははね上がって、再びめぐり会う日を祈る人種平等の喜び……。数百人の選手を送り込んだ大国も、たった一人の選手を送ってよこした小国も、選手の資格は五分と五分、黄、黒、白、仲よく楽しく精魂をこめて競い合った君子の闘いの後の汗をぬぐい去った爽やかさ……。テレビを通じて目頭を押さえ、胸をつまらせたあの夜の感激は、生きてよかったと思わせる最高最大のものであった。 

 繰り返していうが、詠士が世界各国に向かって人種平等を叫んだのは、すでに五十年前のことである。黒ん坊が白色人種と同格だという考えは、いまでも一等国の騒動の因を作り出している。日本においても、華族、平民の階級意識が強烈で、上に貴族院があり、華族が士族をさげすみ、士族が平民を軽蔑し、平民がさらにその下をけぎらいしていた時代があったのである。かつては平民の中から初めて総理大臣が出たといって、国中が大騒ぎしたものだ。しかし平民出身の名宰相原敬も、結局は権力、財力の肩を持ち、一般大衆の待ち望んだ選挙をさえぎり、「普通選挙運動は危険思想なり」と断じた時代だった。その中にあって大胆にも「人種平等」を吐き得たということは、気狂いにあらざれば神の言というよりほかあるまい。

 もし仮に、詠士が人種平等の思想を徐々に実行していたとしたら、山師か狂人とみなされただけだろうし、また、強烈な信念のもとにみずから立ち上がったとしたら、人種平等の言は赤化思想と混同され、時の政府から弾圧を受けたことは確かである。詠士はだれに向かってもその思想を強要することなく、ただその信念のもとに、わが道に向かって静かに歩武を進めていただけである。烈々たる闘魂をいく重にも真綿に包んで、静かに水のごとく流れていただけである。

 

*   *   *   *   *

 

この出典が手元にあった。『宮島詠士先生遺墨選』(昭和32年)のコピーで、大久保伝蔵氏が中心になって開催した遺墨展のカタログ。30年ぐらい前か、近奈美子さんからお借りしてコピーしたものだ。詠士先生の門弟のひとり平貞蔵氏による「詠士 宮島大八先生」の中に「詠士先生の事蹟」として書かれてある。写しておく。

 

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詠士先生の事蹟

 

愛親覚羅溥.jpg

 師の張廉卿を凌ぐと称される先生の書と五十年に及ぶ善隣書院の経営を離れて先生を語ることは出来ない。しかし、その他にもたたえなければならぬ功績がある。その一つは、終始善意と誠意をもって日華親善に尽したことである。中国語の教授、中国語教科書の発行によってのみでなく、常に両国の相互理解による友好関係を深めることに意を用いた。中国の亡命政治家を助けたこともしばしばだった。満洲の溥儀皇帝は先生の徳を慕って師伝たらんことを請い四度先生に使を派した。先生は、その任でないと言って辞退されたが、それほどまでにお考え下さるならば、と宇佐美勝夫を推薦し、宇佐美が満洲国の最高顧問となった。

 その二は、阿片の害を除かうとして努力したことであらう。医学の大家に研究を依頼して新薬を作り、或は阿片の害を論じて警める等、目立たぬ努力を長年重ねた。その三は、黄河治水の問題である。中国における治水の重要なことを先生は絶えず説いたが、友人小越平陸、門弟小越十平、工藤忠、斎藤源内等は先生の志を受けて黄河を上下し対策樹立に力を注いだ。昭和十年後にも渡辺金三は黄河問題に取組んだ。小越と渡辺は信濃川の氾濫に悩んだ経験を持つ越後の人である。

 その他に先生の功積で殆んど世に知られないことがある。これは何かの折、先生が書院の老小使に話したことを伝え聞き、不審に思ってあとで先生に確かめたことである。第一次大戦後、ヴェルサイユ会議が開かれると、わが国から西園寺公望と牧野伸顕が全権大使になった。先生は、父誠一郎と牧野の父大久保利通とが友人だったので牧野とは早くから交り親しかった。牧野は出発に先立って「出発準備に忙殺され自分でお訪ねする時間がない。失礼だが小村欣一をお伺いさせるから、会議でどういう提案主張をしたら宜しいものか、お考えをきかせてほしい」と電話を先生にかけてよこした。先生は大事なことと思って色々思案したが良い考えが浮ばない。そこで、「師の勝海舟先生なら、こういう場合にどういうことを主張されただらうか」と考え、頭をしぼった。そして人種平等ということに思いついた。小村を通じて牧野にそれを述べたのである。今でこそ当然のこととされるが、当時このことに思い至ったのは偉とせねばならない。人種平等案はヴェルサイユ会議では採択されなかったが、黒人は牧野を神のように尊敬し、大きな希望を与えられるに至った。日露戦争における日本の勝利がトルコ以東の諸民族の覚醒を促したのに類する事件だったわけである。師海舟の識見を思い浮べこの点に着想した詠士先生の功は大きい。しかもそれを秘して功を牧野に帰していたのである。(つづく)



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