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飛騨行(2) 飛騨高天原説 [飛騨]

このたびの飛騨行、大きく二つの収穫がありました。ひとつは、「日本のルーツ飛騨」説について現地で確認できたこと。もうひとつは、生命エネルギー誘発セミナー参加によって、神道天行居の浄身鎮魂法との共通性を体験できたことです。


初日のセミナーが終わったのは夜8時ぐらいでした。布団に入るには早すぎます。われわれ3人寄ればお酒は切り離せません。町のコンビニまで行って地元の酒やつまみを仕入れてきました。われわれの他にも缶ビールを持ってこられた人がいます。これまで山形でお会いして気心のわかる方も居られるので、お互い気楽に談論風発、実に楽しく有意義な初日の晩をすごしたのでした。その中で出たいろんなお話の中でとりわけ心に残ったのが、「日本のルーツ飛騨」説確立の経緯でした。


「日本のルーツ飛騨」説は、すでに昭和のはじめ、酒井勝軍が主張しています。酒井は明治7年(1974)山形県上山市生れのクリスチャンです。30年前の本を見つけ出しました。飛騨に行く前に目を通そうと思いつつ探し出せなかった本です。こうありました。

《(酒井が創刊した)『神秘之日本』の第6号は「高山特輯号」である。/その中で、酒井は飛騨の語源は「日球(ひだま)」であり、ある時代に日本の中心的神域であったと述べ、つぎのように語っている。/「飛騨は日球なりとの神秘感がよみがえり、位山は国常立尊の神都にして、又天照大神の御降誕所であり、天岩戸隠れの古事は、天照大神が一時高天原から高山に隠居せられたのであるぐらいな神秘な自覚が高山人の頭脳に湧きいずれば、この高山盆地は遠からず世界の神域として天下万民の礼拝所たりうる公算があることを余は断言しうるのである」》(『日本のピラミッド超文明』学研 1986


日本のルーツ飛騨.jpg

「飛騨は日球なり」、酒井の発想は「竹内文書」に拠ります。それに対して福来心理学研究所の「日本のルーツ飛騨」説の原点は、創設者山本健造(大正元(1912)年1112日–平成192007)年87日)が昭和10年、分教場教師として初めて赴任した乗鞍の麓の旗鉾の地で、語り部の老翁から聞いた「先祖伝来の重大なる物語」です。(その記録は『鞍ヶ根風土記』として残る)その後、このことについての山本先生の探求は何も成されないままだったのですが、「山本も70才を越え、ボンヤリしていたある日、まるで語部翁が語りかけてくるような霊感を覚え、若い頃翁から真剣に頼まれたことが鮮明に甦りました。翁との約束もさることながら、もしあの話が本当なら、日本民族にとって重大なことなので、山本も研究をまとめねばならぬ時間が迫っていたのですが、それを一時中止して、語部翁から聞いた記憶をたどりながら8年間実地調査をしました。」(『日本のルーツ飛騨』福来出版)


研究所での最初の晩親しく酒を酌み交わす中で、山本健造師の九州への現地調査に同行したOさんの話を聞くことができました。山本先生の調査方法の基にあるのは「精神統一」です。その日のセミナー体験から、それは「帰神法」に通ずることがわかりました。Oさんの話によると、九州での現地調査は常に「精神統一」を伴うものだったといいます。Oさんの話を聞くことで、私には「飛騨ルーツ説」が極めて信頼に足るように思えてきたのです。翌日このことをOさんに話すと、思いがけなく帰り際に、九州での調査後山本先生が書かれた研究所の機関紙『宇宙と人生』をいただくことができました。山本先生が記された「飛騨ルーツ説」についての貴重な最初の文章なのかもしれないと思い、OCRで読みとらせていただきました。


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精神文化の古里 仮説 飛 騨 高 天 原

飛騨福来心理学研究所

 所長 山  本  健  造

宇宙と人生.jpg

仮説をたてた理由

 大和民族が、どこかの国から渡来したものか、日本に生れついた純日水民族か? これは簡単に結論を下し得ない問題であります。

 これは私共の精神生活上に大きく作用してくる問題でありまして放置しておけない事です。私は少年時代からこの問題に関心をもち続けて材料を集めてきました。特に皇室の先祖を外国から来た征服者と見るか、純日本人と見るか。

 私は人類学や、化石学、民族学、古事記、日本書紀などから推理し、九州地方の実地調査もしての結論でありまして、決して宗教的空想から組みたてたものでありません。皆様の御批判を戴きたく御願い申上げます。


一、大和民族の故郷はどこか?

 昭和六〇年七月二六日より三一日まで私共夫婦は会員の高木明氏、荻田幸男氏の協力を得て天孫降臨の地の実地調査を行いました。

 その詳細な報告書は右の両氏が執筆し、後程、この誌上で報告される予定になっています。


1.天孫降臨の地高千穂とは​?

 別府市の元教育委員長甲斐南北氏の御はからいにより郷土研究の諸家の御指導を受けて各地の遺跡を実地に踏破し、更に天孫降臨の地として有名な高千穂にゆきました。

 高千穂はは宮崎県北西部、西臼杵郡にある町で、五ケ瀬川の上流部にあります。山林原野が85%で、耕地は僅か8%に過ぎず、高千穂峡の清流は絶壁を削り、鬱蒼とした大木は垂れ下り古人の「おどのあわぎ原」と名づけて、禊ぎをした行場も発見しました。

 全体の8%に過ぎない耕地の僅か47%が水田であり、神話の稲作の淵源を伝えています。・

 高千穂とは一穂の籾を播けば千穂になる稲作を譜えてつけられたものと伝えられているのです。稲はインドの原産でありますから弥生時代か、それより以前に南方から漂流した稲穂又は中国を介して入ってきたものと考えられます。

 この高千穂は海岸よりかなり離れ、海抜350mもある高地に稲が最初に作られるようになったのはどういうわけか考えてみねばなりません。

 神話では天孫降臨の時に、天照大神が、皇孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)に稲穂を授けた事になっています。


2.天より下りた神ではない

 高千穂町(人口二万五千)の教育委員会で沢山な資料を戴き御指導を戴きました時の田尻隆介氏の御言葉に、

 『天孫が降臨されたというのは高い山から降臨されたと思うています。この辺では高い山の人を『興梠(こうろぎ)山の代(しろ)』又は『山人族(やまのひと)』と呼んでいます。

 どこの山地から降臨されたのか? これこそ、今後私共に残された仕事だと思っています」と申されました。

 高千穂の神官達は「大空より降臨されたのです」と申しました。

  

ニ、高天原(たかまのはら)はどこか?

 高天原とは高貴な神の在す処の意であり、皇居の所在地であって大空という意味ではないのです。高天原の所在地については諸説があって定った説はありません。参考までに左に掲げて見ますと、

1. 天上説 本居宣長 一條兼良

2. 海上説 新井白石 常陸多珂郡の海上とする。

3. 地上説

A、大和説 山崎闇斎 現今、学者間に最も支持されているようです。

B、豊前豊後地方説 多田南嶺

C、近江説 井口丑二

D、朝鮮説 大谷博士

E、飛騨高山説 酒井勝軍

F、其他、満州説、馬来地方説、メソポタミア説、ユダヤ説、アルタイ山脈説

 右の外にも説があるのか、どれが本当なのか、研究する必要があります。


三、我等の先祖は山地に住んだ

1.日本最古の生物は飛騨に

 地球の温度は太古は相当に高かったのです。今から八千年前には飛騨地方でも七度位い高かったと学者は想定しています。

 中部山岳国立公園北アルプスの奥飛騨温泉郷一帯は日本列島最古の生物化石が出土して最近、急に学界の注目を受け初めました。特にその一角の福地温泉、新平温温泉一帯は約四億年前のデボン紀の海底生物が化石として多数発見され、福地一ノ谷は国の天然記念物に指定されました。

 日本の屋根と云われる北アルプスの奥飛騨は約四億年前は海水におおわれていたのであり、一番最初に水上に顔を出した大地は飛騨の大地であったのです。


2.日本最古の生物化石は飛騨にある

 そのため日本最古の生物化石が多く、中でもハチノスサンゴはデポン紀やシルル紀の示準化石で、この年代のきめてになる化石です。其外、特に珍らしい三葉虫、四射サンゴ等があります。平湯温泉にはステコンエレフファント(象)の顎の骨の化石が出土しました。この象は一五〇万年前に棲息したものです。


3.一万年前の大杉の株が海底に

 奥飛騨の裏に当る魚津港には一万年前の杉の大木の株が無数に海底に沈んでいます。その一株が引き上げられていますが、その巨大さには驚かされます。あのような巨木が成長した地温は相当に高かったものと推察されます。


.人類は何時この世に現れたか

 その頃、人類は次の表の如く進化を続けたのです。

1200万年前 類人猿、四足歩行

200万年前 猿人類、二足歩行

50万年前 原人類、石器使用

10万年前 旧人類、石器使用

3万年前 新人類、石器以外の器具も使用、ホモサピエンス

 そして、旧人類までは蒸し熱い低地にも耐えて生活していたと思われますが、私共の先祖である新人類の中でも頭脳のよく発達した人達は日本アルプスの麓の如く涼しく食物が豊富、水豊かな地に生息するようになったと想像されます。


四、飛騨根方人は日本最古の新人類

1.日本には日本原人が発生した

 日本の明石の附近から七〇万年前(旧石器時代)の石器が発見されました。これは中国の藍田原人と同時代であります。日本列島には北京原人(約五〇万年前)よりも古い人類が存在した証拠になります。     

 ごの明石原人の石器遺跡は神戸市垂水区玉津町出合にあります。

 昭和六年、明石原人の腰骨が発見されました。この土地は明石市西八木の近くに屏風ケ洞層という地層(推定六、七〇年前)です。石器の発見された出合遺跡から約二キロの近い所です。この石質や腰骨は洪積世中期の前期旧石器時代に間違いないといわれます。J


2.世界最古の人間の骨

 昭和五十九年四月、米科学財団は四日、ケ二アで、今年二月、五百万年前の人類の骨の化石が発見ざれたと発表しました。これらはオランウータンの祖先であると学者達は認めています。


3.本最古の新人は飛騨に

 これらの猿人類より原人、旧人へと進化したと思われますが、これらの人々は野生人ですから、高温多湿を好んで生息したのです。

 今から三万年か二万年前に我らの直接の先祖の新人(ホモサピエンス)が現われてきたのです。

 どこにあらわれたかといえば高い涼しい処で、しかも食糧の豊かな高原地に頭脳のよい新人が現われてきたのです。

 飛騨の大野郡丹生川村根方岩陰遺跡からは縄文時代の最も古い時期の人間の頭骨が発見されました。


4.頭骨の厚い新人が飛騨に

 これについて京都大学霊長類研究所の江原昭善教授の鑑定によれば、この頭蓋骨の厚さが現代人の約二倍ほどもあり、縄文早期以前のものであることが確認されました。

 江原教授が特に注目しているのは、頭骨の厚さ、十一mm前後もあることです。

 頭骨は猿人は薄く、北京人など五十万年前の原人は厚くなり、縄文人になると次第に薄くなるのです。


5.飛騨根方人は日本最古の新人

 江原教授は、飛騨の「根方人」を縄文時代のかなり古い時期で、沖縄を除く最古の縄文人との見方を強めています。

 江原教授は約八千年乃至一万年前(縄文草創期)の可能性が大でおると申されているのです。右を考えてゆけば、飛騨根方人は新人類としては日本最古の可能性が大きいと云えます。

 そしてその附近には新石器、骨角器など多数が発見され縄文人の住居と思われる岩穴も発見されました。


五、新人類は高涼地に発生した

1.高温多湿の低地と低文化性

 この新人類(ホモサピエンス)は日本では飛騨のような高涼地で涼しい快適の地で、ゆっくり頭脳を使い思案できる土地に発生したのです。高温多湿で不快指数の高い低地では頭脳を文化方面に使用する余裕がないのです。

 飛騨高地に近い長野県北部の野尻湖からナウマンゾウの肋骨で造られている槍先が、今から約四万年前の地層から発掘されています。

 道具を造る人間が既に高地に、発生していたと見るべきであり、これと同じ人類が飛騨各地に住んでいたと類推できると私は考えています。


2.人骨保存の条件

 人骨が発見されないから人間が居なかった!! ということは云えないのです。何んとなれば、骨は酸性土壌に弱いから、普通の酸性腐触土の中に埋葬されると、数年で溶解が始ります。古墳時代のよう

に石室に安置されればともかく、縄文時代や、それ以前は、仮に埋葬の習慣があったとしても、じかに地中に埋めたとみられるから、数千年から一万年以上もの時間がたてば、溶けてしまうのです。

 ところが石灰質土壌では、地下水に溶けた石灰分は、骨の組織内に浸入し、沈着して骨を化石化するのです。つまり有機質を無機質化して、半永久保存を可能にするのです。

 ですがら日本でも古い人骨はほとんど鍾乳洞、又はそれに似た土質から発見されているのです。飛騨根方遺跡も石灰岩地帯で、骨の保存には最適の地質だったのです。

 ですから骨が発見されることは極めて少ないのですが、石器類は飛騨のいたる所に散在しています。


3.日本最古のパン発見

 縄文早期時代の遺跡は私の国府町に三ケ所あります。全飛騨に四六ケ所も散在しています。

 飛騨の下呂町の峰一合遺跡からは縄文時代の食パンの焼き過ぎて炭化したのが発見されました。トチ、ナラ、クルミ、エゴマ等の実で作ったパンを石皿に入れ、別の石皿でふたをして焼いたものと思われます。


六、気温低下と人類の移動

1.純日本人がいた

 乗鞍岳と御嶽の近くの海抜千三百mの寒冷地で今はとても人が永住できない飛騨の山奥の日和田の池の原に旧石器時代の遺跡があります。そこは横穴式住居時代のものです。旧石器時代以降生活した様子がないのです。

 御岳の噴火に怯えて下山したかも知れないが、気温の低下に耐え切れずに下山したのであろうと思います。

 今から二万年以前から約一万年以前頃迄にわたる極めて長い間、人々が住んだ遺跡であって、旧石器時代最後頃の人類歴史を探る極めて貴重な資料です。この時代の遺跡は全国に五百ケ所も発見されているといわれますから、日本には弥生時代頃に外国から渡来した民族は少数あったと思われますが、古来より日本国土に発生した純日本人が大部分であると考えています。


2.一万年前は気温七度高かった

 一万年前には日本国土は七、八度は気温が高かったと学者は想定しています。そこで、温度が低下するに従い飛騨のような高地は雪に被われるようになり、住みにくくなって低地に下りてきたと思います。

 ところが、山奥の洞穴に残って下山しなかった人もあったと思います。

 

3.雪男は本当にいる

 たとえば一九六九年の四月、アメリカのオレゴン州、フッド山の森の中に、雪男がいるという知らせがあり、早速捜索隊がヘリコプターで出発しました。

 まもなくフッド山の谷間に黒い怪物を発見しました。怒り声を張り挙げ、両手をふりまわしている大きな雪男がいました。全身に長い毛をはやした原始人を見たのでした。そしてその声をテープレコーダに録音する事に成功したのでした。

 雪男として有名なのはヒマラヤ地方にすむ「イェテイ」とよばれたものです。五十年程前に一度つかまった事がありました。雪男は、黄色の長い毛(十cm)で全身が被われていましたが、五ケ月後に病気で死にました。


4.雪男がいる理由

 その後もイエティの姿や足跡が写真にとられました。雪男として右の外ではアメリカ北部からカナダに伸びる森林地帯に住むサスカッチです。昔からアメリカ・インディアンの間には、サスカッチという雪男がいるという話が伝っていました。

 処が、最近、森林の奥地でこのサスカッチの姿が何度か見つけられました。.

 一九六七年にはカリフオルニアの森林地帯でパターソンという人が、このサスカッチを、ほんのわずかの時間ですが、十六ミリの映画フィルムに撮影しましたのがそれが次の写真です。


サスカッチ.jpg

 (雪 男  カリフォルニアの森林で発見)

 左のような雪男は地球の温度が下った頃、下山しないでいた人達が、寒さに順応してゆけるように毛が密生したり、寒冷に耐えるように巨大化して身体内の内臓を守るようになったと思います。

 京都大学教授岡津守彦氏監修「世界のふしぎ」37頁の写真を掲げました。


七、気温涼化と大脳進化促進

1.ホモサピエンスは高涼地に

 五十万年前の北京原人は高い山の洞窟に二十万年前迄は住んでいたと思われます。その後この北京原人はここから後を絶っていなくなったのです。ところが、十万年ぐらい前に古人と今呼ばれている人たちが住んだらしく歯が発見されています。

 その古人も又後を絶って一万年ぐらい前には新人と呼ばれる(ホモサピエンス)現代人が住みはじめ、中国では山頂同人と呼んでいると、私の学兄石田秋雄氏が「ものがたり飛騨のむかし(一)」に書いています。

 日本でも飛騨のような高いところは涼しくて食糧も豊富であった頃はアルプスの麓のあたりは旧人たちが進化をつづけ、現代人(ホモサピエンス)の先祖が生れるには適地であったと想定されます。

 だんだん気温が下ってくると食糧を暑い夏や秋までに蓄えて冬になれば洞窟の中で思索できる時間が長ぐなり大脳の発達を促進したと考えられます。


2.生れた土地で大脳がきまる

 熱帯地方の土人は年中食糧に心配ない為に、大脳の進化が遅れ、文化を築く事もなく、シベリア以北の寒冷地の人々は食糧を得るだけに汲々として大脳は発達せず文化らしいものを産むことができなかったのです。高度の文化は温帯地方に栄えています。これを見ても気温の高い時代は低湿地の不快指数の高い地方に住む人類には野蕃下等性が残っていたが、高地の涼しい地方で食糧が豊かなれば、狩猟や栽培の余暇に考える時間も多くなり、大脳の進化を促してホモサピエンスの発生を早めたと信じます。

 こう考えると日本の中央の屋根といわれる飛騨に住んだ原人や旧人は進化を続けて日本を統治するような優秀民族に生れてくる可能性が高いと思うのです。

 気温が低くなり大雪が降るようになると、民族の大移動を起す必要が起って来たのです。


八、古代の飛騨と遷都

1.古代の政治は飛騨が中心かもしれぬ

 古事記の中に「ここに天照大御神、高木神の命以ちて、太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命(ヒツギノミコ マサカツアカツ カチハヤヒ アメノホシホミミノミコト)に詔り賜はく『今、葦原中国を平(コトム)け訖()へぬと白(モウ)せり。故(カレ)、言依(コトヨ)さしたまひし随(マニマ)に、降りまして知らせ。』とのりたまひき。」とあります。

 右の大意は次の通りです。

 「天照大神は高木の神に言伝けて天照大神の直系の御子の天忍穂耳命に申されました。今、葦原中国を平げて、そむく者がないと報告があった。であるから天照大神の命のままに、高天原から下界へ降りて治めよと中されました。」

 高木の神の娘が天忍穂耳命の妻でありますので、天照大神は高木の神と極めて近い仲なので、高木の神から天孫降臨の命令を伝えてもらわれたのです。天忍穂耳命は、その子の「ににぎの命を降臨される様」に願い許されたのでした。

 建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)を将軍として下界の各地を廻らせ、徳になびかせて負くものがなくなったので天孫降臨の命が下ったといわれています。


2.天孫は大空から雲にのって降りたのでない

 多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)、市寸島比売命 (いちきしまひめのみこと)、田寸津比売命たきつひめのみこと)の三姫は北九州の地に御使いにゆかれ、国土を鎮定され背くものがなくなったので天孫降臨の命(めい)が下ったのです。

 稲はインド原産ですが、支那大陸から来たか、南方から漂着したか不明ですが、どちらにしても九州の一部にあったものを、天孫降臨以前に高天原(中央政府)に献上され、栽培されていた稲穂を持っていたものと考えられます。

 飛騨高天原説は戦時中に酒井勝軍氏が唱えた事がありますが、どこまでも仮説です。

 私は酒井氏の資料とは全然別の方向から、飛騨に太古の中央政府があったのでないか? という仮説をたてて見たのです。


3.淡郷(あわごう)にいます神

 乗鞍岳のことをアワザンと云った時代があり、乗鞍颪(おろし)の事を昔はアワが吹くと云ったり、その麓の部落を淡郷といいました。その名残りが今でも、長野県と岐阜県の峠を安房峠といっています。三韓征伐をするか、しないかと、仲哀天皇の崩禦直前、朝臣達が心配し、方針を決めかねたその時に(西洋紀元200年)鎮魂して伺いをたてると「吾斐陀(われひだ)淡郷にいます神」と名乗って顕れて、「気長足姫(きながたるひめ)海に出て髪を洗い清めて天を仰いだ時、髪が乱れず真二つに分れたならば必ず勝つ、髪乱れるならば征くな」と指図があり、 気長足姫(神功皇后)が海で髪を清めて天を仰ぐと髪が真二つに分れたので三韓征伐が決行されたと日本書紀に記されているのです。


4.日抱宮(ひだぐう)と飛騨のおこり

 乗鞍岳の麓は淡木原(あわぎはら)と呼ばれ、禊ぎをして、池に太陽の光を映して、それを抱く如くに輪の形に居って凝視して鎮魂を行ったと里伝にあります。淡郷(今の丹生川村)には日抱尊、日抱宮と呼ぶ神社が十七社もあります。

 飛騨は昔は斐陀又は斐太と書いたが、その起りは日抱より転化したものと古老は語り伝えてきました。

 「三代実録」には「貞観十三年(西紀871)十一月十八日、飛騨國愛宝山に紫雲現わる。貞観十四年十一月十二日、愛宝山に再び紫雲三度現わる」と記されています。

 右の記録によりますと五六代清和天皇の時代にもまだ乗鞍岳は「アハ山」と呼ばれていたようです。


5.高千穂にあはぎ原があった

 九州の高千穂神社の神官に「神詞の中に『向日のおどのあはぎ原に禊ぎして』とありますが、高千穂の里に、あはぎ原という処があると思いますが如何ですか?」と尋ねましたところ、「おどは遠い海岸まで出てもらえばありますが、高千穂にはありません」という返事でした。

 「では高千穂では襖はしないのですか」と質問すると、

 「私たちは襖は入浴の時行います」という事でした。

 それから民間伝承の調査をしますと、「おど口」という所に鳥居があり、そこから谷底へ下りると「おど」があり、あはぎ原の禊場がありました。その高千穂峡の流れの両岸に祠がありました。私達一行は裸になって禊をしました。

 海岸の「おどのあわぎ原」で禊をしてから何十里も山奥に来て高千穂の社で鎮魂をするのは不合理です。高千穂の社の前の峡谷で禊をする筈です。それを発見して見ると飛騨のあはぎ原の名がここにもあるのです。

 皇孫爾々杵の命が、高千穂の「くしふるの宮」に居を構えて、先祖を神として祀られる時、近くの川で禊をされたのが、私共の発見した「あわぎ原」であったと思います。


6.飛騨に太古より高天原の地名あり

 飛騨にもあわぎ原があり、寒くなるにつれて飛騨の内でも南方の雪の少ない地に高天原を遷してその傍に「あはぎ原」を作られたのが、飛騨川の傍の「はぎわら」でないかと患います。すぐ近くの小坂に高天原という地名が古来から残っていますのは偶然ではないと思います。


7.飛騨の高城山と九州の高城山

 飛騨の中央を流れる宮川の水源になる位山には巨石文化があり、天照大神を祀ってあると古老は口碑を残しています。その近くに高城山という山が残っています。地図にその名がのらない程のものです。古事記には高木の神という名が重要な地位にあります。天忍穂耳の命の妻は高木の神の娘であります。高千穂の里に降臨された「ににぎの命」の母親です。飛騨の「高城山」というのは、この高木の神の居所のあった地でないかと思います。九州北東部の刈田の浜から上陸されたと思いますが、その地に「高城山」という山があります。その地に上陸した飛騨の人が、飛騨を懐しんで「たかぎ山」と名づけ、漢字伝来後に、高木とか高城という様に漢字をあてたと思われます。


8.九州の部落名と金沢のと一致

 九州の高城山の近くに荻田、鳥越、梶屋、内尾、大河内等の五部落が並んでいます。ところが飛騨に近い金沢市の荻田氏の生れ故郷に右と同名地区が並んでいるのです。これは飛騨よりの遷都の一行に金沢の人が参加し、九州、東北部の高城山の附近に住みつき、又は、神武天皇御東征の時に此の地方の人が参加し、その軍功により金沢地方の長官として赴任したというような関係があると思います。

 右については荻田氏、高木氏が調査中であり後程発表されます。


9.出雲天社と飛騨の大家族制

 飛騨の中央を富山湾に流れる川が神通川であります。太古の人は川伝いに下って富山湾に出たのです。富山平野は浅い海であったし、浜沿いに行けば確実に出雲にゆけます。

 「スサノオノ命」もこの道を通られたと思います。飛騨の白川の大家族制度の大建築様式をそのまま遷したものが出雲大社の様式です。


10.天の安川原は飛騨にあった

 神通川の上流が宮川ですが、この川は高山市を縦貫していますが、その東側の市街地は土を少し堀ると河石がごろごろしているのです。宮川が氾濫した時は城山にぶっつけて、はねかえり広い安河川をなしていたのです。それより上流を上河原、下流を下河原といったのです。今は、川は自然に切り換えられて、高山市の下方で合流して、昔の河原は市街地になっています。昔の安川原は今は安川通りという名を残し、上河原通りの名も残っています。ここは飛騨全体の中央であるので、この安河原へ集合して会議がもたれたと思います。私は天安川河原はこの河原であろうと考えています。


11.飛騨一の宮のおこり

 この宮川をさかのぼると、水が磊(らい/石がごろごろしているところ)の中に入り、磊の中から水が出るところがあり、水の少ない時は川が石ころだけになってしまうのです。ここは昇ってきた魚は行き場が急になくなり、うろつくので、魚を拾うに絶好の地であったのです。この地に昔の権力者

が住む家をつくられたと思います。高貴の方の住居を宮と申したので、これを飛騨一之宮と申し、大八椅命(おおやつはしのみこと)を祀ってあります。その奥の水の源流に位山があり、巨石文化があり古代の岩境(墓)であろうと学者は見ています。古老は天照大神を祀ってあると伝え、その傍に高城山があるのです。その近くが分水嶺になっている宮峠です。

 

12.天若日子(あめのわかひこ)は飛騨の近くの人だった

 須佐之男命の子、大国主の命、その子の事代主命たちが出雲地方を平定して大勢力となった時、中央政府への帰順を勧めるため、天若日子が使者としてつかわされてより八年たっても復命がないので女を使いに出すと、天若日子は大国主命の娘の下照比売を妻として天照大命の命を伝えず、使いの女を弓でうち殺したので、高木の神は使を出して天若日子を射殺せしめたところ、天若日子の本妻や親は飛騨に近い武儀郡大矢田村の喪山に喪屋を作り、葬式をした時の泣き声が高天原に聞えて来たと古事記に出ているのです。今でも藍見川(長良川)の上流に喪山があり紅葉,の名所になっています。

 飛騨まで噂として本妻の泣く声が伝った事を意味します。天高原が喪山に近い飛騨にあった事を示す有力な記録と思っています。


13.太古の遷都は飛騨川を下った

 飛騨がだんだん寒くなり雪がふるようになったので、全国に使者を出して調査の結果、外国から渡来の使者の事も考えて、九州地方がよかろうという事になり、天照大神が天忍穂耳命に命を下されると、「私は年をとっているから私の子の『ににぎの命』に命を下して下さい」と願い出て許可が出ました。


14.道案内は伊勢の猿田氏

 飛騨川に沿って南に下れば伊勢路の近くに出ます。道の岐れ目にかねて打合せていた伊勢の勢力者猿田彦命が出迎えられたが、赤い顔で目が鋭く鼻が高い大男だったので一行は進みかねていると、天宇受売命が、話し合いに出ると道案内に出ているということで、猿田彦命は食糧、船団の準備して船先き案内をして九州の周防灘の刈田や、その南方の海岸あたりから上陸されたと思われます。

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15.古事記は東方より海上を来たと書いてある

 このあたり鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと母の豊玉毘売(とよたまひめ)は海中で産気づき三人の姫を連れて刈田の浜に上陸して産屋をつくる間もなく天津日高日子波限建鵜葺草葺不合尊( あまつひだかひこうがやふきあえずのみことと申すと古事記に出ています。

 刈田の海岸を調査すると目的地の「入り船」までゆく途中で急速上陸された時に船をつないだ石も記念として保存されていましたし、三姫の住んだ家には鏡が保存されているとの事でした。


16.古代の瀬戸内海航路とウハラ

 右の記録は大空から雲に乗って降臨したと考える神官達の考えは非科学的なものです。そして、「うがやふきあえずの神」の物語や三韓征伐の門出は神戸の住吉神社(住吉神社の昔の地名をウハラ住吉郡とよぶ)の近くの五百崎(いおざき/今の魚崎)から五百の船団で出たと口碑があるのです。この船団の上陸地(九州北東部)にウハラ神社があることでも、大昔はこの航路を証明していると思います。その上陸したあたりに飛騨や、飛騨の附近の地名が沢山あることは、飛騨地方の人々が上陸して、故郷をなつかしんでつけた名と思われます。


17.仏教がなぜ西方を拝むか

 今の印度人は、印度西北方の彼方から民族の大移動により流入したアーリヤ人です。彼等は故郷を慕い西方を拝んだのです。釈迦の教えが数百年後に宗教化され、今日の仏教となるに及び、西方に極楽を求めて礼拝したのです。


18.古神道はなぜ東を拝むか

 北九州に上陸した人々が、高千穂の里で稲作をはじめ、そこに住みつくと、東方のアルプス麓の生活を慕い、懐しんで遥拝したと考えられます。

 高千穂の里のクシフル神社の辺りに二二ギノ命たちが最初の居を構えられたと口碑にあります。その傍に高天原揺拝所のある丘があります。そこには東方を拝んだと思われる碑があり、碑の裏に数十人が集い得る広場があります。

 ヒュユガとは古代の言葉で日に向って拝むという意味です。私共の先祖は日を抱いたり、日に向って感激してパンパンパン……と連続して拍手して感謝し礼拝したのです。それが、つまって二拍手になったといわれます。高山市に松倉山があり八月九日に山に登り十日の朝、太陽が東天に昇るのを待って拍手を連続的にうってから山を下りる習慣が古来よりあり、後には観音様信仰に結びついて、今日も行われています。朝日を「待つくら」から松倉になったので、くらとは小高い山の意味と聞い

 右の如く太陽や祖国の大自然に感謝し、先祖を拝むという道徳的なものが発達したのが日本の古神道であり、これは後の宗教神道とは異なり宗教とはいえないものです。こうした太陽信仰と東より来たから東方の故郷を拝むという心が強く働いて古神道が成立したと思います。九州へはるばるきて高千穂の里に住みついた人々が西方から来たならば西方を拝み、夕方の太陽が地平線に沈むのを遥拝する古神道が生れていると類推できます。

 北方のシベリア辺から来たのならば北方を拝む習慣ができている筈であり、南方から来たならば南方遥拝の神道のようなものができている筈です。


19.天孫降臨と天孫登臨

 雲に聳える冷いアルプスを仰いで暮した飛騨高地からはるかな九州まで降りてきたから天孫降臨の伝説が生れたと思います。

 高千穂も35060mも海抜のある高地ですから、あまり高くもない低地から来たのならば天孫降臨ではなくて天孫登臨の伝説が生れる筈です。

 私のこの説はどこまでも仮説であって、断言すべきものではありません。皆様が私の論文を読んでどう思われるか、御感想を御送り下されば幸甚に存じます。

(『宇宙と人生』昭和6091日号 飛騨福来心理学研究所)



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めい

《日本古代史の舞台は奈良ではない!九州なのである。》
http://grnba.secret.jp/iiyama/index.html#ss11031
飯山説は「日本のルーツ飛騨」説と微妙につながるように思えます。

   *   *   *   *   *

◆2015/11/03(火)  あらびき茶の産地は 日本古代史の舞台
原田古墳は物部守屋の墓だ!

あらびき茶の産地、志布志有明にある原田古墳
原田古墳は直径40m、周囲125m、高さ約5mの大きさ。円墳としては鹿児島県内最大の規模であり、直径40m規模の円墳は全国的にもごく稀である。
さて、この巨大な円墳の埋葬者は、いったい誰なのか?

地元の伝承は、日本神話に登場するコノハナサクヤヒメの墓だと言うが…、違うだろう。

ズバリ! 蘇我氏との闘いに破れた物部守屋の墓ではないのか?!

原田古墳がある志布志市有明は、あらびき茶の産地なのだが…、ワシは本日、放射線量の測定を兼ねて原田古墳まで行ってみた。

その結果は…、放射線量は完璧に安全! 0.05μSv/h。 原田古墳の埋葬者も、物部守屋! との確信に達した。
はじめに断っておくが…、日本古代史の舞台は奈良ではない!
九州なのである。
それは『日本書紀』を丹念に読めば分かるが…、天武天皇は壬申の乱の前からズーッと筑紫や筑後、晩年は南九州の志布志あたりで国づくり(「日本国」の建国)をヤっておられた。

隋の帝王・煬帝に「日出ずる処の天子云々」の国書を届けた小野妹子も、阿蘇の近隣にあった九州ヤマト国の外交官だった。

神武天皇も(そのモデルは)志布志の近隣で狩りをしていたというし、神武天皇の父君であるウガヤフキアエズの墓(吾平山上陵)も大隅半島の鹿屋市にある。

『日本書紀』の舞台は何処だったのか? と、「何処」を探って行間を深く読み込む史家は少なく、史家の大半は、日本古代史の舞台は奈良あたり…だろうと、漫然と『日本書紀』を読んでいる。
これは、歴史学者には「地理音痴」が多いので仕方がない。

ところで…、
原田古墳から直線でわずか200mのところに 森神社がある。

『森神社由緒』(下に写真を掲載)によれば…、
http://kamodoku.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2013/05/23/cimg5428.jpg

敏達天皇(在位572~585年)の代から「崇仏」か「崇神」かで蘇我馬子と争い始めた。

次の用明天皇(在位586~587年)の代、ついに崇神派の物部守屋は滅ぼされたと思いきや、当地に逃れたというのだ。

そして守屋は神仏論争のやまぬ中、わずか2年で崩御した用明天皇を奉祀し続けたのがこの森神社なのだという。

最後のほうに「高井田のノンド丘円墳は物部氏の古墳であると言い伝えられている」とある。

ノンド丘円墳は森神社から2キロほど離れているが、そこには物部守屋という蘇我氏と闘った巨大豪族に相応しい墓はない。

物部守屋の森神社からわずか直線で250mのところにある原田古墳。全国的にもごく稀な直径40m規模の巨大円墳。
これこそが物部守屋の墓ではないのか?!

志布志市は、日本古代史の宝庫である。

天武天皇が志布志から大阪に向われるまでの歴史。それは、神武天皇にまつわる古代神話の時代から、天武天皇が「天皇」を名乗り、この国を「日本国」と命名し、『日本書紀』の編纂を命じられるまでの歴史なのであるが…、その舞台は、志布志を中心とした大隅半島なのである。

だっからワシは、志布志からは中々離れられないのである。

はやく、ウラン・ウデに行きたいのであるが…。
飯山 一郎

by めい (2015-11-04 05:31) 

めい

楠氏がでてきました。
http://grnba.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15558491
楠氏の氏神様が建水分神社(たけみくまりじんじゃ)で菊水紋。古来皇室と関わりある飛騨高山の位山(くらいやま)は日本海と太平洋の分水嶺です。飛騨の歴史と楠氏、そして南朝との関わりは?

   *   *   *   *   *

168:harapar : 2015/11/04 (Wed) 21:55:06 host:*.dion.ne.jp

てげてげ
2015/11/03(火)あらびき茶の産地は 日本古代史の舞台

先生、こう云う話が突然出て来たって事は何か秘密めいた話に辿り着いたんじゃないですか?(^^;;

173:飯山一郎 : 2015/11/04 (Wed) 23:21:37 host:*.ocn.ne.jp
>>168 haraparさんは、さすがに読みが深い!

『2015/11/03(火)あらびき茶の産地は 日本古代史の舞台』は、「大化の改新」の前に、蘇我氏(仏教派)と物部氏(神教派)に分かれて争った。その舞台が九州だった!という秘密が見えてきたことが、先ずあります。

次に、時代が下って、南北朝の時代。南朝と北朝が激しく闘った舞台も南九州だった。その結果、南朝側が南九州でも敗退し…、下甑島(しもこしきじま)まで逃亡していった。

その下甑島(しもこしきじま)には…、今でも楠木正成の末裔を弔う豪商がいて、莫大な南朝の資金が、なんと今も!東京やアジアの某地で活用されている…という驚愕の秘密!

嗚呼、書いてしまった! その「驚愕の秘密」を熟知している政治家(超大物)が誰か?は、おいおい書きます。

179:成田 : 2015/11/05 (Thu) 00:29:02 host:*.zaq.ne.jp
>>173
飯山先生、華奴お湯割りをごくり

楠木正成公の家紋 菊水紋
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1066124035
楠木家は、水神を祀る古社の【建水分神社:たけみくまりじんじゃ】の有力な氏子であった。
その為菊の半分と氏神にちなむ流水ろを合わせた家紋とした。
建水分神社:http://www.takemikumari.com/
平成27年 だんじり 水分青年団
http://youtu.be/_zNJ1pHqzh4

189:飯山一郎 : 2015/11/05 (Thu) 03:28:51 host:*.ocn.ne.jp
>>173 >>179 成田さん
楠木正成公の家紋である「菊水紋」を今に引き継いでいる家系が下甑島にあります。和田家です。和田家は楠木家の末裔であり、和田家の当主は、現在、マカオにファンドの事務所を構えており、数兆円の資金を運用するアジア最大の高利貸です。
この当主と、私は食事を共にしたことがあります。今も南朝方の重鎮ですが、皇室とは距離をおいています。東京皇室は(いちおうは)北朝ですから…。



by めい (2015-11-05 05:42) 

めい

昨日のつづきです。http://grnba.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15558491
田布施まで出てきました。今後の展開どうなることか。

   *   *   *   *   *

253:harapar : 2015/11/05 (Thu) 19:58:29 host:*.ocn.ne.jp
>>173 飯山先生

私は皇室に関する秘密だと思っちゃいました (^^)
なんと、大楠公にまつわる流れから莫大な南朝の資金が今も活用されている話だったとは (@_@;)
その和田家ですが、
まさか武富士や医療法人徳洲会の資金調達で名を馳せた方の一族だったりして (^_^;
となると、超大物政治家といえば、あの方しか思い浮かびません。

265:飯山一郎 : 2015/11/05 (Thu) 21:35:02 host:*.ocn.ne.jp
>>253 haraparさん
あなたは…、あれだ、何でも知ってるわ!
武富士のことも徳洲会のことも、そのウラで国家権力が発動されたカネと利権のドロドロも…。

あと、和田家の当主は、皇室に関する秘密も握ってます。それを知られることを怖れてはいますが。

超大物政治家といえば、あの方…。 そうです! 和田家の当主とピョンヤンに行った、あの…www

とまれ、下甑島(しもこしきじま)には、皇室の秘密の歴史が隠されたままです。haraparさんなら…もう御存知でしょうが…、私は書きません!

273:harapar : 2015/11/05 (Thu) 23:58:10 host:*.dion.ne.jp
>>265 飯山先生
ゲゲゲッ! 私は表に出ている内容しか知りませんから…
これ以上、深追いしません ((((;゚Д゚)))))))

276:飯山一郎 : 2015/11/06 (Fri) 00:38:39 host:*.ocn.ne.jp
>>273 haraparさん 深追いしたくなるけどね! 下甑島(しもこしきじま)。南朝の資金。

279:飯山一郎 : 2015/11/06 (Fri) 01:04:29 host:*.ocn.ne.jp
>>276
あと…、秘密結社「薩摩ワンワールド」と、甑島(こしきじま)の関係。
深追いすると、皇室と英国の関係が透けて見えてくる…。
コレを「角栄・命」の故二階堂進は知らなかった。皇室の金脈と人脈。
だから二階堂進は、カネ(政治資金)がなかった。薩摩にいながら…。

282:飯山一郎 : 2015/11/06 (Fri) 01:28:21 host:*.ocn.ne.jp
>>279 ふたつの「熊毛郡・田布施」。
江戸中期。下甑島(しもこしきじま)で温存された南朝の「血脈」が、島を出る時が来た。
島を出て、薩摩に上陸し、薩摩の地で力(ちから)を蓄えた。
そこが、薩摩の「熊毛郡・田布施」だ。金峯山の麓(ふもと)の…。
ここから長州の「熊毛郡・田布施」までは、一瀉千里だ。
しかし、薩摩ワンワールドは、薩摩の「熊毛郡・田布施」の地名を、巧妙に隠している。

なぜ? 何故に「熊毛郡・田布施」という地名を隠そうとするのか? 天皇家の秘密の…。


by めい (2015-11-06 05:32) 

めい

310:飯山一郎 : 2015/11/06 (Fri) 18:13:48 host:*.ocn.ne.jp

下甑島の和田家は、楠木正成の弟、正季系(近畿系)ではなく、楠木正成
(大楠公)の嫡男、正行(まさつら、小楠公)の直系を自認しているようだが、伝説!というのが通説。

しかし、下甑島(しもこしきじま)の和田家は、楠家の直系の子孫であることを(一切公言せずも)自認しており、今に至るも徹底して後醍醐天皇側。

300年近い北朝の天下では、南朝は逆賊。その逆賊の謗り(そしり)を
耐えぬいてきた! という強い「誇り」を持っている。

600年前、北朝側が南朝側を「根絶やし」にすべく、南九州は志布志ま
追討してきた「証拠」(石の板碑)を見ると、下甑島の和田家こそが楠木家の本流・直系であるとの「自認」が正しい! と、私は思っています。

by めい (2015-11-06 20:33) 

めい

「卑弥呼の墓だろう!」 と言われる箸墓古墳。「日本のルーツ飛騨」説では百襲姫の墓。(その時歴史が動いた・箸墓古墳(4)http://www.kamiyono-annnainin.com/hashi4.html
《この箸墓古墳は、20年くらい前までは、「4世紀の後半以降」 という学説だった。それが「卑弥呼の墓だろう!」 とされてからは、どんどん年代が遡り(さかのぼり)…、4世紀前半→4世紀初頭→3世紀末→3世紀後半 と、変遷し…、ついに最近では250年頃となり、根拠もなくどんどん年代をあげて、あげくのはては「卑弥呼の墓」とされるようになってしまった。》

   *   *   *   *   *

◆2015/11/06(金)  道路の際に落ちていた石ころが…化けた!
考古学は学問ではない!
http://grnba.com/iiyama/index.html#ss11061

志布志市野井倉。古墳時代の集落の発掘現場。
絶食2日目。ワシは、空腹をまぎらすために、古墳時代の住居跡の発掘現場を見に行った。
現場で、考古学の学者と話をした。が、話が全く噛み合わない。

「“志布志”は天智天皇の命名との伝承があるが、これは天皇家の先祖が志布志近辺に居られて高度な文化を熟成していた…」
と、ワシが言うと、
「そんなことはありません。このあたりは米が取れず、貧しい集落があるだけで、文化的にも貧しかった…」
などと、その考古学の先生はシレッと言う。

「日本書紀では、天武天皇と大隅隼人の密接な関係が記述されているが…」 と、ワシが言うと…、
「それは畿内の奈良あたりでの話でしょう!」

「それでは卑弥呼の邪馬台国は?」 とワシが訊くと、
「まぁ定説が正しくて、畿内でしょう!」 と、学者先生は自信満々。

九州は薩摩の古代遺跡の発掘現場で、「邪馬台国・畿内説」 を聞くとは思わなかった。

考古学の“業界”も、中央の歴史官僚が決めた「定説」に「異説」を唱えることは御法度(ごはっと)なのだろう。
「卑弥呼の墓だろう!」 と言われる箸墓古墳。
この箸墓古墳は、20年くらい前までは、「4世紀の後半以降」 という学説だった。
それが「卑弥呼の墓だろう!」 とされてからは、どんどん年代が遡り(さかのぼり)…、

4世紀前半→4世紀初頭→3世紀末→3世紀後半 と、変遷し…、
ついに最近では250年頃となり、根拠もなくどんどん年代をあげて、あげくのはては「卑弥呼の墓」とされるようになってしまった。

このように「考古学という学問」は、インチキきわまりないのである。

よく、「考古学的な裏付けが欲しい!」 とかと言う人がいるが…、考古学の学者ってのは、箸墓古墳みたいに裏付けちゃう! のである。

志布志も…、「古代は、文化的に貧しかった」 という裏付けをするために、考古学者は頑張っている。

「奈良や京都で高度な日本文化が発達した!」 という中央の歴史官僚の意向に、地方の考古学者は逆らえないのである。

空きっ腹をかかえての帰り道、道路際に丸い石ころが落ちていた。
おにぎり に見えた。
そう! 人間は、その時の状況で、豚でもない妄想をするのである。
飯山 一郎

by めい (2015-11-07 04:59) 

めい

上記コメント飯山発言に「人生は冥土までの暇潰し」さんが言及。
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-909.html

   *   *   *   *   *

薩摩ワンワールドと皇室

最近の掲示板「放知技」の一連の発言のなかで、亀さんが最も注目しているのが、「薩摩ワンワールドと皇室」を巡る飯山一郎さんの発言である。ちなみに、亀さんが初めて飯山さんの古代史観に接したのは、「飯山一郎のおどろき古代史」であり、今ではほぼ肯定するに至っている。

無論、亀さんとて最初から飯山さんの主張する、「天武天皇は,済州島の御方である!」を、スンナリと受け入れたワケではない。最初は山形明郷氏の『邪馬台國論争 集結宣言』から入り、続いて「飯山一郎のおどろき古代史」の批判的読書を行い、最後に飯山さんの一連の『日本書紀』に関する投稿、たとえば、「◆2015/09/08(火)  「日本」という国名の由来を簡明に明かす!」などに接していくなかで、ほぼ真実を語っているのだろうと思うに至った次第だ。思わぬ副産物もあった。、それは、飯山古代説と格闘していくなかで、亀さんの幼稚な「コンテキスト力」を、少しは鍛えることができたということだ。

さて、薩摩ワンワールドと皇室について、最近の飯山さんの投稿は飛び飛びなので、独断と偏見を恐れず以下のように纏めてみた。
(1)>第一ステージ>:九州を舞台に、大化の改新に先行して蘇我氏(仏教派)と物部氏(神教派)が戦った。
(2)第二ステージ::同じく九州を舞台に南北朝の時代、南朝と北朝が志布志で激しく戦い、南朝が敗北、南朝の生き残りは下甑島(しもこしきじま)へ逃亡した。
(3)第三ステージ:江戸中期、下甑島に逃亡していた南朝側の子孫が、薩摩に聳える金峯山の麓に移住、準備を整えた上で長州の熊毛郡・田布施へと向かった。

ここで(2)の南北朝時代に焦点を当てるとすれば、学校で習った南北朝説から、『南北朝こそ日本の機密』(成甲書房)の落合説に至るまで、さまざまな南北朝説に亀さんは接してきた。『南北朝こそ日本の機密』は落合秘史の核であり、個人的に落合秘史の中でも一番好きな作品なのだが、それでも、『南北朝こそ日本の機密』に書かれている内容が、南北朝秘史の決定打とは未だに思えないのだ。

ところがここに来て、「南朝と北朝が志布志で激しく闘った」という、「え?」と思うような新説を飯山さんが発表した。なかなか面白い説なので、今後は時間をかけて吟味してみたいと思う。ともあれ、南北朝を含めた「日本の機密」の発掘という、亀さんの残りの人生の暇潰しのテーマを、お陰様で見つけることができたようだ。

さて、本題の薩摩ワンワールドと皇室…。

あと…、秘密結社「薩摩ワンワールド」と、甑島(こしきじま)の関係。
深追いすると、皇室と英国の関係が透けて見えてくる…。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/15558491/279/

薩摩ワンワールド、この言葉は落合莞爾さんの旧稿にも登場するが、飯山さんの言う薩摩ワンワールドとは、大分ズレがある。まぁ、そのあたりは徐々に拙ブログに書いていこう。

それよりも、今の亀さんが仕事の手を休めながら、乏しい歴史の知識を総動員してアレコレ思索を巡らしているのは、「英国」と「皇室」の目に見えぬ関係だ。それにはまず、英国から〝料理〟してみたいと思っている。
飯山さんが「◆2015/10/19(月)  薩摩・鹿児島の諸君:安心したまえ!」で主張している「薩摩ワンワールド」の〝英国〟と、天童竺丸さんが『悪の遺産ヴェネツィア』で主張している〝英国〟とを絡めた話も、安西さんから聞きたいと思う。
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-906.html

早ければ来年の6月あたり、安倍内閣が政権を投げ出し、戦争屋をプーチンが完膚無きまでに叩きのめした後、日本という国土を我がモノにするため、薩摩ワンワールドvs.プーチン・習近平の激しい争いになりそうだ。

by めい (2015-11-08 13:44) 

めい

《今年は、シュメール型の文明が、「戦争屋の退治」とともに終焉する年で、来年からは、イノチのリズムに沿って、全ての文明の再編成が始まります。》
たしかにこのことが実感できるようになってきました。
http://www.k2o.co.jp/blog4/2015/12/1222.php

   *   *   *   *   *

新井信介 「京の風」
【お知らせ】「皆神塾:秋元神社特別イベント」のご案内 (12月22日:冬至の日)

九州の高千穂に、なぜ、「天の岩戸」神話があるのか? そして九州には、高千穂という地名の場所がなぜ、鹿児島と宮崎に二箇所有るのか? これは、どちらも、1万年以上続いた縄文人からみたときの「新しい始まり」ではなく、シュメール・ヘブライの基準でみた、日本列島の「王権」の始まりを意味しています。

鹿児島の高千穂岳は、最初にヘブライ人王族が正式に入った時のシンボルでした。では、宮崎の高千穂は何でしょう。これには、中国大陸経由の壮大なドラマが込められています。記紀神話で、「鏡」がアマテラスの岩戸開きのシンボルになっている以上、これは、前漢武帝の時代以後の歴史事件を反映しています。記紀にある「国生み」、「国譲り」の物語は、三国時代終盤の3世紀におきた、ある事件を元に作られました。そこから、今の「天皇(スメラミコト)」に繋がる倭の大王が生まれていますが、その倭の大王の前に、日本列島には、全てのイノチと繋がる感性を湛え、大陸で生まれた文明の利器を選別・制限しながら使っていた王権がありました。それが、新嘗祭の前日に天皇家が行っている「ニギハヤヒ」のお弔いで示される、原始王権です。この王権は、文字や通貨を使った自然収奪型の文明を嫌い、突出した権力階層も作りませんでした。個々人が皆、宇宙の大本、宇宙摂理と繋がっていたからです。

しかし、それでは、大王の心が描く世界に、列島の民が従わない。

こうして、封じ込められた場所があります。それが実は、宮崎の高千穂神社の奥宮である、秋元神社の地です。

この場所には、宇宙の響きが、地上でもっとも精妙に聞こえる冬至の日に、大地を照らす太陽の生命力と、私達の肉体が一体になれる瞬間が、一年一度、4分間のみ現れます。

ウシトラの方角を向いた社殿のその背後、西南の山間に嵌まるようにして太陽の光が現れ、このとき、この光を見つめる私達の身体に、宇宙の根源波も流れ込んでくるのです。この光は、「国生み」「国譲り」の時以来、完全に封じられていましたが、1998年に偶然に確認されました。

今年は、シュメール型の文明が、「戦争屋の退治」とともに終焉する年で、来年からは、イノチのリズムに沿って、全ての文明の再編成が始まります。

6000年に渡る人類の先達の歩みに感謝しながらも、これからの新文明の主役に成るために、この宇宙と日本列島の奇跡の現場に、再度、立ってみたく同志をお誘いするものです。

前日12月21日に熊本に集合し、冬至当日は現地の手前の集会場に10時に到着し、この地の意味と現代の時代性を学んでから、秋元神社を参拝し、その光を浴びたいと思います。

PS:「日本」という言葉の本当の意味を知りましょう。これは、縄文からの精神性を引き継いでいます。孔子の「仁(おもいやり)」を最優先徳目にした前漢武帝時代の董仲舒の教えを学んでいる大陸の教養人が、日本列島に入って、それが行き届いていると認識したことが、この呼称の始まりです。日本とは、「仁品」であり、今こそ、世界に広めなければならない、心のあり方です。どんな文明の利器(文字、通貨、制度、科学技術、学問)も、多くのイノチが咲き合う、美しい現実を生み出すためのものです。そのために、人間の想像力と創造力によって、生み出され蓄積された経験値が動員され、花鳥風月が生かされて、日々を芸術作品化させる。これが私達の使命ではないでしょうか。

by めい (2015-12-03 06:38) 

めい

上記コメント関連記事です。

   *   *   *   *   *

新井・元による世界経済防衛の見通しが立った、露が偽イスラム国退治に15万人投入、マケインが白旗。だそうです。
http://www.asyura2.com/15/cult15/msg/415.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2015 年 12 月 02 日 18:58:43: 4sIKljvd9SgGs    

日本に関しては、背乗り政権の処分と福島の情報公開と対策が明らかになるようで、よい正月というか、死ぬか生きるかという師走を過ごす必要がなく、自転車操業だけに専念できる年末となり、ギリギリ、我が家も日本も世界もドル詐欺のやけくその逆ギレによる大混乱を回避できたようです。
実力不相応のドル詐欺暫定一位維持と評価不十分の元の暫定3位デビューでしたが、実質一位の元のデビューを阻止できなかったくそじじいの完敗という事で、もう金融恐慌詐欺を起こせなくなったという事です。
偽イスラム国の広告塔のようなジハードジョンマケインですが、敵ながらくそじじいもどこまで登板させるのか、いい加減楽にさせてやればいいのにと思っていましたが、ちゃっかり小早川してしまったそうですが、あれだけピエロにされ続ければ当然かもしれません。
そうなると、まな板の上で凍死しそうな日本ですが、ようやく、背乗り政権の処分や福島対応が動き出すようです。
小沢にぼろ負けして退陣した安倍がムサシマンサックス選挙で息を吹き替えし、前回も酷かったですが、今回は滅茶苦茶で馬鹿が開き直ると目も当てられないと思っていましたが、小泉以来のクルクルパー政治が終り、北の湖死去あたりから洒落にならなくなってきた福島問題も動き出すようで、露の協力申し出や米の情報公開もその表れのようです。

----------------
ドル詐欺は、ベンによると、トルコと偽イスラエルを生け贄に差し出したようで、偽シオニズムが意味がなくなったという事です。
http://www.asyura2.com/15/cult15/msg/416.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2015 年 12 月 02 日 23:23:28: 4sIKljvd9SgGs
     
血統ユダヤを差し置いて、改宗ユダヤや背乗りユダヤがシオニズムを叫んでも、マスオさんが波平を名乗ったり、ジャイアンがドラえもんを名乗るようなもので意味がなく、湘南似非右翼や浪花の偽部落が日本よとか愛国心とかをほざくのと同じで意味がありませんが、さすがのくそじじいも偽シオニズムや悪魔教が世界中に馬鹿にされていると空気を読んだという事だと思いますが、ただの拝金ですから当然です。
凝った嘘ほどバレた時に間抜けになる訳ですが、民族も宗教も乗っ取って代々本物を演じてきて、それが板についてきてバレるというお笑いな事態にくそじじいは遭遇している訳で、馬鹿との遭遇政局です。  
 

by めい (2015-12-03 06:43) 

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