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遠藤三郎中将の”えっけばらない”日中友好(2) [遠藤三郎]

以前、遠藤三郎中将についてこう書いた。

 

私にとっての遠藤三郎中将のすごさ(特異性)は、
1. 80年間「日記を書く」という行為によって培われた倫理性。たとえ発表を前提としないものであっても、「書く」という行為によって自ずから「あるべき自己」が顕現し、そのことによって行動も律せられてゆくという典型としての生き様。
2. ≪航空兵器総局長の時、兵器産業を営利を目的とする株式会社に委することは不合理と思い、強引にこれを国営として「赤の将軍」のニックネームを附せられた≫とあるように、戦争の拡大が兵器産業の利潤追求と表裏の関係であることを体験を通して痛感し、その関係を断ち切るべく主張し行動されたこと。
この二点です。


いま、文章を掘り起こしつつ思うのは、どんな時代にあっても、どんな環境にあっても動じない「視点の確かさ」だ。そこにおのずから在る一貫性。ほんとうに頭のいい人だったのだと思う。そして遠藤三郎について知るだれもがそのことを認めていたのだと思う。戦後そのことをほんとうに理解したのが、日本人よりむしろ中国人だった。周恩来首相との通り一遍でない交流にそのことがうかがえる。それに対して、佐藤栄作首相の非礼。これからでも遅くはない、日本の政治家が、遠藤三郎をきちんと評価できるかどうかが日本の将来を決めるように思える。吉田曠二著『将軍遠藤三郎とアジア太平洋戦争 』が今年の2月に発刊されていることを昨日知って、がんばって注文した(8,640円!)。3年前に出た元陸軍中将遠藤三郎の肖像―「満洲事変」・上海事変・ノモンハン事件・重慶戦略爆撃』 の続刊。大丈夫続刊は出るのだろうかと心配していたところだった。出版社が代わっていた。書評にも取り上げられることがなかったのだろうか。気づかずにいた。県内図書館で置いてあるのは、県立図書館と山形市立図書館だけだった。地元置賜、とりわけ出身地川西町にもなかったのがなんとも寂しい。『元陸軍中将遠藤三郎の肖像』はまだどこにもない。


以下、日中関係について、日清戦争に遡っての議論。それから沖縄返還協定批准書交換にあたって記された、米軍基地と沖縄の問題。

いずれも、考えるべき「原点」が示される。


   *   *   *   *   *


日清戦争以来おかしな日中関係

 (一九七二年三月十五日、沖縄返還協定の批准書交換の日稿)


 先年佐藤総理が沖縄を訪ねて「沖縄が返還されぬかぎり戦後は終らない」といわれました。佐藤総理としては大出来でありますが、それよりも更に大きな問題の残っていることを忘れられている様です。即ち法理的には日中戦争はまだ終ってはおりません。その外にも国後、択捉、歯舞、色丹等北方領土の問題もあり、また日米安保条約にからむ在日米軍の問題もあり、とてもとても日本は戦争が終ったなどとはいい得る状態ではないのに加えて、一方では鋒先きを中国に向けているような自衛隊が雪達磨の様に年々歳々増強され、またまた戦前に逆行するやの気配さえ見えてきました。

 これでは日中十五年戦争どころか百年戦争にもなり兼ねません故、ここではこれ等の問題を取り上げて見ようと思います。

 日中関係をおかしなものにしたのは日清戦争からではないでしょうか。

 日本は久しい間中国から恩恵に与った古い歴史を忘れ、戦勝によって急に心奢り中国人民を蔑視し始めました。ことに日露戦争と第一次欧州大戦の勝利により、世界五大国の一つとか三大強国の一つなどと己惚れ、野心を燃やして中国における利権を独占しようとした日本と、民族意識、国家意識に目醒めた中国人民の強い抵抗の衝突したのがいわゆる「日中十五年戦争」だと思います。そして日本はこの戦争で完敗したのです。

 この戦争はなんと理屈をつけて見ても日本軍国主義、帝国主義の中国侵略であり、非は全く日本にあります。他国の領土を踏みにじり、一千万以上の中国人民の命を奪い、五百億ドル以上の物的損害を与えた日本は、その非を謙虚に認めない限り、日中関係の正常化はあり得ないと思いますが、今はこの問題を暫く措いて、日中国交回復にビジネス的支障を与えている台湾問題を取り上げて見ましょう。

 昨年七月十五日、ニクソン米大統領が中国訪問の意図あることを発表した時、日本政府は随分びっくりした様でした。佐藤総理も旅行先で新聞記者に「自分も北京政府を訪問してもよい」という様なことを話したと新聞にありましたので、私は早速佐藤総理に次の様な主旨の手紙を差し上げました。

直接訪ねて申上げたかったのですが従来もなかなか会って貰えなかったからです。勿論書留便で親展に致しました。なおどこの馬の骨の手紙かと無視されるのを虞れ、冒頭には書かずもがなの私と総理の令兄との関係まで書いて注意を喚起したのでした。

 「私はまだ総理とは直接面談の機会を持ちませんが、総理の御長兄元海軍中将佐藤市郎さんとは昭和二年ジュネーブの海軍軍縮会議に同席して以来の僚友であり、次兄岸信介さんとは昭和十四年、私が関東軍参謀副長として新京に赴任した時からの知人(当時岸氏は満洲国日系官吏)であり昭和十八年末からは共に軍需省に勤務欲し(岸氏は軍需次官、私は航空兵器総局長官)戦後は巣鴨米軍拘置所もご一緒した深い縁故のあった関係上、総理にも親しみを覚えますので無遠慮にこの手紙を差し上げる次第です。失礼の段は御海容願います。

 総理がニクソン大統領の後塵を拝して今日北京を訪問されても北京政府は相手にしてくれないかも知れず、たとえ訪問し得ましても、世間は米国追随と嘲笑するでしょう。ですから北京訪問など二の次にしてまず総理が親しくて来られた蒋総統を本秋の国連総会の開会前になるべく早く訪ねられ、誠意を披漫して北京政府との和解を勧告して下さい。

 どうしても蒋総統がその勧告を容認しない場合、本秋の国連総会では日本政府は台湾政府の国連残留支持も北京政府国連復帰拒否も致し兼ねるし、日台条約も破棄せざるを得ない旨を堂々と通告した上で国連総会に臨んで下さい。これは決して私の思い付きではありません。

 私が昭和三十年中国を訪問した際、北京政府の責任ある要人から直接聞いたのですが『蒋介石が北京に来るなら北京政府は立派なポストを明けて待っている』とのことでありましたし、蒋介石の部下であった傅作義将軍が現に北京政府の水利部長という要職について活躍しているのを見かつ将軍と直接話もして来ました。それで私は、帰国後たまたま在京しておった私の友人根本博元陸軍中将(私とは陸軍大学の同期生であり、戦後蒋介石の最高顧問として台湾に行っておった人)に対して事情を話し蒋介石総統に北京政府との和解を勧告する様依頼しましたが、根本氏は『終戦時軍司令官として中国におった時蒋介石の”暴に報ゆるに恩を以ってせよ”との号令により部下一同と共に無事引き揚げ得た恩義があるから、それに答えるため蒋介石の大陸反攻を扶けねばならぬ』といって聞き容れませんでした。

 その後、東久邇、片山、石橋の三元総理が台湾問題を心配され連名で蒋総統宛北京政府との和解勧告文を書かれ、私が使して駐日台湾政府大使館に持参、蒋介石総統への伝達方を依頼したことがありました。台湾政府の大使はその勧告文を受けとりましたが蒋介石総統には見せなかったものの如く、数日後私の手許に郵便で返送して来ました。甚だ残念でしたがその当時はまだ機が熟していなかったのかも知れません。

 しかし今日は全く情勢が変っております。今秋の国連総会ではどんなに北京政府の国連復帰を阻止し台湾政府の残留に努力してみた所でアルバニア案の通過は必然でしょう。そうなりますと日本政府も蒋介石総統も面目丸つぷれです。のみならず中国人民にとってもその国内問題が国際会議の俎上で論議されることは好ましいことではないでしょうから、開会前に問題を解決して置くため、蒋介石総統が北京政府と和解することは、最も賢明なことであり、日本政府のこの陰の努力は日中関係の正常化にも、また国際緊張の緩和にも寄与すること極めて大きいと信ずるからであります。」

 佐藤総理はこれに対し何の音沙汰もなく、国連総会においては日本代表は恥も外聞もなく、なり振りかまわず露骨に台湾政府の国連残留と北京政府の国連復帰阻止に努めましたが、ご承知のような結果となり醜を天下に晒しました。

 せっかくの進言を無視した佐藤総理には愛想がつきましたが、日本国民の一人として日本の進路を誤らしめたくありませんので、国連でアルバニア案の通過した直後再び佐藤総理に対し次の要旨の手紙を送りました。

 「総理が平素口にされる国際信義の尊重は、少くとも台湾政府に対しては先般の国連総会において十分果されました。蒋総統もそれを認め感謝しているでしょう。しかしその努力にも拘らずあのような結果になったのですから今度こそ誰に遠慮する必要もありません。国連総会の審判に従うのは当然であります。これ以上頑張っていることは国際関係を複雑にしかつ緊張を増す恐れがあります故、蒋介石総統が進んで北京政府と和解するよう佐藤総理から蒋総統に勧告されるには極めてよい職分と思います。どうぞ勇断を振って下さい。もし蒋介石がそれでも承知しない場合は今度こそ日台条約の廃棄を通告して日中の国交回復に邁進して下さい。」

 右の手紙に対して相変らず今日まで何の音沙汰もなく、今回の国会においては政府の統一見解として「台湾は昭和二十六年サンフランシスコ平和会議で放棄したのだから、日本政府は発言し得る立場にない」などといい逃れをしておりますし、野党側も「日台条約を破棄せよ」というのみで建設的の意見はないように見受けられます。

 台湾問題は中国の内政問題であるから容喙してはいけないという人も多い様です。原則論としてはその通りでしょう。しかし台湾は明治二十八(一八九五)年下関条約で日本が中国から譲り受けて以来昭和二十六年放棄するまで半世紀余にわたって統治した所です。放棄したからといって、あとは野となれ山となれでは済まされません。確実に旧所有国中国政府に帰属するまでは道義的責任を持つべきであろうと思います。


 話が遡りますが昭和十年私が陸軍大学の兵学教官の時、「日清戦争の結果として日本が清国から遼東半島や台湾等の領土割譲を迫ったことは誤りである」と講義して大きなセンセーションを起したことを記憶致します。当時は戦勝国が敗戦国から領土を割譲さすことは国際的常識になっていたのでありますが、私はこれに大きな疑問を懐いておりました。

 国家が最高の組織であり国家間の争いを裁く有力な機関がない限り戦争は必要悪として認めねばならないとしても、切り取り強盗が公然と行なわれていた未開の野蛮時代ならともかくも、自ら文明国と自称し人権が尊重される時代において帰属不明の土地が係争となった戦争ならともかくも、他の問題が係争となったその係争が解決すればことが済むことであり、戦勝国だからといって敗戦国からその土地の住民意志に反して土地の割譲を求めることは人権無視であり、罪悪であり恨みを将来に残し報復戦争の生起は必然であり、戦争の絶えることはあり得ないと思ったからであります。

 日清戦争の勝利でせっかく割譲させた遼東半島を露、独、仏三国の干渉により涙を飲んで返還した恨みが臥薪嘗胆となり、十年後日露戦争で仇を討ったという見方には私は賛成出来兼ねたのです。「遼東半島の割譲は東洋の平和に害があるから中国に返せ」という三国の主張は原則的にはもっともなことであるから、正義を重んじ平和を愛好する日本はこれを返した。ところが返せといった露国があべこべにそこを借りるという美名に匿れて占領しただけでなく、その貪欲を朝鮮にまで及ぼして日本の安全を脅かした新たな事実が、日露戦争の直接原因と見たかったのです。そして露軍を駆逐したならば清国領土は清国に返還するのが最も正しい道だったと思っています。

 大正三年(一九一四年)第一次欧州大戦の際日本は、日英同盟の誼みに従い英国側に立って独逸に宣戦して青島から独軍を駆逐したことは是認されますが、独軍に代って日本が青島を占領し、中国政府に返還しようとしなかったことも正しい行為とは申されません。


 右と同様、大東亜戦争において米軍が沖縄に上陸し激戦の末これを占領した事実は認めますが、昭和二十六年平和条約を結んだ後までも沖縄県民の意志に反して米国の施政権を認めた日本政府の態度は納得出来兼ねます。これではまるで県民の人権を無視して勝手に人質か里子にやったも同然であり、極端に申せば捨て児にしたようなもので、沖縄県民には何とも申訳のないことであったと思います。

 私は去る昭和四十三年四月沖縄を訪問した際、高等弁務官ハンガー中将に対し、

 一、民族の意志に反し異民族が他民族を支配することは、民主主義の原則に反します。貴国が日米両国の友好関係を望まれるならば、連かに沖縄の施政権を日本政府に返還さるべきです。

 二、一九六二年ソ連邦がキューバにミサイル基地を設定した際の貴国大統領ならびに貴国民の憤激を想起し、沖縄の貴国軍事基地が如何に中国を脅威し中国人民を刺激しているかに思いを致し、速かに軍事基地を撤去さるべきです。

 以上二件を貴国大統領ならびに貴国民に伝達されたし。と申入れたことを想い起します。

 地位も身分も弁えない暴挙のように見えますが、私には必ずしも無意味でないという自信がありました。と申しますのはアメリカの軍人は案外淡白でビジネスは確実にやる風習があるからであります。私が昭和二十二年巣鴨米軍拘置所に入所していた時、マッカーサー司令官にあてて占領軍の裁判、特に捕虜収容所職員に対する裁判があまりにも不合理かつ苛酷なのを見るに見兼ね、相当激烈な抗議文を出したことは既に触れました。また巣鴨米軍拘置所で入所者の我々は週一回五十語以内の通信を外部に出すことを許されていましたが、私を含む同僚若干名が語数が超過したということで監督の将校から通信停止の処分を受けたことがありました。その処分はどうも私的制裁のように感じましたので、これに対しても私は抗議文を所長宛に出しました。このような行為は旧日本軍の常識からすると戦争に敗けて捕虜になっている癖に何を生意気なという具合で、中間で握りつぷされるか叱責される位が関の山であるのに、前者は確実にマッカーサー司令官に届き同司令官から日本語の上手な参謀をわざわざ私の所に派遣されたことがあり、後者は所長が確かに私の手紙を見て処罰を取り消しただけでなく、私的制裁を加えた監督将校は更迭されました。

 また朝鮮動乱勃発直後、ダレス長官が日本に来て、日本に再軍備を要望した時、私はダレス氏に対し「日本に再軍備を要求することなく、国際連合に警察部隊を編成し国際連合において個人の志願者を募集せよ」と手紙で進言した際もそれを握りつぶさず、連絡のため駐日大使館付武官を派遣してくれたことがありました(もっとも日本政府の特審局からは叱責されましたが)。こんな例から見てハンガー高等弁務官もまんざら握りつぶすこともなかろうと思ったからでありました。


沖縄米軍基地存続と自衛隊配置

 本日(三月十五日)は丁度沖縄返還協定の批准書交換の日であり、ニカ月後の今日は沖縄の施政権は確かに日本政府に返還されますことは誠に悦ばしい次第であります。佐藤政府の努力を認めるのに決して吝ではありませんが、アメリカが沖縄の施政権を返還せねばならなくなった最大の原因は、地球上到る所の植民地が踵を接して独立してきた現実が示すように、人権に日醒めた民族はもはや他民族の支配を許さぬという人類社会の変化と、沖縄県民の根強い祖国復帰の願いが実を結んだものと見るのが適当と思います。

 沖縄の施政権は日本政府に還って来ますが、沖縄にある米軍基地はその機能を低下させないことを一昨々年末佐藤総理とニクソン大統領は共同声明を出しており、更に近く自衛隊まで沖縄に配置しようとしております。これでは中国に対する脅威は依然として取り払われず、日中両国の正常化にはむしろマイナスになるのではないかと思われます。

 施政権返還前の沖縄における米軍行動の責任は、米国にありました。中国はそれを理解し台湾に米軍がいるのと同様、同病相憐むが如くに日本に対し寧ろ同情的でありましたが、今後は米軍の行動に対しては責任の半分を日本が持たねばなりません。また米軍が沖縄の基地を利用して従来のような軍事行動を取る限り、いつ反撃を受けても抗議の仕様もありませんので、沖縄県民は絶えず危険に晒されている訳です。

 私は去る昭和四十一年沖縄を訪問した時もその事を強調し「沖縄の真の安全と幸福とは日本軍たると米軍たるとを問わず、一切の軍事基地を置かず、日本国憲法の示す通り完全な非武装県となる以外に求め得ない」ことを屋良知事始め県民に訴えました(米軍ならびに日本政府当局の忌避に触れ早々に退去を命ぜられましたが)。

 ついでながら北方領土問題にも一言触れますと、ソ連邦の歯舞、色丹、択捉、国後等の占領は甚だ理不尽であり、これが返還は是非実現させたいのでありますが、日本が米国と安保条約を結び日本国内に米軍基地を置きかつ年々歳々自衛隊を急増している以上、ソ連邦がおいそれと返還することはまずあるまいと思います。ことに日本が大正の中葉、ソ連の革命なお日の浅い時シベリアに出兵したこと、また昭和十六年夏ソ連が西方においてヒットラーの統率する独軍に侵攻され苦難の最中にあった時、日本陸軍は日ソ中立条約を無視し関東軍特別演習に名を借りて七十万の大軍をソ満国境に集中してソ連を脅した事実は、ますます北方領土の返還を不利にしていると思います。また北方領土の旧日本住民が皆引き揚げて目下一人も残っていないことなども、この問題解決を困難にしておりますから、目的貫徹のためには、まず日本は日本国憲法の示す通り非武装中立の姿勢を正して彼らの疑惑を解き、しかる後に要求すべきものと思います。

 非武装中立国防の問題等に関しましては、本月末札幌地方裁判所で開かれる長沼ミサイル基地設置に関連する自衛隊違憲訴訟の裁判に証人として出廷することになっておりますのでその後、改めて書いて見ようと思います。

 ふたたび台湾問題に戻りましょう。

 昨三月十四日の新聞報道によると、英国政府は本月十三日英中両国の共同コミュニケを発表し、台湾は中華人民共和国の一省であるとの中国の立場を認め、台湾との公式関係を即日断ち切り、中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府と認めるといっております。それなのに日本政府は依然としてモタモタしております。これでは十七年前私が警告した通り、日本は世界の孤児になるのは必然でありましょう。

 過日周恩来総理は台湾解放のため武力行使はしないと言明しましたので、必ず穏便に台湾問題を解決されるものと信じかつ期待しているのでありますが、蒋介石総理が頑張っていると、問題はなかなか難しいのではないでしょうか。蒋介石のいう大陸反攻などあり得る筈もありますまいが、台湾独立の噂もちょくちょく耳にします。昨年夏佐藤政府外務省の一高官が山形市でそれを臭わすような講演をやったともいわれております。蒋介石の嫡男蒋経国氏はかつてソ達に学び、その夫人はソ連人であるとも聞いております。万一ソ連が台湾政府を支持し、米国に代って中国封じ込め政策を進めるようなことがあれば、由々しい大事にならんとも限りません。

 先にも記したように、佐藤総理は「沖縄の返還がなければ戦後は終らぬ」と申しましたが、沖縄の施政権が還っても、戦後が終るどころか、日中関係は依然として法的には戦争中であり、更に日米安保条約を堅持し、その上、四次防、五次防と自衛隊を倍増し、産、軍、政の複合体を作り、軍国主義化の道を辿りつつある現状では、日中十五年戦争が終らぬうちに、またまた戦前に戻るのではないかと心配されます。

 無為無策、台湾問題一つさえ解決し得ずしてもたもたしている佐藤政府は、一日も早く退陣して日中正常化の実を挙げる政府を我々国民の手で作らねばならんと思います。


(つづく)


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