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「われなし能う、ゆえにわれあり」 [メルロー・ポンティ]

コンピテンシー 奈須正裕.jpg

 年明けて最初の朝礼の昨日、たまたま手に取って開いた「私幼時報」1月号巻頭の「視点」は、奈須正裕上智大学教授の「『遊び込む』保育が高度な学力の基礎をもたらす」という記事で、次のような書き出しでした。(クリック拡大)


《 学習指導要領が「内容」(コンテンツ)を中心に描かれてきたように、我が国の学校教育は領域特殊的な知識を基盤としてきました。これに対し近年、領域を超えて働く汎用性の高い「資質・能力」(コンピテンシー)を軸にカリキュラムや授業を編み直せないかとの模索が、世界的に活況を呈しています。/それは、教育に関する基本的な問いを「何を知っているか」から「何ができるか」へと転換します。/そして、教育の守備範囲を知識・技能に留めることな<、思考力・判断力・表現力などの高次な認知能力、さらには意欲や感情の自己調整能力から対人関係的なスキルにまで拡充すること、すなわち学力論の大幅な拡張と刷新を否応なしに求めるでしょう。》


《教育に関する基本的な問いを「何を知っているか」から「何ができるか」へと転換します。》この部分、私にはほんとうに感慨があるのです。やっぱりこう言われる時代が来たと思い、人知れず悦に入ったのです。


学生の時ですからもう50年近くになります。教職単位のためのまったく面白くもない「教育原理」の講義、「日本の教育は主知主義を原理とする」と最初に言われたのです。そこでデカルトの「われ思う、われあり」も言われたと思います。私にはそのことに異和感をおぼえ、わだかまることになります。そのうち大学紛争の嵐があって、多少は揉まれてもみたり、渦から抜け出て斜に構えてもみたり、そんなこんな中でメルロー・ポンティに出合って、ようやく「あたりまえ」の大切さが少しずつわかるようになって、本気でメルロー・ポンティを読むようになって《意識とは原初的には〈われ惟うje pense que〉ではなく、〈われ能うje peux〉である。》("Phénoménologie de la perception" p.160の言葉を見つけたのでした。私には、「われ思う、ゆえにわれあり」に対する真っ向からの挑戦に思えて快哉・・・だったかどうだったか、じわーっとその意義がわかるようになったのかもしれないのであまりなことは言えませんが、とにかく以来、「われなし能う、ゆえにわれあり」の言葉が「われ思う、ゆえにわれあり」を駆逐する時がいつか必ず来るにちがいない、とずーっと思いつづけて半世紀近く、そしてようやく昨日の出合いだったのでした。


以下、十数年前に書いた文章です。(10年前再々録

 

 《そもそも人生においてとどのつまり何を求めて生きているかと言えば、「心の安定」ということなのではないでしょうか。金や地位や名誉もそのための手段に過ぎないのです。としたら、教育も本来そのことをきちんと視野に置くべきです。私は今の教育は原理的に間違っていると思います。
 デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」、この「思うわれ」を窮極の原理として近代合理主義思想は出発しました。「思うわれ」は、思うかぎりにおいて「だれが何を思ってもいい」という意味で、自由でありまた平等です。ところが、それを現に身体をもって生きている人間にまで引き延ばして適用してしまったところに、近代合理主義の誤りがあります。人間は、まず自分が勝手に考え始める前に、親兄弟をはじめとするいろんな人たちと一緒に生きているのです。それがあってはじめて、自分で考えるようにもなれるのです。事実として、ともに生きている世界があって自分があるのです。その逆ではありません。
 本来、「自由」に対置する言葉は、「束縛」ではなく「秩序」です。「平等」に対しては「差別」ではなく「分度分限」といういい言葉があります。世の中に合った自由と秩序のバランスの取り方、平等と分度分限のバランスの取り方から、「倫理」の問題は生まれます。
 ところが、秩序よりも何よりも人権を第一義とする教科書を見るかぎりでの今の教育では、倫理の問題も何も生じようがないのです。今の教育は、原理的に共通の規範を拒否していると言えるかもしれません。精神の安定は、基本的には周囲の人との共通理解の上に立って生きていることでもたらされるはずです。今の教育はそのことをはじめから否定しているのです。 今の教育では、まじめに勉強すればするほど、自分の住む国がいやになり、世の中に対して反抗的になり、世の中のしきたりなどどうでもいいことのように思えるようになり、年寄りを軽んじて平気な人間になってしまっています。「何のために学ぶのか」の問いかけに「自分のため」としか答えようがない。「そんなら別に勉強なんかしなくても…」に返す言葉がない。道義の感覚はすっかり色あせ、経済的利害とそのときどきの欲望のみが行動の基準、ただただ声の大きいものが、力の強いものがわが物顔に振る舞い、裏では人を欺くはかりごとがうごめくような世の中、これでは精神の安定を得られるはずはありません。今の教育は、人間が本来求めるものから逆行しているのです。 
 デカルトの「思うわれ」というのは、秩序が抑圧として捉えられるようになって「人権」思想が生まれたことと歩調を合わせるかのように、身体をもって空間的・時間的に制約されて生きている自分が意識されるようになるにともなって、そうした制約から一切自由な主体として構想されることになったと考えることができます。「人権」と「思うわれ」は軌を一にしていると考えるのですが、それは「人権」を言い出すとだれもそれには逆らえないのと似て、「思うわれ」を基礎にすると、世の中の存在すべてが説明できるように思えてしまう。そしてそのゆきつくところは、イギリスのバークレーのように「自分が知覚しないものは存在しない」となってしまう。もう完全な蛸壺状態。  それにたいして、そのおかしさを指摘し、理屈はいい、まず事実そのものに立ち返ってそこから考えようとしたのがフッサールに始まる現象学の流れです。
 フッサールの流れを汲むメルロ―・ポンティは、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」に対して、「われなし能う、ゆえにわれあり」と言います。私はこれはすごい言葉だと常々思っているのですが、まだ教科書に載るまでは普及していないようです。教育もデカルト的主知主義(「思うわれ」を主体として、知ることが基本)では全くの片手落ちで、「できるようになることが基本」を原理にしなければならないと思うのです。教育の原理見直しが必要であるゆえんです。
 メルロ―・ポンティは、「私が思う以前に、先ずもってみんなと共に生きている」と言います。そこから見れば、「思うわれ」なんて後からの理屈づけにすぎません。ところが今の世の中では、(きっと教育の結果)「思うわれ」の方が本来の自分であって、「現に生きている自分」は仮の姿のように思い込んでしまっているのではないでしょうか。みんな蛸壺の中にいるときがいちばん安心できるように思いこんでしまっているのです。 
 「秩序」について言うと、蛸壺に入り込んでしまうと「秩序」なんてさもうっとうしいように思えてしまうけど、「先ずもってみんなと生きている」世界では、意識はしなくてもちゃんと「秩序」の中で生きているということが言えるのではないでしょうか。別にどこかから探し出してきたり、新たに作り出すこともないのです。 そこで、今いったい自分はどういう秩序の中で生きているのかを、あらためて見つめなおす必要があるのではないかと思うのです。
  私もメルロー・ポンティとのおつきあいは30年以上も前にさかのぼるので、昔のメモを引っ張り出したら、「意識とは、原初的には、『われ惟うje pense que(I think that)』ではなく、『われ能うje peux(I can)』である。」とありました。彼の主著「知覚の現象学」の「身体論」の中の言葉です。そして日本語版の注釈に「この術語は、フッサールの未刊書のなかでしばしば用いられている。」とありました。メルロー・ポンティのオリジナルではないようです。いつの間にか「われなし能う、ゆえにわれあり」の言葉で私なりに理解していましたが、意訳として間違ってはいないと思うのでご了承ください。
 また、「思うわれ」を主体として、知ることが基本とする考え方が、知識それ自体だけで第一義的に価値があるように思い込んでしまう、頭でっかちを生み出しているのではないかと思えるのです。それに対して、「できること」とは「身につけること」と考えてはどうでしょうか。それにはもちろん、「知識を身につける」ということも含まれます。その時の「知識」とは、いつも生きている世界とのかかわりをもった知識であるはずです。メルロー・ポンティは、先の言葉の後、「意識とは、(みんなと共に世界の中で生きている)身体を媒介にして事物へと向かう存在である」と言っています。まずそれが初源であり、第一義であると言うのです。蛸壺の中が初源ではないのです。》


大学で教職の資格をとるために「教育原理」という講義を受けたことがある。そこで、日本の教育の原理は、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」によって基礎づけられた主知主義(「思うわれ」が主体で、知ることが基本)であると聴いていた。そんな頃出合ったのがメルロー・ポンティ(1908-1961)というフランスの哲学者だった。もし生きていたら会いに行ったかもしれない、それほど親しく思えた初めての哲学者だった。彼の根底にあるのがデカルト批判だった。
 デカルト(1596-1650)の精神と身体とを切り離して考える心身二元論に対し、フッサール(1859-1938)からメルロー・ポンティにいたる現象学では、人間が身体をもってとにかくまず生きているという現実を第一義とする。そこから現象学は、「われなし能う、ゆえにわれあり」の言葉を引き出していた。メルロー・ポンティを読んでいてその言葉に出会い感動した。以来、教育の原理はいずれデカルトからそこへと変わるべきとずーっと思いつづけてきた。
 「われ思う、ゆえにわれあり」と「われなし能う、ゆえにわれあり」とのちがいを考えていて、イソップの「すっぱいぶどう」の話が思い浮かんだ。〈たわわに実ったおいしそうなぶどうをキツネが見つけた。食べようとして跳び上がるが、ぶどうの房はみな高い所にあり、届かない。何度跳躍してもついに届かず、キツネは怒りと悔しさで、「どうせこんなぶどうは、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と捨て台詞を残して去ってゆく。〉(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
 極論を承知で言うのだが、デカルト的主知主義に原理を置く教育というのは、「どうせこんなぶどうはすっぱくてまずい」で納得してしまう教育のような気がしたのだ。つまり、現実から目を背け主観をいじくりまわして心の安定を得ようとする。いつのまにか、自分の本心がどこにあるかさえもわからなくなってしまっている。よく「心の教育」というが、その内実は実にあいまいなものでしかない。》
 

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