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遠藤三郎中将の”えっけばらない”日中友好(1) [遠藤三郎]

以下の記事が気になった。

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中国新華社が天皇陛下に謝罪求める記事 菅官房長官「礼を失している」と抗議

The Huffington Post  |  執筆者:中野渉

投稿日:201508281617
http://www.huffingtonpost.jp/2015/08/28/emperors-apology_n_8052580.html?utm_hp_ref=japan


中国国営の新華社通信が825日、「昭和天皇が侵略戦争の張本人だった」と主張し、皇位を継承した天皇陛下が謝罪すべきとする記事を配信した。これに対して菅義偉官房長官は28日の記者会見で、「天皇陛下に対する礼を著しく失している」と批判した。

記事内容について、SankeiBizは次の通り報じている。

中国はこれまで安倍晋三首相ら日本の政治家に対し、歴史問題について反省や謝罪を求めることはあったが、天皇陛下に対し直接、謝罪を求めることは異例だ。

記事は、「昭和天皇は中国への侵略戦争と太平洋戦争を発動し、指揮した」と強調した上で、「昭和天皇は亡くなるまで被害国とその国民に謝罪を表明したことがなかった。その皇位継承者は、謝罪で雪解けを、悔いることで信頼を手に入れなければならない」と主張している。

(中国・新華社、天皇陛下に謝罪を要求 「昭和天皇が戦争指揮」SankeiBiz 2015/08/2621:45

この記事は、中国紙・光明日報が26日付で掲載した

これを受けて、菅官房長官は会見で「改善基調にある日中関係にも水を差しかねず、全く好ましくない」と不快感を示した。また岸田文雄外相も28日、閣議後の記者会見で「礼を著しく失しており、これまで表明されてきた中国側の立場とも相いれないものだ」と語った。

日本政府は27日、外務省局長と在北京大使館の公使がそれぞれ中国側に電話で抗議している。

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遠藤三郎中将を思い出し、『日中十五年戦争と私 遠藤三郎——国賊・赤の将軍と人はいう』(日中書林 1974)を引っ張りだした。

 

ここの方言に”えっけばる”というのがあるが「意気張る」からきているのだろか、「気負う」が近い。遠藤三郎中将は、それこそ肩の力を抜いてお互い何でも自然に言い合える”えっけばらない”日中友好の関係を築いた人だった。日本人の中国に対するあるべき態度が見えてくる。


福島屋全景.jpg私には、日本軍が中国で何をやったかについての忘れがたい思い出がある。小学校の頃から中学一年頃まで、夏休みに、祖父と祖母が中心になって何人か連れ立ち、一週間ほど滑川温泉での湯治に何年か付き合わされた、というか、滑川の湯は身体にいいから孫たちが丈夫になるようにという名目だったのだろう。帰る頃母だったり父だったり金を届けに来た。昭和30年代、祖父は明治22年の生れだから、いまの私と同じくらい。自炊で一泊どれくらいだったかわからないが、あの当時は余裕があったとつくづく思う。働いた分そのまま生活に充てられた時代だった。滑川温泉一軒きりの福島屋、いまどうなってるか見たら50年以上前とあまり変わっていない様子。懐かしい。一週間も居るとその間にいろんな人と知り合いになって、混んでくると相部屋にされることもあった。あるとき、布団に入ってから、廊下を挟んだ向いの部屋から酔っ払って大声で話す、子供心には聞くに堪えない中国での自慢話が聴かずとも耳に入って来た。女をどうした、何人殺したという話だった。同年代の男五、六人だったと思う。たしかに「自慢」話だった。この体験は私にとって、「大東亜戦争肯定論」「パール博士の日本無罪論」「日本のお陰でアジア諸国はすべて独立した。」( タイ元首相プラモード氏)をなるほどと思いつつも、いつも気になってならないことだった。

 

遠藤三郎中将の日中友好は、そうした私の思いをまるごと救い上げてくれる。

 

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中国訪問と日中友好運動


 戦前の中国は私は幼年時代日本歴史、東洋史あるいはその他の学課を通じて学んだのみであり、その地を踏んだのも一九二二(大正十一)年陸大学生の時満洲(現東北)に戦史旅行に行ったのと仏国留学の途、上海に寄港して上海、蘇州附近を見物したに過ぎません。大正の末期参謀本部で作戦計画を担当した時は中国は仮想敵国の一つに定められておりましたので、情報部から詳しく中国事情を学びましたが、中国は研究すればする程不可解というのが実情でありました。しかし当時の中国は統一ある独立国家の態をなさず武力を以て日本を侵略するなどとはとても考え得ませんから、私は日本の国防上大なる負担とは思わず、万一事ある場合は要地を占領して居留民を保護すればよい位に軽く考えておりました。

 戦中は既に述べました通リ、幾回となくまた相当永い期間中国に戦いあるいは視察しましたので若干中国事情にも通じているものと自負しておりました。しかし戦後は職を離れ一農民として野にありましたから、中国事情も疎くなりました。

 中国共産党が勢力を得て中華人民共和国を樹立したことは耳にしておりましたが、軍人育ちの私には共産主義の理解も薄くその政権には懐疑的であったことは否定し得ませんでした。それが誠に偶然の機会で中華人民共和国を訪問する機会を得、その結果私の中国観は一変したのであります。

 以下訪問の経緯に就て述べます。

 一九五五(昭和三十)年八月広島の世界平和会議に新中国から初めて参加された中国代表劉寧一氏(中国総工会主席)が会議終了後東京品川のプリンスホテルに滞在中、護憲連合の同志風見章氏等数名と共に訪ねました。当時台湾海峡の戦雲急な時でありましたから私は夫婦喧嘩の例を引き、本問題

には第三者の容喙すべきことではありませんが夫婦喧嘩も出刃包丁を振り廻す時、あるいは火鉢の投げ合いをする時、人道上または近所迷惑となるから止めねばならぬと同様台湾問題は貴国の国内問題でも武力衝突しますと蒋介石の後には米国があり貴方にはソ連邦が付いており、両者共核兵器を持っ

ておりますから、どこ迄エスカレートするか予測し得ません。故に是非お止めを願いたい。お国の古訓に「徳を以て勝つ者は栄え力を以て勝つ者は亡ぶ」とあります。蒋政権とはこの徳を以て競争して下さいと言う様なこと並に近くの泉岳寺の義士の墓のことから昔は敵討ちを美徳とした時代もありましたが、今日敵討ちを認めると戦争は絶えないから、お互い敵討ちは止めようなどと無遠慮、不躾けに話しました所、劉寧一氏は興味深く聴き「日本滞在約一カ月多くの方々から色々の話を承ったが本日の様に実のある話を平易な例で聞いたのは始めてです。婦国したら上司に報告しますが、先生も中

国に来られて直接話して貰いたい」などと言われ私はお世辞位に思っていたのが瓢箪から駒の様にその年の秋外交学会会長張奚若氏の招待により片山哲氏等と中国を訪問する様になったのであります。

 この訪問に於て私は次の三点について特に注意して見て来ました。

 第一、人民一般の顔はどうか。これ迄中国を視察して来た人々から蚊や蝿がいなくなったとか立派な建築物が出来たとか聞いておりましたが、そんなことは共産党と言う強力な政治力で五億の人民を駆使すれば訳のないことである。昔、万里の長城や大運河、阿房宮なども作った民族ではないか。問題は人民大衆が共産党政権に恐れて従っているのかあるいは悦んで働いているのかにある。悦服しておれば顔が明るく畏服しておれば顔が暗い筈である。

 第二、指導的地位にある権力者に堕落の兆がないか。「権力のある所必ず堕落あり」とは東西古今の鉄則である。毛沢東政権も既に六年を経過した。そろそろ堕落する頃ではないのか。

 第三、中国は日本に対し復讐又は侵略の企図があるかないか。これは難しい問題であるが国民教育ならびに軍隊教育の様子を見れば概ね判断し得るであろう。

 以上三点を多少疑問を持って行ったのでありましたが、第一の問題は都市といわず農村といわず、老若男女共々の顔の明るさに驚きました。戦前戦中、没法子の言葉の示す通り笑いを失った様な支那民衆がまるで別人になった様です。これで第一の疑問は解けました。

 第二は幸い私共の案内役に高等法院の高級幹部が当られたので裁判のことを尋ねました所同一犯罪でも共産党員には極めて厳しく一般民衆には寛大であるが罪人は殆んどいないとのことでありました。指導者が官僚主義にならぬ様下放運動を頻繁に実行し常に民衆と共にありますから堕落の兆は見えません。俸給差も生活差も少く高級要人の家庭にも招待されましたが生活は極めて質素なものでありました。これでは堕落する筈はありません。

 第三の問題は到る所に「国際親善」のスローガンが掲げてあり、私の様にかつての侵略国の軍人に対しても、幼稚園児から農村、工湯の妙齢の女性(戦中、戦前は妙齢の女性はよほど親しくなければ顔も見せませんでした)養老院の老人迄例外なく親しく歓迎してくれますし、軍隊の教育を見ると上は司令官から下は一卒に到る迄「侵略戦争は必ず失敗する」という事が徹底しております。毛沢東主席にそのことを話した所「第一の先生は日本軍、第二の先生は米軍」と答えました。

 「世界一強いといわれた日本軍が侵略戦争をやられたから、我々解放軍の様な装備劣弱な軍隊に敗け、世界一装備優秀な米軍も朝鮮に侵略したから我々の義勇軍に敗けたでしょう。これが反面教師です」といわれ私は赤面しました。これは真理であります。兵学的に見ても補給線が長ければ戦力は幾何級数的に減少します。その意味でも日本軍も米軍も中国や朝鮮、ベトナム等で勝てる筈はなかったのです。

 国民が子供の時から国際親善を、軍隊が侵略戦争必敗を徹底的に教育されている国が他を侵略することがありましょうか。私の疑問は全く解けたのです。

 さらに毛主席始め周総理その他の要人にも親しく面接の機会を得ましたが、何れも信頼し得る人物であり毛政権の基礎は確立しているものと確信し、日本は速かにこれと国交を結ぶ必要を感じ、その旨日本政府に進言し国民にも訴えたのでありました。

 また毛沢東主席と会見の際「従来日本から来られる客人の多くは左翼の人であったが、我々は右翼の人にも見て貰いたい。殊に遠藤さんの様な軍人にも見て貰いたい」と希望を述べられた事がきっかけとなり私が北京を離れて帰国の途につく時飛行場で廖承志氏から周総理の伝言として「なるべく早

い機会に軍人団を作って訪問してほしい」との希望があり、旧軍人団の中国訪問が始まったのでありました。

 片山哲氏等と最初に訪問した時の報告は『元軍人の観たる新中国』に又第一、第二回軍人団の訪中記はそれぞれ印刷して報告書を出し、さらに文理書院は之れ等を一括して単行本を出版しておりますから省略致します。

 軍人団の訪中は毎年続行する様に周総理から要望されましたが、弊害も多く認めましたので(封建的狭義の忠君愛国にこり固まり中国に封し優越感の抜け切れない旧軍人は、ダイヤルの錆びついたテレピ同様他の波長の電波は受けつけず、何を見ても何を聞いても悪意に取るのみで礼を欠く者が少く

ありませんでした)二回の訪問だけでお断りしておりましたが、一九六〇年安保闘争の後私が個人的に招待を受け徳地末夫君を伴い第四回目の訪問を致しました際、徳地君の提案により志を同じくする旧軍人のみを以て「日中友好元軍人の会」を組織することになりました。その時の創立宣言は次の通りであります。

   創立宣言 一九六一年八月一五日

 「戦争の罪悪を身をもって体験したわたくしども元軍人は、心から人間の尊厳にめざめ戦争を否定します。

 わたくしどもは、過去の反省に立脚し、戦争放棄と戦力不保持を明示した日本国憲法を遵守し、真に人類の幸福と世界の平和に貢献せんがため、本会設立の趣意書ならびに会則にのっとり、同志相携えてあらゆる戦争準備を阻止し、戦争原因の剪除に努め、進んで近隣諧国とくに中国との友好を進め

んとするものであります。

 ここに終戦の記念日を卜して本会を創立するにあたり、万世のため太平を開く決意のもとに日本の更生を誓った当時を追憶し、戦没の万霊に額き、ご遺族をはじめ戦争の被害者ならびに軍靴で踏みにじった戦場の住民各位に深く遺憾の意を表しつつ右宣言します。」

 軍人主流からは強い妨害もありましたが、同志の団結は堅く会の機関誌等も毎月発行して右宣言の主旨に従い運動を続けており、一昨一九七二年その一部と共に訪中したことは先に述べましたが本年六月も十数名が招待されて訪問致しました。

 百聞は一見に若かずと申します。もし私が一九五五年新中国を見なかったならば恐らく日中友好の運動にこれほど熱心になれなかったかも知れません。幸いにして一昨年九月日中の国交は正常化されました。今後一層人的交流、文化の交流、貿易も盛んになることと思いますが、私は心の交流が最も大切なことと考えております。

遠藤三郎中将と毛沢東.jpg

 私の最初の訪中の動機が何であったにもせよ、一九三一年以来の日本の中国侵略戦争に参加した罪深い私を中国が親しい友人として遇されたばかりでなく、一九五六年訪中の際些細な土産として持参した日本刀(外祖父から私が幼年学校に入った時、お祝いとして譲られた来国光作)に対し、毛主席が自筆の礼状を添えて斎白石の名画を返礼されたり、昨年一九七三年五月号の中国画報には日中国交正常化に関係のあった日本の多彩な人々の写真を四十葉載せておりますが、それを人生スゴロクか広重の東海道五十三次になぞらえますとちょうどその振り出しお江戸日本橋の所に私が毛主席と握手している写真を、そして上り京の三条大橋の所に田中総理と毛主席の握手している写真を最も大きく掲げてありました。そしてその写真は本(一九七四)年大阪ならびに東京晴見に開かれた中国展会場に掲げられました。心中誠に忸怩たるものがあり中国の私に対する深い好意に感謝しております。もし私のやって来たことが日中友好の促進に若干なりとも貢献し得たものとすれば満足です。

 私は中国の将来に大なる期待を持ち、学ぶべき多くのものがあると思い一九五五年最初の訪問の後受けた印象、そして「毛政権の基礎は出来ている。日本は速かに国交を結ぶべし」と訴えたことが誤りでなかったと確信するものでありますが、国交正常化した今日においてもなお中国の将来を疑い警戒心を強めている人も少くない様であります。これ等の人人には一九七三年五月世界的歴史学者トインビー老博士をロンドンの自宅に訪ねた前衆議院議員古井喜実氏の報告をしらせたいと思います。その報告は『現代とトインビー』誌にありますから参考まで転載致します。

 古井氏の質問 「日本は将来どんな理想に向って進むべきか。世界平和の問題や中国の将来についてどのようにお考えですか。」

 トインピー博士の答 「日本の将来にとって特に大事なのは、隣国と平和にいきることです。どの国に対しても平等の関係をもつことであり、支配的になっても従属的になってもいけない。中国は日本にとって自然のパートナーであり隣にこの様なパートナーを持っていることはこの上ない財産です。

 (中略)中国はアヘン戦争以来わが道をゆっくり歩いて来た。その間、日本は西欧文明をとり込んで発展した結果、西欧諸国と同じように行きづまりをきたしました。中国は西欧化から免かれたがためにそのような行きづまりはなく、未来に対して幅広い選択の自由を持っているので、そこに何が生まれるか大いに関心がもてます。道教は物質的富に対して懐疑的であるがこれはまだ中国に残っています。中国は今後新らしいパターンを生むのではないかと注目されます。なお日中関係において憲法第九条はキイファクターです。つまりこれが一番強調したいことです。」

 同年朝日新聞社の論説委員永井道雄氏も同氏をロンドンの私宅に訪ねたインタビュー記事を、朝日新聞に載せておりましたが、内容は右とほとんど同様でありました。


(つづく)

 


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