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飛騨行(3) 飛騨の精神文化 [飛騨]

飛騨の老翁の伝えに拠れば、イザナギの神は飛騨出身、イザナミの神は出雲出身です。飛騨の文化は日本古来の精神文化が基本です。「飛騨の匠」の作品には繊細な精神性が込められています。神は微細に宿ります。そして「われも神なり」です。それに対して出雲の文化は外来の物質文明の影響を大きく受けていました。最初に建てられた出雲大社の本殿はその大きさによって人々を圧倒しました。重厚長大志向の文化です。万物を創造する神の存在が前提されています。人は神にはなりえません。神はあくまで崇拝すべき存在です。


飛騨の血と出雲の血がまじりあって二人の間に生まれたのが天照大神であり、須佐之男命です。大国主命は須佐之男命が母イザナミのふるさと出雲に行ってつくった子供です。出雲文化の中で育った大国主命は、飛騨の精神性を理解することができずに飛騨の文化を軽く見ていたふしがあります。現代の物質文明は大国主的感覚の延長上です。

 

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なんとなく身近に思い過ぎていたようですが、このたび飛騨に行き、そしてあらためて著作が少しずつ理解できるようになって、山本健造という人はとんでもない人なのかもしれないと思うようになっています。山本が19歳の時に畑を耕しつつ思いついたという、空間(三次元)と時間(四次元)に志向とエネルギーを加えた六次元弁証法、ノーベル賞級を超える大発見なのかもしれません。たしかにココロとモノを同一地平において考えることができるようになります。


 


 

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飛騨の文化はまずココロから入ります。その意味で、飛騨にはたしかに円空が似合います。思いがけず円空が飛騨に縁深いことを教えられ、飛騨千光寺の円空仏寺宝館」に連れて行っていただきました。円空仏に対面したときのあの「癒され感」は何なのか。円空の志向とエネルギーが一つの物体に込められて時間を超えて伝わるのです。モノとココロがしっかりつながっています。

 

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ココロの赴く所、つまりココロの志向の先を考えると、どうもカミに向うような気がしてきました。その方法として飛騨に伝えられてきたのが日抱(ひだ)きの神事です。飛騨の語源ともいいます。乗鞍山2,700m地点(この日零下4度!)まで車で連れて行っていただいた帰り、高山と松本を結ぶ国道158号線沿い丹生川町の白井日抱宮(ひだぐう)を案内していただきました。古来飛騨では池を囲んで丸くなって坐り、池に映る太陽や月をじっと見つめてココロを鎮めるという行を行ってきたのです。「日抱御魂鎮め(ひだきのみたましずめ)」です。その地が日抱宮という神社になって伝わっているのです。現在19社残っていますが、かつては30社以上あったそうです。

 

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鎮魂の行きつく所は自我の滅却、自我からの脱却です。日抱法は光(太陽・月)を介して行う鎮魂法です。光を見ることを通して、自ら光と化すのです。そのことで新しい宇宙が開けてきます。カミの世界です。生理学的には松果体の働きがあるといいます。山本先生のヒタイは異常に発達していたと聞きました。ここでもココロとモノはつながっています。福来心理学研究所のセミナーでは、ろうそくの光を囲んでの精神統一(=鎮魂)でした。神道天行居の浄身鎮魂法や太陽凝視とも通底します。「大空にそびえて見ゆる高嶺にも登れば登る道はありけり」、明治天皇御製が頭の中でずっとリフレインでした。


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めい

>山本先生のヒタイは異常に発達していたと聞きました。

「外国の人相学でいうと、顔を三つに分けるんだ。眉毛から額にかけて上の部分が「神性」(ディヴァイン)・・・ディヴァインが特に発達していて不均衡なのは、非常な宗教家だとか、教育者とか、芸術家にそういうのが多い。」今東光『続 極道辻説法』p.47
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-897.html

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精神と顔との関係

人の心に考えていることが、そのまま顔の表情にでてきて、顔つぎがよくなったり悪くなったりするものだろうか? (国分寺市匿名希望)

それは当然だ。新渡戸稲造先生がそのいい例だ。知識と教養がふたつ相まって発達していけば、人間の相貌も変わる。だから、オレらが政治家を見て、「こいつは総理大臣のツラじゃねえ」とか「指導者の面じゃねえ」と言うのは、そいつにどこかが欠けているんだよ。やっぱり天下を率いた奴というのはいい顔してるよ。まあ、いまの日本の政治家には気に入るようないい顔した奴はいねえな。イタリア共産党の書記長のエンリーコ(亀さん注:エンリコ・ベルリングエル Enrico Berlinguer)ってのはいいね。あれはいい顔をしている。あれはただ者じゃねえよ。

日本の過去の政治家じゃ、吉田茂なんかがいい顔してたな。作家だと、谷崎潤一郎先生なんかいい顔だった。佐藤春夫もやっぱりひとつのいい顔をもっていたが、芥川がとにかくよかったね。あの若さで、額がこう広くって。

外国の人相学でいうと、顔を三つに分けるんだ。眉毛から額にかけて上の部分が「神性」(ディヴァイン)、それから鼻から目の間の顔の真ん中の部分が「人間性」(ヒューマン)、そして鼻の下から顎までが「獣性」(アニマル)。だから獣性の発達した口の大きな奴は、非常に食欲も性欲も旺盛、物欲も旺盛だということが言えるわけだ。ディヴァインの発達した人は非常に知識的な仕事に向く、とか、そういうことを外国では言っている。三つが等分に発達していれば人間なんだ。だがディヴァインが特に発達していて不均衡なのは、非常な宗教家だとか、教育者とか、芸術家にそういうのが多い。芥川さんなんかもそうで、いかにもアニマルのブレーンが非常に希薄だった。だから生きていくのもつらくなって死ぬというようなことになるわな。

by めい (2015-10-25 06:31) 

めい

「クロノス時代は末期現象、古い神の時代、すなわちウラヌスの時代へ」

マドモアゼル愛さんの切り口が冴えています。
http://www.love-ai.com/diary/diary.cgi?date=20151021

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その昔、ウラヌスの時代は、黄金時代と呼ばれ、人はいくらでも長生きでき、生きること自体が楽しかった。

しかし、ウラヌスは性的に放縦であったためか、息子であるクロノスの嫉妬を買う。

クロノスは父ウラヌスのおちんこを切って海に捨ててしまう、、、

その泡から色々な神々が生まれるというのは、なんだか日本の神話にも似たような話しがあったような気がします。

ウラヌスは天王星、クロノスは土星。昔、天王星原理で動いていた幸福な時代は、突如土星の造反によって変化を遂げたのです。

現代はといえば、もちろん、クロノスの時代です。時間に縛られる生活、義務、労働、奴隷状況、、、、原理的には、1+1は2、という物質的な世界。

イメージの力は入りこまず、持っているもの、物質的なものですべての価値が図られる時代がクロノスの現代です。

生きとし生ける者にとって、クロノスの支配は魅力がなく、楽しくない、、、それはコンプレックスを基盤に置いているからです。

何のコンプレックスか、、、というと、父ウラヌスのおちんこをその鎌で切り取ってしまったように、原理として、性の抑圧、喜びの抑圧、義務の過大視があげられます。

クロノスの時代原理を遂行する際には、この抑圧がどうしても必要になるわけです。

時代から喜びを奪っていかない限り、土星の時代を運営することはできないのです。

そのため、時の為政者のほとんどがやることが、民衆の喜びを奪うことになります。時代を支配する原理が冷たい、くそまじめな、金銭重視の姿勢となるのもそのためです。

とくに性の喜びは奪わねばなりません。これだけは時の為政者も管理しにくいものだからです。

宗教支配と性の喜びを天秤にかけさせ、常識を武器に非常識という魅力的な状況を遠ざけさせ、あげくの果てにはエイズまでこしらえて、性を社会の中から抹殺しようと一生懸命でした。

性の喜びの自由は、昔のウラヌスの時代に直結するため、不自由な奴隷の時代を築く際には、これはいけないことになるのです。

宗教で性を抑え込む、、、破たんしやすい結婚制度をおしつける、、、エイズやばい菌を怖がらせる、、、

すべてはウラヌスのおちんこの切断から来ている計画でもありました。

ウラヌスは歳行ってからも好きもので、老人の癖にあちらが強く、好き放題やっていた可能性があります。

そんな生活態度で仕事などできないのではないかと、クロノス的には考えてしまいますが、クロノスは1プラス1は2しかありませんが、ウラヌスは必要な時には必要なものが、すぐに手に入れられる。

それは、天と直結することで、出会いも物も状況も手に入れることができたからです。

今でもウラヌス、天王星にはそうした天才性があります。

ここに来て、原発などクロノス支配のぼろが出てきており、クロノス時代は末期現象を呈して来ています。

戻るのは、再び、古い神の時代、すなわちウラヌスの時代です。

ウラヌスの黄金時代に戻るには、切断されたおちんこを再び、縫合する必要が出てきます。

もちろんイメージでの話しです。国家や機構から性を取り戻すことが個々で必要になってくるわけです。

性を取り戻すというと、老人もHをしてください、、的な話しに前半の流れからそう連想してしまいやすいかもしれませんが、そういうことではありません。

老人のH、、、お相手がいれば個人的にはありがたい話しですが、そういうことではなく、性の復活というもう少し本源的な話しにさせてください。

性=生きること、、、と言っていいでしょう。性エネルギーなしで生きても、物と自分の関わりしかもてない、クロノス的な人生で終えてしまいます。

生き生きと生きるためには、かつての黄金時代のように健康で長生きするためには、どうしても性エネルギーを個々に取り戻すことが必要なのです。

Hが大事なのではなく、Hエネルギーが生きることのベースになることが大事なのです。これをクロノスの時代では、安全を求める気持ちに置き換えてしまっています。

安全を求めて早死にするのですから皮肉ですが、そうした間違いを現代人はおかしています。

by めい (2015-10-25 06:47) 

めい

『物欲なき世界』、早速注文しました。
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/ca5683397e58ba661ed04e8f7026e674
《二極化して中産階級が減っているならば、現行の制度が限界に近づいているのは間違いない》
《収入や肩書きよりも価値観を共有するコミュニティへの所属にプライオリティを置く人が増えている》
《20世紀の延長線上にある幸福論は消費と強く結びついているため、だんだん有効ではなくなっています。》
飛騨の精神文化への志向もこのトレンドです、きっと。

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●都市文明の発達が招く『物欲なき世界』 モノ文化からの解脱

尻に火が点いても、熱いとも感じない民主党。カチカチ山の狸の方が、まだマシとは驚嘆に値する。民主党と云う政党は、小沢一郎、鳩山由紀夫が抜けた後は、ヘドロ集団だね。維新のヤクザ集団よりまだ悪いかもしれない。今夜は、そんな馬鹿げた世界を離れて、文明論的なお話をチョイと。

ほう!筆者とはアプローチが違うが、同じような近未来を見ている人がいる事実に安堵している。移民国家のアメリカならではの部分も多々あるが、30年、50年先には、消費があっての資本主義に、大異変が起きることだけは確かだろう。ただ、それが充分に見えていないのが、今現在なのだと思う。以下の編集者の菅付雅信さんによる著書『物欲なき世界』インタビューでも、古き文化を駆逐して、成長乃至は変化してゆくアメリカ文化を軸に論は展開する。筆者の場合は、物欲がなくなる世界の変化の形を、縄文から江戸時代まで日本人的共同体に向かう、つまり温故知新なわけで、幾分過去に戻ろうと云う方向性が見えてくる。

おそらく、このままの物質文化や価値観が使いものにならないことは、あらゆる面で証明済みのような話なのだが、次なる世界が芽生えはあっても、さして強い動きではないので、未だ国民全体の潮流には至っていない。早く気づけば気づくほど、様々な選択肢が残されているのだが、明治維新から現在に至った日本と云う国の姿が、成功例であったと思いたい気持ちが強い故のジレンマを抱えている。この辺は、考え方、受けとめ方は様々なので、どうすべきと主張する気はない。ただ、金融に左右されるような資本主義システムは、半ば崩壊している。

この根源的課題を充分に認識することもなく、政治を行っていると云うことは、高速道路を逆走したり、歩道を道と間違えて走っているのと、あまり変わらない。有能なはずの官僚連中にしても、創造的なイマジネーション能力は鍛えていないので、現実のシステムに拘泥せざるを得なくなる。未だに、アメリカの価値観が普遍だなどと口から飛び出すようでは、殆ど何も判っていないのだろう。まあ、安倍に限らず、既存の枠組みで一代をなした者たちは、民主党の議員であっても、既存を大切だと思うし、大きく変えるにしても、何も見えていないのだから、一歩先に向けて足を出せないのが、今の日本と云う括りになるのだろう。『物欲なき世界』は著者の経験をベースに、情報を点て結んであるので、一部の点の知識が抜けると理解しがたい部分もありそうだが、一度手に取る価値はある。


≪「モノを買わない」先進都市から読み解く、「資本主義の先」の世界の行方
編集者・菅付雅信さんが語る『物欲なき世界』 欲しいモノが特別ない世界。シェアという考えが浸透しつつある世界――。はたして、これは消費の飽和なのか、一時的な物欲の減退なのか。欲しいモノがない世界では、どんなことを豊かで、幸せだと感じるようになるのだろうか?
編集者の菅付雅信さんによる著書『物欲なき世界』が11月4日に発売される。インタビューを通じて、ファッション、ライフスタイル、経済、思想、カルチャー……本書で編まれた横断的なトピックについて聞いた(文・佐藤慶一/写真・神谷美寛)。

■モノではなく「コトやコミュニティを売る」
――ソーシャルメディアの普及によって誰もが丸裸にされてしまう実情を描いた『中身化する社会』(星海社新書)から2年越しの著書となります。前著とのつながりを教えてください。

菅付:今回の『物欲なき世界』は『中身化する社会』の続編に当たります。前著を書くなかで「物欲なき世界はどうなっていくのか」というテーマが見えてきました。

そもそも前著を書いたきっかけは、ファッションニュースサイト「モードプレス」の岩田奈那編集長から、トレンドではなく「ファッションがこれからどうなるのか」について考察する連載をしないかと依頼を受けたことです。

そのとき、現代はファッションが必要とされない社会になりつつあると思い、それをテーマに書こうと漠然と考えていました。数日後、たまたまニュー ヨークに行く予定があったんですが、世界でいちばんオシャレな街だったはずなのに、ニューヨーカーたちが本当にカジュアルになっていることに気付きました。

一般人だけでなくファッション業界の人までもが服装にお金をかけなくなりつつあることに強いインパクトを受け、ファッションにお金やエネルギーをか けるのは時代遅れになったのではないかという仮説を立てました。同時にその背景には、ソーシャルメディアの爆発的な普及が関係していると考えました。 当時(4年前)、新しいモノ好きなニューヨーカーたちは移動中やカフェで過ごす時間にとにかくタブレットやスマホを見ていました。多くの人がツイッ ターやフェイスブックなどのソーシャルメディアを通じてファッション以外にも自分の考えや個性、スタイルを発信できてしまう。そうであれば、もうファッションにエネルギーを使う必要がなくなると思いました。

このきっかけをもとに調査や取材を進め、2013年2月に『中身化する社会』を刊行しました。ただ、その時点でまだ捉えてきていないテーマがあると感じました。先進国・先進都市でお金を使わないのはファッションだけではないと考えるようになったんです。

――お金を払わない対象が、消費全体になってきているのではないかと。

菅付:そうなんです。調べていくと、洋服だけではなく、先進国・先進都市において全体的に消費が落ち込んでいる。もちろんお金は使っているけれど、何に使っているかといえば住居費です。いまやニューヨークやサンフランシスコの市長選を左右するくらいの大問題にまでなっているのですが、たとえばマンハッタンで生活している人の平均住居費は生活費の半分近くを占めています。とんでもない比重です。

洋服や家電、車の購入が減っている一方で、住居費はどんどん上がっている。そのほかに消費が伸びているのは食です。モノを買わない代わりに、自分が口にする食事や人との食事にお金を使うようになっています。

こういった、モノを買わない先進国・先進都市の生活は何のサインを発しているのかを考えるようになりました。モノを買わなくなると、購買を前提にしていた消費社会や資本主義全体が立ち行かなくなってきます。そこに興味を持ち、本書を書こうと思いました。

――そこでモードプレスで「ライフスタイル・フォー・セール」という連載を開始したわけですね?

菅付:ええ。今度は「消費」をテーマに書かせてもらえることになりました。ファッションや流通業界において、モノを売るよりもライフスタイル提案やサービス販売へのシフトが顕著になってきている。その傾向――これは消費の最終段階だと思っていますが――を捉えようと思いました。

モードプレスはファッション業界とのコネクションが強く、ビームスの設楽洋社長や三越伊勢丹の大西洋社長らにインタビューする機会をいただきまし た。このような業界トップの方々がモノではなく「コトやコミュニティを売る」と公言しはじめていたので、いいタイミングで取材することができました。

「コミュニティを売る」というと聞こえはいいですが、もちろん商品を買ってほしいというのが本音だとは思います。しかし、先進都市の人たちはモノを 買わずに、モノやスペースをシェアすることで、コミュニティにアクセスしたり所属したりすることが当たり前になりつつあります。

■収支計画書ありきのライフスタイル戦略は弱い
――日本でも「ライフスタイル」という言葉をよく聞くようになった一方で、どこか食傷気味になっている気がします。

菅付:ライフスタイルという言葉は漠然としながらも使いやすいから市民権を得たように思います。さまざまな場面で見聞きするようになりましたが、ほかに適切な表現がない――生き方というと少し重くなるし――から多用されるのかもしれません。

雑誌にしても、ここ何年かでライフスタイル誌が一気に増え、ファッション誌がライフスタイル誌化する動きもありました。服が売れなくなってきたの で、アウトドアを提案したり、スポーツや食を取り込んだり、カフェネタを混ぜたりして、ライフスタイル提案型のメディアになろうとしているのがよく分かります。

元々ファッション性が高かったマガジンハウスの『ポパイ』が近年、「カレーと本」や「ポートランド」の特集を打ち出してライフスタイル化しています。これも分かりやすい兆候のひとつですよね。

――ファッション誌がニッチなジャンルのひとつになってしまった、ということですよね。

菅付:端的にファッション誌が趣味雑誌になってしまったんです。もともとファッションは趣味でしたが、90年代中ば~2000年代後半くらいにかけて、オシャレをしないとマズいという強迫観念が特に都市部の独身女性にあったわけです。

「あなた、まだ先シーズンの服を着ているの?」なんて言われないためにみんながファッション誌をチェックしていました。この当時は趣味雑誌ではなく生活必需品という位置付けでしたが、また趣味雑誌に戻りつつある状態です。 ただ消費や物欲が減る一方で、モノを買うときに吟味するようになっています。まったく買わないのではなく、ネット検索やソーシャルメディアの普及に より、購入前に比較検討して、いろんな価値基準のなかで時間をかけて吟味する。このことは大量生産・消費より健全だと思っています。

――雑誌以外に、ファッションや流通業界におけるライフスタイル戦略をどう見ていますか?

菅付:ライフスタイル化は業界の生き残りをかけた、サバイバルのための戦略だと思います。なぜなら、服が本当に売れなくなっているから。三越伊勢丹のような衣服比重の高い百貨店でさえピークと比べて売上が3割減っている。ほかの百貨店や衣料品店についても推して知るべしです。

ただ、日本のライフスタイルビジネスのほとんどは、収支計画書ありきのライフスタイル戦略をとっているので弱い気がします。つまり、洋服が落ちた分を雑貨や飲食で補おうという狙いが透けて見えるから、穴埋めとしてのライフスタイル化になってしまっているんです。

そうではなく、物欲がない社会において、ストーリーや価値観、文脈を考えて、会話やコミュニケーションにつなげていくことが大切だと思います。

たとえば、湘南の「SUNSHINE+CLOUD」というお店は洋服も雑貨も飲食も花屋もやっている。それが湘南のリラックスした価値観のお客さんたちにとって自然で、オーガニックな広がりを見せています。収支計画書のためにライフスタイル化しているのではないから無理がないんです。

――今回の本では「欲しいモノは特別ない」という実感を「物欲レス」という言葉で表現しています。どういう課題意識を持っていたんでしょうか?

菅付:物欲レスは先進国・先進都市で顕著になってきている現象です。この本では物欲レスの社会が続いた先にある世界を提示したいと思いました。資本主義はあと数十年ほどは続くけれど、いつどこから終わるかわからない。でも、どこかで終わり、新しい仕組みにひっくり返ります。

ぼくは経済の専門家ではないですが、消費欲の急減を突き詰めて考えていくと、資本主義の制度疲労を起こしているのではないかと思うようになりまし た。トマ・ピケティが『21世紀の資本』で書いたように、世界では貧富の格差が拡大し、二極化が進行しているのは紛れもない事実です。

そこで中産階級がやせ細ると、彼らの旺盛な購買力を前提に成り立っていた資本主義――もっと言えば中産階級資本主義とか中産階級消費主義――がいま危機に瀕している。二極化して中産階級が減っているならば、現行の制度が限界に近づいているのは間違いないでしょう。

このような状況に対して、たとえば、フランスの経済学者、ジャック・アタリや日本の経済学者、水野和夫さんは、次の制度に移行した集団・場所・人・都市・国家が次の時代のアドバンテージを取ると主張しています。

資本主義が制度疲労を起こしているわけだから、その延長線上での消費刺激策を講じてもカンフル剤として一瞬効果があるだけで長期的にはうまくいかない。

物欲がなくなり資本主義が立ち行かなくなる中で、日本や東京は新しい考え方や制度を真っ先に提案・実践していくことが、世界に対して次のアドバン テージになると考えています。だから未来の制度を考え、生み出し、身に付けるようなポジションに移行したほうがいい、というのがぼくの考えです。

■都市でのオーガニック生活には矛盾が生じる
――そこでポートランドのような先進事例を見る必要があるというわけですね。

菅付:ポートランドも資本主義のルールのなかにありますが、オーガニックかつローカルを大事にする考え方に特化することで勝負しています。その特徴は一言で言えば、前著のキーワードとなった「コンフォート(本質的だからこそ心地が良い)」という言葉に集約されます。

自分たちのこだわりのもち、オーガニックで質のいいモノを全米、そして世界中に売っていく。そのものすごいこだわりがブランドになっているんです。 そんなポートランドにも悪い面が出てきつつあります。住みたい都市として若者の移住が増えていますが、実はそれほど仕事がなくて大変みたいです。ただ、人が移住してこない日本の都市部よりはいいと思います。移住者がいないということは外の人にとって魅力がないとも言えますからね。

――ポートランドのあり方はどんな部分が参考にできるでしょうか?

菅付:オーガニックで信頼できるモノをつくっていることです。「いかに安くするか」「いかに大量生産するか」というのは少し前までは有効な価値観でしたが、モノにあふれた世界において感度のいい消費者たちは自分たちにとって質のいいモノを求めています。

質がいいことは必ずしもラグジュアリーであるとは限りません。ポートランドでは、自分が身につけたり、口にしたり、手元に置くモノは、なるべくいい素材を使って、華美でなく、長く使えるモノを選ぶようになっているんです。

ポートランドの人たちは、そういったこだわりに特化することで世界におけるブランディングを高めています。ローカルにこだわりながらも、グローバルな市場で勝てそうな価値観を徹底し、消費者と向き合う。そんな姿を東京も見習うべきだと思います。

――東京のような都会でも、オーガニックな価値観を軸にしたお店や取り組みは増えているように思います。

菅付:たとえば本のなかで、ユニクロに新卒入社したバイ・ビンさん(1987年生まれ)が紆余曲折の末、学芸大学駅近くにオープンしたオーガニックのグローサリー・ストアについて取り上げています。彼は「理想のある中途半端をやるしかない」という言葉を残してくれました。

要するに、都市でオーガニックに生きるにはどうしても矛盾が生じてしまう。そこを理解しながら実践することがとても大切なんです。

徹底的にオーガニックな生活をしようと思ったら、田舎に移住したほうがいいけれど、なかなかそうはできない。なぜなら日本人の大多数は都市人口に入るので、都市のなかで中途半端にオーガニックな生活を追求するしかないんです。

■なぜシェア志向が広がったのか
――都市部の話でいえば、シェアリングエコノミーにも触れられています。たとえば、UberやAirbnbはどちらも法律的にグレーなところを突いていますが、これは新しい制度へシフトする前兆と捉えることもできそうです。

菅付:シェアリングエコノミーに関するサービスはどれも新しい提案ですよね。ぼくは新しいビジネスは半分パイレーツビジネス、既存の枠組みのグレーゾーンを攻めているものだと思っています。この9月にニューヨークに行ったときにもAirbnbを利用しましたし、ロサンゼルスに行ったときにはUberを使いました。

――このようなシェアリングエコノミーの背景にあるものはなんでしょうか?

菅付:シェア志向の背景にはいい理由と悪い理由があります。ネガティブな理由は、お金がないことです。特に先進都市では住居費が跳ね上がり、ロンドンの家賃がひと部屋あたり平均40万円、ニューヨークは平均48万円です。これでは一人で借りられないですから、シェアが当たり前になり、一人あたりの住居空間は減ってきています。

だから残された選択肢は、シェアするか遠方から通うかのどちらか。経済的な理由から、シェアやコミュニティ化が進んでいるのです。気が合う人と集まり、いろんなモノを仲良くシェアしていかないと大都市では暮らしていけないという冷徹な事実がありますから。

――シェアが広がった背景にあるプラスの理由はなんですか?

菅付:ポジティブな理由は、収入や肩書きよりも価値観を共有するコミュニティへの所属にプライオリティを置く人が増えていることです。アメリカで見たなかでおもしろいのは、大都市にはフードコープ(生協)があること。より市民運動的であるのが日本の生協と違うところです。

たとえば、ニューヨークにパークスロープ・フードコープという有名な生協のスーパーがあります。ここは特に食材の選別が厳密で、ベスト・オブ・ ニューヨークが集まっている。オーガニックなモノに絞り、自分たちで仕入れた食材でも第三者チームによる抜き打ち検査をしているくらいです。絶対にいいモノでないと置けない、販売できない仕組みをつくっています。

さらに、ニューヨークにしてはかなり安価なので大人気なんです。ただ、ここで買い物をするには会員にならないといけません。そのためには会員資格の審査があり、過去の経歴を検索されたうえで評価されます。

そして、身分にかかわらず、月に3.5時間以上の労働が義務付けられている。つまり、消費者が働くことで安価なオーガニック食材が提供できているんです。

ほかのモデルでは、ポートランドにあるピープルズ・フードコープ。これはもっと市民運動的で、容器はムダだから、ほとんどの食材が量り売りになって います。自分で袋を取り、食材を測ってラベルを貼り、レジまで持っていく――。自分の家から容器を持ってくるとそれだけ安くなります。

資本主義の次には、こういうエコロジカルで相互扶助的な価値観が豊かであり、幸せだと思うようになっていくのかもしれません。

やっぱり、20世紀の延長線上にある幸福論は消費と強く結びついているため、だんだん有効ではなくなっています。だから、ぼくはこの本で新しい制度のなかでの豊かさ、次の幸せを考えることにしたんです。

■編集手法を用いて、いまの時代精神を編み上げたい
――資本主義からのシフトは新しい問題も引き連れてくるのではないでしょうか? 菅付:たとえば、9時~17時で労働することから解放されると、時間が余るようになります。だから、暇な時間をどうするのかという課題が生まれてくるでしょう。加えて、価値観の対立が激しく起きるようになります。

年収2,000万円だけれど、夜はファミレス、時々バーやキャバクラで散財する人に対して、年収500万円だけれど時間がたくさんあり、毎週友だちみんなで食材を持ち寄ってご飯をつくり、賑わいながら食べる。このどちらが幸せなのか。いいのか悪いのかを含めて新しい価値観を考えていくことが重要なの です。

ただ、日本とアメリカで大きく違うことがひとつあります。それは若者文化の基本にカウンターカルチャー(対抗文化)があるかどうかです。つまり、アメリカでは上の世代に代わる新しい文化をつくる。新しいことを提案して前の文化をつぶすという意識が色濃く残っています。

オーガニックやサードウェーブコーヒーも根本的にはカウンターカルチャーがあるわけです。どちらも前の制度を乗り越えようという気概がある動きです が、日本ではカウンターカルチャーとしてではなく新しいトレンドとして消費されている。このままでは物欲レスの先の世界でアドバンテージを握ることはできないでしょう。

――お話を聞くなかで、専門家ではなく分野を横断した人や情報にアクセスできる編集者だからこそ書けた1冊なのかなと思いました。

菅付:まさにその通りで、これまでに書いた『はじめての編集』でも『中身化する社会』でも、編集者のスキルやノウハウを援用して書いています。自分はあくまでも編集者であり、経済学者やジャーナリストではありません。

この本では、ファッション、経済、思想……大量の資料を集め、人に話を聞いた情報をもとに、点と点を丁寧につなぎ合わせて、物欲レスの先にある社会や世界を浮かび上がらせました。

もし経済学者が消費をテーマに書くならば、流通やファッションについてはそこまで触れず、ファッションジャーナリストであれば、思想系のことにページを割かないと思います。

この『物欲なき世界』で試みたのは、これまでに培った編集手法を用いて、いまの時代精神を編み上げるということだけです。過去や現在の事象を紹介す るだけにとどまらず、自分が書けるなかでできるだけ長く耐えうるかたちで「これからの世界はたぶんこうなるだろう」ということを書けたと思っています。 
                                            (了)

【菅付雅信(すがつけ まさのぶ)】
1964年生宮崎県生まれ。角川書店『月刊カドカワ』編集部、ロッキグンオン『カット』編集部、UPU『エスクァイア日本版』編集部を経て、『コンポジッ ト』『インビテーション』『エココロ』の編集長を務めた後、有限会社菅付事務所を設立。出版からウェブ、広告、展覧会までを編集する。書籍では朝日出版社 「アイデアインク」シリーズ(朝日出版社綾女欣伸氏との共編)、電通「電通デザイントーク」シリーズ(発売:朝日新聞出版)、平凡社のアートブック「ヴァ ガボンズ・スタンダート」を編集。著書に『東京の編集』『はじめての編集』『中身化する社会』等。2014年1月にアートブック出版社「ユナイテッドヴァ ガボンズ」を設立。下北沢B&Bにて「編集スパルタ塾」を開講中。多摩美術大学で「コミュニケーションデザイン論」の教鞭をとる。2015年6月 に有限会社から株式会社化し、社名をグーテンベルクオーケストラとする。 http://www.gutenbergorchestra.com
 
≫(現代ビジネス:メディアと教養――デジタル・エディターズ・ノート(文・佐藤慶一)

by めい (2015-10-31 07:06) 

めい

アインシュタインが語った「六次元弁証法」の可能性。
http://ameblo.jp/deguchng/entry-12100122049.html

《現段階では、科学がその正式な説明を発見していない、ある極めて強力な力がある。それは他のすべてを含みかつ支配する力であり、宇宙で作用しているどんな現象の背後にも存在し、しかも私たちによってまだ特定されていない。この宇宙的な力は愛だ。》

先ほど『山本健造(中)』(福来出版)を読み終えたところです。そして出会ったのがアインシュタインのこの手紙です。山本健造先生の、まさに「愛」に溢れた教育実践に感動してすぐです。「志向エネルギー」のとどのつまりが「愛」なのです。六次元弁証法は、アインシュタイン自らその欠落を認めていたところを補うものであることがわかるすごい文章として読みました。あらためて、「山本健造という人はとんでもない人だった」ことを実感しています。

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2015-11-27 13:48:22

1980年代の末、有名な天才アインシュタインの娘リーゼルは、父から彼女に宛てられた1400通の手紙を、父親の死後20年間は内容を公開しないという指示を添えて、ヘブライ大学に寄付しました。
これはリーゼル・アインシュタイン宛ての手紙の中の1通です。


「私が相対性理論を提案したとき、ごく少数の者しか私を理解しなかったが、私が人類に伝えるために今明かそうとしているものも、世界中の誤解と偏見にぶつかるだろう。

必要に応じて何年でも何十年でも、私が下に説明することを社会が受け容れられるほど進歩するまで、お前にこの手紙を守ってもらいたい。

現段階では、科学がその正式な説明を発見していない、ある極めて強力な力がある。それは他のすべてを含みかつ支配する力であり、宇宙で作用しているどんな現象の背後にも存在し、しかも私たちによってまだ特定されていない。この宇宙的な力は愛だ。

科学者が宇宙の統一理論を予期したとき、彼らはこの最も強力な見知らぬ力を忘れた。
愛は光だ。
それは愛を与えかつ受け取る者を啓発する。
愛は引力だ。
なぜならある人々が別の人々に惹きつけられるようにするからだ。
愛は力だ。
なぜならそれは私たちが持つ最善のものを増殖させ、人類が盲目の身勝手さのなかで絶滅するのを許さないからだ。
愛は展開し、開示する。
愛のために私たちは生き、また死ぬ。
愛は神であり、神は愛だ。

この力はあらゆるものを説明し、生命に意味を与える。
これこそが私たちがあまりにも長く無視してきた変数だ。
それは恐らく、愛こそが人間が意志で駆動することを学んでいない宇宙の中の唯一のエネルギーであるため、私たちが愛を恐れているからだろう。

愛に視認性を与えるため、私は自分の最も有名な方程式で単純な代用品を作った。
「E = mc2」の代わりに、私たちは次のことを承認する。
世界を癒すエネルギーは、光速の2乗で増殖する愛によって獲得することができ、愛には限界がないため、愛こそが存在する最大の力であるという結論に至った、と。

私たちを裏切る結果に終わった宇宙の他の諸力の利用と制御に人類が失敗した今、私たちが他の種類のエネルギーで自分たちを養うのは急を要する。

もし私たちが自分たちの種の存続を望むなら、もし私たちが生命の意味を発見するつもりなら、もし私たちがこの世界とそこに居住するすべての知覚存在を救いたいのなら、愛こそが唯一のその答えだ。

恐らく私たちにはまだ、この惑星を荒廃させる憎しみと身勝手さと貪欲を完全に破壊できる強力な装置、愛の爆弾を作る準備はできていない。

しかし、それぞれの個人は自分のなかに小さな、しかし強力な愛の発電機をもっており、そのエネルギーは解放されるのを待っている。

私たちがこの宇宙的エネルギーを与えかつ受け取ることを学ぶとき、愛しいリーゼル、私たちは愛がすべてに打ち勝ち、愛には何もかもすべてを超越する能力があることを確信しているだろう。なぜなら愛こそが生命の神髄(クイントエッセンス)だからだ。

私は自分のハートの中にあるものを表現できなかったことを深く悔やんでおり、それが私の全人生を静かに打ちのめしてきた。
恐らく謝罪するには遅すぎるが、時間は相対的なのだから、私がお前を愛しており、お前のお陰で私が究極の答えに到達したことを、お前に告げる必要があるのだ」。

お前の父親
アルベルト・アインシュタイン

by めい (2015-12-01 05:52) 

めい

「祈り」とは「アガペ」の発現。「アガペ」は「お大切」と訳されたそうです。
http://grnba.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15572396

   *   *   *   *   *

523:なうしか : 2015/12/02 (Wed) 11:48:40 host:*.dion.ne.jp
>>514 toraさん

ホ・オポノポノについて、もしやご存知なら教えていただけますか?

ある方に、ホ・オポノポノをやっていただいたことがあります。
それが実際にはどんなものだったのか知りたいです。

その方は、私の住所、氏名、生年月日が書かれた紙をじっと見つめておられました。
ほんの数分、いや数秒だったかもしれません。

その時、わたしは初めて「愛」を知りました。
家族にはとても言えないことですし、目の前にいる方が同性でなによりでした。

江戸時代、アガペを「お大切」と訳したとか、
本当にすっごっく大切という気持ちがわき出てて、数時間続きました。
もちろん、それはとても幸福な一時でした。
あんなことができるなら、きっと敵にも使えるでしょう、「愛は無敵」。

どういうフレースを念じられたのか、気になってます。
一般的な4つのフレーズでしょうか?

by めい (2015-12-03 06:00) 

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