木村東介「宮島詠士」(3) 大熊信行先生 [宮島詠士]
大熊信行(1893-1977)というと、私には大井魁先生の親分(?)といったイメージがあるのだが、時代に敏感でその時々話題になった著作も多いのではないか。小樽高商で伊藤整、小林多喜二を教えたことでも知られる。
大正5(1916)年に東京高等商業本科(現一橋大)を卒業後大正8年まで米沢商業学校で教鞭を取った。木村東介はその時代の教え子だった。《七歳で小学校に入り、十七歳で商業学校を退学させられるまでの十年間の学校生活はアッケラカンのチンプンカンプンだったが、放課後大熊先生と語り合った、ほんのわずかな十日間くらいの間にわたくしは自分の一生を支配する大きな力に触れることができたのである。》とふりかえる。私としては、芳武茂介、須藤克三、小田仁二郎たちを育てた田島賢亮先生(1897ー1983)を思い起こさずにはいられない。田島先生が宮内小学校に在ったのは大正8年から1年半、ほぼ同時代。ちなみに宮沢賢治(1896- 1933)が花巻農学校で教鞭をとったのは、大正10年12月から同15年3月末までの4年数ヶ月でやはりこの時代、後に「大正デモクラシー」と呼ばれる時代のことだった。
書棚に大熊の死後編まれた『ある経済学者の死生観』(1993 論創社)を見つけた。小林多喜二(1903-1933)との交流についての思いのこもった文章がある。多喜二の死後間もなく書かれている。大熊在っての多喜二であったことがうかがえる。大熊も小樽高商在任は2年と少し、やはり田島賢亮先生の「1年半」と重なる。後に宮本顕治の妻となる、父が米沢出身の中条百合子(1899-1951)とは同時期にイギリス時代を過ごし、微妙な男女関係もあったようだ。小樽高商時代については伊藤整の『若き詩人の肖像』、イギリス時代については宮本百合子の『道標』に、それぞれ小説の材料になって大熊が登場しているらしい。尚、「亀井秀雄の発言」というサイトに「大熊信行がとらえた多喜二と伊藤整」という評論がある。
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宮島詠士
—詠士書道とわが審美異説—
(三)
大熊信行先生
わたくしは、美の叢林に踏み込んでからかなりになるが、その出発点は少年時代に大熊信行先生を知ったときにあると思う。
大熊信行といえば、経済学博士という考えてみると想像もつかなかったいかめしい肩書きを持っているが、しかし、先生の現代世相に向かっての論評は鋭利なメスの如く鋭く、おそらく当代における第一人者であることはいうまでもない。
感覚はフレッシュで、左右両翼にも柔軟性があり、明治意識の強烈な人々から、大正、昭和の新しい世代までを包含し、さらに現代女性層にと浸透し得る人気と読者層がおる。七十五歳といういわば老醜の域に在っても彼は常に鏡に向かって整髪し、赤坂や新宿の盛り場でゴーゴーに興ずる。その清潔な若さは、けだし敬服に値するともいえよう。幸いなるかな、わたくしはこの教師に一、二年教わったことがあるのである。受持ちは、たしか英語と商事要項だったと思うが、その中の何ひとつも覚えがない。わたくしが十五、六歳で、彼が二十三、四歳のころではなかったろうか……。教師と生徒とは、まことにおかしなものである。教室で教わったことは何ひとつ覚えもしないし、何ひとつ実社会では、役立たないが、放課後向かい合って遊び半分にお互いの顔をスケッチし合ったり、当時二十五、六歳で画壇の鬼才と言われた岸田劉生のことや同じく文壇の鬼才『地上』の著者島田清次郎との交遊の話をきかせてくれた大熊先生のお蔭で、やがてわたくしは絵や文に休を賭けることになってしまった。学校とはおかしなものである。教室とは不可解なものである。先生とは—学問とは—勉強とは—生徒とは—いよいよ奇怪千万なものである。七歳で小学校に入り、十七歳で商業学校を退学させられるまでの十年間の学校生活はアッケラカンのチンプンカンプンだったが、放課後大熊先生と語り合った、ほんのわずかな十日間くらいの間にわたくしは自分の一生を支配する大きな力に触れることができたのである。それは美術と文章にわたくしの前途を賭けることになったのだ。
このことからわたくしは心の通う話し合い、魂にくいこむ教え方、往時の寺子屋教育の如く教えるものと教えられるものの魂の在り方のいかに大切であるかを身にしみて感じさせられたのである。
そしていま各地大学の騒乱を見るとき、吉田松陰が松下村塾を作って、心と魂を叩きこむ教育を行ない、少数ではあったか真の人材を養成した事実のいかに重大であったかをしみじみと思わざるを得ない。
詠士の書に、最大の美を感じ、また、その人としての片鱗を天下に示さんとして、こうしてペンをとるあくの強い勇気も、五十年前のそこに糸口があったものと思う。(つづく)
大井魁で検索していて、思いがけなく大熊信行と小宮山量平がリンクしました。
http://www3.u-toyama.ac.jp/dsec/Okumabunko.htm
《1938年11月に高岡で開催された第12回全国大学高専学術講演会には東京商大から小宮山量平が参加しているが,小宮山は福田徳三門下の大熊を高岡に訪ねて親交を結び,それは後に小宮山が創刊した『理論:季刊』に大熊の「告白」が連載執筆(1947-1948)されることへと繋がる。》
小宮山量平は南陽市で須藤克三について講演しています。
https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2016-02-19
by めい (2019-01-24 06:06)