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木村東介「宮島詠士」(4) 詠士とのただ一度の出会い [宮島詠士]

《丸刈りのズングリした印象で、奥の部屋から現われた大八は、わたくしのさし出した堂々たる「雲井塾塾長」の名刺を中野正剛の名刺とともに、もみくちゃに握りつぶしてしまった。突っ立ったまんま見ようともせずに……。》

木村東介「宮島詠士」の文章中、最も強烈な印象の場面である。この文のテーマと深く関わる、とだけ記して先に進む。

 

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高瀬捷三の名前が出た。多勢丸中邸洋館にいい絵が在った。多勢丸中邸は製糸業全盛の大正末、20余万円を費やし、当時最高の材料と技術を駆使して建造された。90年を経ても立て付けに全く狂いがないのには驚かされる。土台から造りがちがうのだろう。ただ、見学するのに当主夫妻が現在生活する場を通って入らねばならないのが難点。それだけに保存がほぼ完全ともいえる。現当主健在のうちなんとか保全策をと機会あるごとに訴えているのだが。

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*   *   *   *   *


宮島詠士

  —詠士書道とわが審美異説—

(四) 


詠士とのただ一度の出会い

 

 わたくしは、二十二歳で上京した。そして劉生傘下の異才椿貞雄に会った。椿の父とわたくしの父は政治上の莫逆の友であったのだ。わたくしは椿を中心に郷土の洋画家七人を選び七渉会を作って、その世話人になり、劉生を顧問に据えたりした。七渉会の名は米沢市外七渡りの景勝の滝壷のことで、そこで泳いだ少年時代の思い出からとった名である。いま国展の中に生きている土田文雄、高瀬捷三などは、その生き残りだし、それに上杉勝輝、村山秀雄や、亡くなった志賀三郎などがいた。

 わたくしは、ここで劉生、荘八、通勢、梅原、一政、放庵、万鉄五郎などの作画や人物に、かすかながらも接していたが、正直なところ、その頃は美の本質はわからなかった。

 二十二歳から三十一歳、柳宗悦の民芸品買い出し屋として重宝がられるようになるまでの約十年間は、美のハンターとして混迷の時代であったかも知れない。中野正剛傘下でごろついていたのも、詠士すなわち宮島大八に出会ったのもこの混迷のときであった。

 上杉藩の士族の家に生まれ、親父が「人とケンカしたら、死んでも負けて帰るな」という馬鹿な教育をしてくれたために、われながら安価な正義感と歯の浮くような仁侠にこりかたまっている時代でもあった。同郷出身の血の気が多いばかりで知性に乏しい連中を十四、五人集めて、上野付近に雲井塾という看板をかかげていい気になっていた。雲井塾というのは郷里米沢の生んだ明治維新の志士雲井龍雄の名から取ったもので、揃いの黒シャツなどを着込んで中野正剛に従い、イタリアのファッショを気取り、体裁上、中野正剛などを顧問に連ねていたが、どうせろくな集まりではない。

 日支事変勃発と同時に、宮島大八というやはりもと上杉藩の国士が支那から帰ってくるというので、これも顧問の中に並べておこうと思って中野正剛の紹介状をもらい、大八の渋谷の仮寓を訪れたのである。

 丸刈りのズングリした印象で、奥の部屋から現われた大八は、わたくしのさし出した堂々たる「雲井塾塾長」の名刺を中野正剛の名刺とともに、もみくちゃに握りつぶしてしまった。突っ立ったまんま見ようともせずに……。

 当時の日本における中野正剛の存在は、輝ける太陽のごとき勢いで、中野の演説があるなどといえば、国技館も日比谷公会堂も延々長蛇の列がとりまくほどの人気の絶頂にあったのに、全然それを無視しきっていた。これがまず、わたくしのど肝を抜いた。

 わたくしは初めから、大八を日本の右翼的な国士と決めてかかっており、日本の国威宣揚のとき、皇軍の海外侵略に欣喜雀躍している人と信じきっていたのである。

 そのころ、わたくしたちにとって「支那浪人」という言葉ほど巨大に聞こえるものはなかった。三大支那浪人として頭山満、川島浪花、宮島大八がクローズアップされている時代であった。こうした礼讃を含んだ呼称に対して宮島大八がどう思っていたかは、ひとつの謎でもある。

 肩をいからして、玄関の土間に立ち並んだわたくしたちと、二枚の名刺をつかんだままわたくしを見下ろしている宮島大ハの対立の図は、まさしく野犬の群れを見下ろす獅子の姿であった。大八は頭からかみつくようなけんまくで日本の軍や官僚、政治家、右翼たちをこきおろした後、「支那の何万何十万の無辜の民を殺し、幾多有為の日本青年の骨を中国の山河に晒して、いったい、なんの得るところがある。中野の馬鹿者にそう言っておけ。」

 名刺は粉々になって、玄関先に雪のように散った。見当違いだったのである。

 わたくしはなんの因果か軍と官僚と政治家の身代わりに頭から叱りとばされて、ほうほうのていで逃げ帰り、中野正剛にこのことを話した。椅子に端然と腰をおろして、新聞に目を通していた正剛はブイと立ち上がると、「宮島の気狂い親父が!」と吐き捨てるようにつぶやいて、足を引きずりなから次の間に消えた。

 これが詠士とわたくしとのただ一度の出会いであった。

 いまでこそ、よくぞあのときに東洋唯一の高士巨傑に会えたものだと懐しく思い、貴重な言葉が胸の中を去来するが、当時は「なるほど、気狂い親父か」と思っただけで、戦前戦後の三十五年は、世相混乱のうちにあわただしく過ぎ去ってしまった。大八が風雲を巻き起こすこともなく、ついに渋谷の陋屋で息を引き取ったということも、暑い頃、風の便りで知っていたという程度だったのである。(つづく)


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