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遠藤三郎中将の ”えっけばらない” 日中友好(3) [遠藤三郎]

ネットで最高の書き手は誰かと問われれば、私はダントツで「小沢内閣待望論」さん(元「ポスト英米時代」さん)をあげる。その値打ちは日々リアルタイムで読まねばわからない。かりにこれまでの文章が活字化されてそれを読んでも、最大の魅力である「いま読む」ワクワク感は伝わらないだろう。ネットが生んだネット的文豪と思う。その待望論さんの昨日の記事の一つ学生ハンスト・118時間経過、一名脱落、私の全てを賭けて安倍を引き摺り降ろすのシールズからは参加なしが疑問です。」にこうあった


《・・・海賊であり盗賊であったドル詐欺陣営の先祖は、他人を騙して儲ける為ならば何でもありであり、二項対立の演出と両張りは連中のもっとも得意とする所であり、先祖代々、生まれたときから胴元のくそじじいにしてみれば両方に保険を掛けるのは当たり前で、阪神と巨人なら他愛ないですが、連中は善悪や正邪にも採用している訳でそれが天使と悪魔だの唯物と唯心だの資本主義か共産主義かなどで、現在は立憲民主主義と全体主義を戦わせている訳ですが、どちらも連中が作った上で民衆が勝ち取ってきたと思わせてきたものとそうでないものとを二項対立させて、当然に両張りしている訳です。
それじゃー、大衆というか奴隷には上がり目がないジャーン、頑張っても無駄ジャーンとおっちょこちょいが諦めてしまうかもしれませんが、それも早計で、答えは中庸にあり、それをもっとも得意とするのが日本人で、せっかく二項対立詐欺と両張り詐欺を用意しているのに、中間の普通を選択されてしまうと連中の完璧とも思われた罠をすり抜けられ、それでは三張りと考えた筈ですが、そうなると二項対立が必要なくなり、問題が解決して良かったじゃんという事になって、詐欺で利鞘稼ぎをしてきたくそじじいからすると営業妨害な訳です。・・・》


実は、遠藤三郎中将の立ち位置が、ここで言われた、日本人が「もっとも得意とする」ところの「中庸」であることを思ったのだった。佐藤栄作首相が、遠藤さんの親書に対して何の返事もなかったという非礼の裏には、「遠藤三郎は中共に洗脳されている」という思い込みがあったと思われる。それがまさに「二項対立の罠」なのではないか。ずっと遠藤三郎中将の中国との交流に関する文章を読んできて思うのは、「中国のほうが日本よりずっとおとな」ということだ。


と思っていたところで、「『元軍人訪中団』と毛沢東外交の戦略性—中国外交档案から見る軍国主義の清算—」(城山英巳)という論文をたまたま見つけて読むことができた。以下、その抄。

 

近年,中国外交部外交档案館所蔵資料の公開 が進み,50年代に中国政府が日本人招聘政策を 進め,毛沢東や周恩来が,自ら招いた日本人と どういう会話を交わしたか,詳細に分かってきた。ということで、毛沢東は,戦犯にも指定され,戦争責任を有 する「軍国主義者」を中国に招待した。本稿で は抗日戦争で多大な被害を被った中国国民感情 からすれば,一見矛盾する対日政策をなぜ推し 進めたかについて検証するわけだが,毛にとっ てみれば,対日関係正常化を実現するため,日本国内の右派勢力の取り込みが不可欠という判 断があった。本稿では特に外交部外交档案を通 じて毛沢東の対日政策の「戦略性」「大胆性」「現実性」を実証》しようとした論文であり、遠藤元中将との交流を中国側がどう考え、どう行ったかがよくわかる。

 

昭和56年秋、2回目の訪中で毛沢東と会見する。

毛は既に待機しており,一人一人と握手して座るよう勧めた後開口一番こう語り掛けた。/「日本の軍閥がわれわれを進撃したことに感 謝します。そうでなければわれわれはこんにち,北京にたどり着けなかったでしょう。過去にあなたたちはわれわれと戦争したが、中国を再び見に来ることを望んだ元軍人の皆さんを歓 迎します」。毛はさらにユーモアのある言葉を続けた。/ 「あなたたちはわれわれの先生です。感謝し なければならない。あなたたちが戦争し,中国 人民を教育してくれたため、撒かれた砂のよう な中国人民は団結できた」/ 毛は天皇や天皇制にも言及した。「ラオスカンボジアは王国であり,日本は天皇制です。 われわれはこれらを尊重しています。生物学者 である天皇陛下と日本人民によろしくお伝え下 さい」。これは天皇や天皇制に干渉しない方 針を示したものだが,「陛下」と敬称を付けた「よろしくお伝え下さい」との発言は天皇を「元首」ととらえた意識的なものと言える。毛から 日本の軍国主義に対する非難をぶつけられるこ とを覚悟していた遠藤ら元軍人は,毛のユーモ アあふれる言葉を聞いて驚いたのは言うまでも ない。》

 

昭和577月、第2次元 軍人訪中団を率いて3回目の訪中。周恩来首相との会見について。

《ここで周は「われわ れは遠藤先生が再び組織し、第3,4次も継続してもらいたい」と述べた上で,「なぜわ れわれがあなたたちを歓迎するのか」と素朴な 疑問に対する答えを自ら提示しているのだ。/ 「あなたたちはかつて戦争に参加したから戦争の苦しみと残酷さをより理解している。中国に来て戦争の災難を受けて立ち上がった中国人民はどんなに平和を渇望し、経済建設を進めているか見ることができる」と述べ,両国が平和的な友好関係を強化する必要性を訴えた。/ 周恩来が「特に日本の元軍人のわが国訪問が 非常に重要だ」と指摘したのは、かつて対中侵略戦争を推し進めた軍国主義者に対して「反省」を求め,戦争を真に清算しようと目指したためと言える。周は56年に「中日停戦は既に10 年経過したが,戦争状態がいまだ終結せず,国 交は回復していない。これは極めて正常ではない。両国人民の願いに背き,極東の平和にマイナスだ」と表明している。日本で軍国主義者が台頭することを抑え,侵略戦争に関与した元軍人ら「右派」を平和・友好人士に転向させて初めて,過去を清算して日本との国交正常化を 進められると考えたのだ。》

 

そして城山氏は言う。

《 周恩来が「特に日本の元軍人のわが国訪問が 非常に重要だ」と指摘したのは,かつて対中侵略戦争を推し進めた軍国主義者に対して「反省」を求め、戦争を真に清算しようと目指したためと言える。周は56年に「中日停戦は既に10 年経過したが、戦争状態がいまだ終結せず、国 交は回復していない。これは極めて正常ではない。両国人民の願いに背き、極東の平和にマイ ナスだ」と表明している。日本で軍国主義者 が台頭することを抑え,侵略戦争に関与した元軍人ら「右派」を平和・友好人士に転向させて 初めて,過去を清算して日本との国交正常化を 進められると考えたのだ。》(太字強調 めい)

 

中国の姿勢は戦犯問題にもはっきりあらわれた。

《毛沢東も同年1128日に片山哲と会談した際、「近いうちに日本の戦犯抑留者600700名を釈放します」と話し、同席した遠藤らを驚かせた。/その後、561月に検察院の「量刑研究小組」 が958人の戦犯を釈放するという報告を周恩来に書面で提出。周は日本人戦犯を審理する瀋陽特別軍事法廷裁判長が「戦犯に賠償を要求 するのが当然だ」と指摘すると、「賠償はいらない。賠償というのは日本人民が出す金ではない」とたしなめ、戦犯を改造し、「友人」に変える政治的判断の必要性を強調した。》

 

では、《元軍人を招待する中国の戦略は一体,日本政府の対中政策や国交正常化の推進にどれだけの影響を及ぼしたのか》

 

結論は、《現実の日中関係や国交正常化に直接的な影響を及ぼし得なかった。》すなわち、《遠藤は2回にわたった元軍人訪中団失敗の原因を「中国に対する優越感の抜き切らない旧軍人」にあると回顧したが、56年の元軍人訪中団の際に遠藤が過去の侵略戦争に謝罪したところ、中には「国辱」だと抗議した元軍人もいた。共産主義に対する嫌悪感もあり、中国が期待したように親台湾派の元軍人を消滅させ親中派一本にまとめることはできなかった。また中国は元戦犯に対しても帰国の前に「中国人民の平和建設」の様子を参観させた。中国は、中国の意向を伝達する「先兵」として日本国内での対中感情改善に期待したのだが、元軍人の亀裂が深刻化する中で、中国の思惑と戦略は挫折し、国交正常化は72年まで実現しなかったのである。》

 

実り得られなかった主な理由は日本側にあることを認めねばならない。日本は中国の「友好の意思」を素直に受け容れることができなかった。なぜなら日本は、まさに「二項対立の罠」に絡めとられていた。二項対立とは「台湾vs中共」であり「資本主義vs社会(共産)主義」であり「英米vs中露」である。ここでは重光葵外相が「英米重視」の立場から足を引っ張ることになった。この「二項対立の罠」は今も日本人を縛り付けている。その縛りが日中友好を妨げているどころか、戦争へと引きずり込むための罠であることに気づかねばならない。遠藤三郎元中将は、日本の軍隊の最中枢にありつつ、現場の酸いも甘いも知り尽くした上で、この罠から自由だった、と私には見える。多分に置賜という風土が育む生来の気質もおおいにある。同郷人として誇らしい。そうした遠藤三郎という人物は、中国首脳にとって真に信頼に足る人物だった。


実は下にあげる文を読みつつたしかに、中国による「懐柔」を思った。「遠藤中将は中国に洗脳された」という判断が多く支配的であったことは否めない。しかし、自分が「二項対立の罠」に嵌っていないかどうかをあらためて反省しつつ、実り少なかった当時の「日中友好」に思いを致すことも大切なのではないか。ここまでの作業を通し、正直私自身の中でかなり認識の変化がおこっている。


以下は、『日中十五年戦争と私 遠藤三郎』より。


   *   *   *   *   *

 

五、 十二年ぶりの中国 (一九七二年七月十五日稿)


 私は敗戦後一九五五年、元日本軍人として始めて中国を訪問した際、毛沢東氏の要望もあり翌五六年と五七年の二回に亙り軍人団を組織して中国を訪問しました。人選のまずさから中国の好意を裏切り国辱を晒す様なこともあり、私も少々いや気がさし、周総理に今後軍人団の訪中はやめますと言ったのでありますが、周総理からは中国は広いので一回や二回の参観ではわかる筈がないから今後も続ける様にと申されました。然しその後の軍人団の訪問は中絶しておりました。

 文化革命後周総理から「中国の状況も変ったから見に来ないか」との伝言を社会党の岡田春夫氏を通じて頂戴したこともありましたが、日本政府の対中国政策があまりにも非礼であり、日本国民の一人として誇りをもって面会出来なかったのでお断りしておきました。昨年九月王国権氏が松村謙三氏の葬儀に参列のため来られた時も忙しい日程中特に時間を割いて私に会見を求められ、周総理からの訪中勧誘の伝言を聞きましたが、公人でもない一介の老兵が訪中しても迷惑をかけるだけと思い、かつ昨夏ニクソン米大紋鎖の訪中の企図が伝えられてから急に訪中ブームが盛んになったのに対し、私の持って生れた反骨精神が邪魔して、王国権氏には「いずれ機会があれば物故された旧知諸先生の墓参とお世話になった諸先生にお別れの挨拶に参上しましょう」とお答えして置きました。まさかこんなに早く招待電報が来るとは思ってもいなかったのに、本年四月下旬突然中日友好協会から、荊妻および下田、後藤、内田等を同伴、今年の五月中下旬に来訪する様に、との電報が参りました。

 右三名は共に私共の組織している日中友好元軍人の会のメンバーであり、ことに下田、後藤は当時広州の交易会に出場しておった時でもあり彼等が勝手に中国側と折衝して定めたのではないかとの疑問を持ちましたので直ちに彼等に実情を確めた所、彼らから、中国は私の気持をよく理解しているが、過去、現在の私の反戦、反軍国主義の業績を高く評価しており、この際休養を兼ねて訪中してほしい。他人行儀の遠慮は全く無用であり時候も暑さに向うこと故、なるべく早く荊妻および随員五、六名同伴して文革後の各地を参観されたしとの希望であり、これ以上の遠慮は却って失礼になるであろう、との返電が来ました。いくらか半信半疑の点もあり少少気が重かったが、私は次の様に受諾の返信を航空便で中日友好協会に送りました。

 「御芳情誠に恭く、御好意に甘え日本政府の渡航許可を得次第なるべく早く訪問させて頂きます。但し老妻は健康上御遠慮欲し度く、また老生も老齢のことでもあり貴国の御成功は夙に信じて居る所である一方、弊国の事情は老生の代表する憲法擁護国民連合が目下老生の永い留守を許しませんので御示しのIケ月の見学は同伴の若い同志に譲り、老生は物故された陳毅先生、謝南光先生、李徳全先生、蔡廷カイ(金扁に皆)先生等の御墓を参拝欲しかつ旧知諸先生の老生に寄せられた御厚誼に御礼の言葉と、老生が貴国に対し何等贖罪の実を挙げ得なかった御詫びの言葉を申し上げ御別れの挨捗をさせて頂くに止め、一週間ないし十日間で帰国欲し度く、老生の我儘を御許し下さる様御願い申上げます。」

 随員には広州で直接交渉に当っていた下田昇、後藤節郎(両名共一九五六、七年軍人団訪中の際の世話人でありかつ五七年には私と共に訪中した者)の外元海軍兵学校出身の香取千昭氏(下田、後藤と共に交易会出席のため広州に在り、日中友好元軍人の会の熱心なるメンバーの一人で、アルパニア訪問の経験を持っている)、内田哲也氏(陸士出身、中国との貿易関係の会社に勤めているがやはり日中友好元軍人の会の熱心なメンバーの一人であり、今迄一度も日本を離れたことがないので純真な新しい目で中国を見るのも意義があると認めた)および岡林竜之氏(私が航空士官学校長時代の候補生で同じく日中友好元軍人の会の熱心なメンバーの一人であり、かつ中国訪問は始めてであるが最近印度、ソ連、東欧諸国および西独を視察して来たので、その目で中国を見るのも心 有益と思った)の五名を決定致しました。

 渡航手続きも一九五六、七年旧軍人団の渡航時の様な妨害や抵抗もなく順調に進み、六月二日完了しましたが私の心の隅には何となく招かれざる客ではなかろうかとの懸念が残っていました。しかし出発直前、中国から帰国された自民党の古井代議士から「周総理が持っている」との電話があり、当初の疑いも解け六月六日朝晴々した気持で一行六名が羽田を出発することが出来ました。以下順を追って旅行中の見聞の概要を記述して見ましょう。

 六月六日、快晴、午後四時二十五分香港着、ゴールデングートホテルに投宿(香港は夏時開放日本と同一時計)。

 六月七日、快晴、午前、四十日間中国を視察して帰国の途にあるという元共同通信社の論説委員山田礼三氏夫妻ホテルに来訪、中国事情を話された。日本の侵略戦争の傷跡はなお深く、直接被害者の怨恨を無視してはいけないとの忠言があった。

 午後、中国旅行社の服務員の案内で市内見物、十数年前に見た香港は、四十七年前私が仏国に行く途中立寄った時の印象、即ち大英帝国の殷盛が反映して華かな港街というイメージが消えて、斜陽の町、生存競争に疲れ、辣々しい不健康で罪悪の巣窟の様に見えたが今回はどうしたことかその悪印象は消えて人の顔もそれほど辣々しく見えず生活にもゆとりが出て来た様で絶望的不健康さも目につかず、建築は上へ上ヘと延びなかなか殷盛で東京の延長の様な錯覚さえ感じました。日本料亭、金田中などは日本服のウエートレスも沢山いるのでますますその感を深くしました。所が一カ月に亙る中国内の旅行を了えて七月六日帰途再び香港に入ると、私の感覚は一変していました。中国人の自信と希望に充ちた落着きと奥床しいほほえみ、化粧もせず質素ではあるが清潔な健康美、他人に奉仕することを当然とする巧まない自然の親切に比べると香港は正に雲泥の差です。やはり香港は生存競争に敗けまいとするあせり、落着きがない雑沓、けばけばしい化粧や広告、ホテルやレストラン等の物欲し気なサービスやお世辞、社会主義社会と資本主義社会との相違をまざまざと見せつけられた様な気がしました。

 翻って日本を顧みる時、戦後チップの習慣が無くなったことは幸いであったが、政財界等の黒い霧問題は学界にまで波及し歯止めのない物価の高騰、毒々しい女性の化粧、ピエロの様な裾太のパンタロン、太股丸出しのミニスカートやホットパンツ、性別がわからぬ様な男子青年の長髪等は中国の清潔な社会、安定した物価の青年男女の清潔さに比し感慨なきを得ません。

 六月八日、快晴、九時二十分香港駅発、十一時羅湖駅着、国境通過、時計を一時間遅らす。中日友好協会の荘氏に迎えられ昼食の後午後一時深洲発。同行の岡林君は国境通過の途端、あまり清潔で煙草の吸殻が捨てられずに困ったと言っておった。

 午後二時半広州駅着、革命委員会副主任黄業氏等に迎えられ迎賓館に投宿。午後四時から商品交易会館を見学、同夜は黄氏主催の歓迎レセプションあり。

 六月九日、快晴、午前郊外の聾唖学校見学、途中の道路は中央が車道、両側に自転車道と人道とが並んで区別してあり街路樹が青々と緑漓る様に繁り、その樹陰を自転車の人も徒歩の人も何の不安もなく悠々と通っていて人間優先の実が見られる。

 聾唖学校では児童が安心しきって針の治療を受けている状況、発声の練習、演芸等を参観したが、身体障害者特有の暗さはなく、聾唖を不治の病とせず治療可能と見ている点に感心した。午後蘭を数万株も収集してある公園を見物したが三十九度の暑さにはいささか閉口、四時三十分発の飛行機で広州発、八時三十分北京飛行場に着陸する。機内で、「一般乗客に先立って遠藤先生一行が先に降りて下さい」とのアナウンスがあり乗客をかきわけて先に降りて見ると、タラップの前に旧知の王国権氏始め王暁雲氏、孫平化氏、肖向前氏、金蘇城氏、金黎氏その他中国人ならびに徳地君夫妻、小岩氏その他在京の日本の友人等多数整列して迎えられたのには恐縮する。更に空港ピルのロビーで王国権氏から鄭重な歓迎の辞があり、私から簡単に一行を紹介して謝辞を述べ、王暁雲氏が旅舎、北京ホテルまで私と同車して案内された。車は豪勢な高級車「紅旗」号である。(「紅旗」は貴賓用であり、それが私の滞在間専用にされた。)

 六月十日、晴、三八度、酷暑午前企業氏の案内で首都病院に行き健康診断を受けた。血圧は170100、心電図、レントゲン写真等もとったが結果は合議の上明後日判定する由、他の一行は全国美術作品展の見学に行った。

 午後は宿舎で中国側と日本の軍国主義化問題に関し座談夜は王国権氏主催(中日友好協会会長旅承志氏同席)の歓迎レセプションがあり、王国権氏から私に対する過分の賛辞を含めた歓迎の辞があった。私は次の如くお礼の言葉を述べた。

 「ただいま私共に対し過分のお褒めのお言葉がありました。誠に光栄に存じますと共に内心忸怩たるものがあります。

 日本が過去千数百年の永い間、御国から蒙った恩恵の歴史を忘れ二十世紀の第二・四半紀に於て御国に対し侵略戦争を敢てし、償い得ない数々の罪悪を重ねたことを思う時、それに直接参加した私の様な老兵は素より、日本政府を含む日本全国民が深くその罪を反省し、陳謝し、出来る限りの贖罪に努め、再びあの様な過ちを繰り返えさぬ様努めるのは当然すぎる程当然のことと思うのであります。

 私は一九五五年戦後初めて貴国を訪問して貴国が毛沢東先生指導の下に立派に国造りをしておられる姿を拝見し、『中華人民共和国の基礎が確立している。日本は速かに中華人民共和国と国交を恢復しなければ東亜の孤児となるであろう』と日本政府に警告し、日本国民にも訴えたのでありますが、日本政府は歯牙にもかけず、一般国民にもあまり反響がなく却って右翼団体特に旧軍人の主流からは反感を買い、迫害を蒙ったに過ぎませんでした。

 ただ毛沢東先生が私に『日本の軍人にも参観して貰いたい』と申され、そして私が帰国の途につく際北京飛行場に見送りに来られた廖承志先生から『なるべく早い機会に軍人団を作って参観する様に』との周総理の伝言を受けた事を発表したことは、日本国内に大きな波紋を呼びました。ここに見える徳地君や同行して来た下田君、後藤君ならびに目下東京に残っている多田君等が中心となり世話入会を組織して軍人団の訪中準備に取り掛り、翌五六年三月外交学会長張契若先生から正式に招待電報を頂戴し日本政府に渡航の申請をしましたが政府ならびにその与党、および読売新聞等の悪辣な妨害に会いなかなか許可されませんでしたが、これらと戦い障碍を克服して旧軍人団の訪中は五六年、五七年の二回に亙っで実現したのであります。しかし人選の不手際から十分の成果を挙げることが出来ませんでした。そのため周総理からのお誘いにも拘らず旧軍入団の訪中は二回で中絶しておりましたが、一九六〇年安保条約反対の闘争に敗れた後、私と徳地君は軍人団とは別個に招待を受け貴国訪問中徳地君と種々話し合った結果、帰国後心の合った旧軍人同志と国く相結び『日本国憲法を守りあらゆる戦争準備に反対し中国との友好を進める』ことを目的として作ったのが現在の日中友好元軍人の会であります。

 発会の当時は旧軍人の主流に大きな衝撃を与えましたが、反面その妨害も甚しく予期の様に発展し得なかったことは誠に遺憾なことでありました。このことに心労を重ねた徳地君は遂に健康を害して倒れましたが、お国の温いお招きにより貴国に参り治療を重ねた結果本夕見られる通り健康を恢復し得ましたことは、私共をお招き下さいました御芳情と共に私共の衷心感激している所であります。

 さて私共は今回、中日友好協会のお招きにより去る六月六日羽田を出発し香港に二泊、広州に一泊して昨九日夕御当地に到着したばかりであり、見学も全く序のロに過ぎませんが、十二年振りに深川から広州に到る農村り状況を車窓から眺めますと、その整頓された農地は全く昔日の比ではありません。また広州に到着してハ日午後交易会場を参観しましたが、産業面の進歩もまた目を見はらすものがあり、十二年の歳月の隔りをまざまざと感じた次第であります。

 しかるに昨夕北京飛行揚に到着して王国権先生を始め諸先生の温いお出迎えを受けたのでありますが、王国権先生や王暁雲先生の様に昨年東京でお目にかかった先生方は勿論でありますが、久しくお目にかからなかった孫平化先生、肖向前先生、金蘇城先生、金黎先生等も少しも昔と変りなく若々しくお元気にしかも温い心でお迎え下さいましたので全く歳月の隔りを感じ得ず、あたかも郷里に掃って親兄弟に迎えられる様な親しさを感じたのであります。

 元来礼に習わぬ野人の私共故、滞在間何かと失礼、無遠慮のこともあろうかと存じますが、それは親しみの表われとして御寛容下さる様お願い致します。

 つぎに広州で感じたことを申し添えさせて頂きます。昨日聾唖学校を参観しましたが、その途中の街路樹は青々と繁り車道の両側には広い歩道があり、自転車の人も徒歩の人も悠悠と木陰を気持よさそうに通っております。これを日本の道路に比較しますと、日本では街路樹は少く、あっても公害のため気息奄々枯れかけており、かつ私の住む田舎でさえ車が輻輳し、渋滞し、私が自転車で郵便物を出しに行くのさえ命がけであります。これは何を意味するでありましょうか。

 また聾唖学校の児童を見ますと身体障害者としての暗い影は少しもなく、にこやかに明るく学び、舞踊さえ元気に見せてくれました。見学後同行の岡林君が一葉の写真を出し『私はこの写真と共に参観している』と申します。その写真は岡林君の実子の写真であり、その子は幼時大メーカーの製造販売した粉乳で育てられたがその毒害のため殆んど失明したのであります。両親の愛に育くまれ大学の卒業も目の前に迫りました本年二月、将来就職の希望もなく自ら生命を断った哀れな青年であったのであります。聾唖を不治の病とせず治療に成功して将来に希望を与えておられる貴国、大資本家の利益のた『めには公害も甘く見、身体障害者に対する福祉の施設さえ不十分な日本の現状と比較する時感慨なきを得ないのであります。

 私は考えます。精神革命の伴わない社会革命は成功せず、精神文化を忘れた資本主義物質文明は人心を荒廃させ、自然を破壊するものであり、このまま放置したならば人類の滅亡も地球の死滅も決して痴人のたわごとではないと思います。私はお国こそ精神革命を基本として社会革命を実施せられ精神文明を基調として物質文明を進めておられるものであり、これによってこそ人類の真の幸福も自然の保護も期待し得るものであり、私共は素より世界人類全般が学んで以て範とせねばならぬものと思います。この意味におきまして偉大なる指導者毛沢東先生の御長寿と諸先生の御健康とそして貴国の限りなき発展とを祈念し度く、ここに御主人側の盃を拝借して乾盃したいと思います。」


 六月十一日、日曜日、晴、酷暑、王暁雲氏、金蘇城氏、金黎氏等の案内にて頤和園に遊び、昆明湖に舟を浮べた。夕刻天安門広場を過ぐ。燕京の名に叛かず燕が乱舞していた。夜はニュース映画。

 六月十二日、晴、室内三一度、屋外三四度、再び首都病院に行き血液および尿の検査、血圧180100、宿舎にて日本の軍国主義化に関し座談会を開いたが、若い連中の自由討議として、廖承志氏、王国権氏および予は臨席しない。

 六月十三日、晴、午後雷雨あり涼。午前病院で針麻酔による外科手術見学、午後観映(日本の『軍閥』及び『海軍』)。旧軍に対する郷愁を起させるためか軍国主義を鼓吹するためか、中国側が問題視するのも止むを得なかろう。

 


自衛論をめぐって——周総理との対談

 

遠藤三郎中将と周恩来首相.jpg

 六月十四日、夜来の雷雨止み清涼。同行者は午前中学校参観、予は健康診断のため首都病院に行く。漢方の老医が極めて懇切丁寧に診断、血圧170100、血液、尿共、異常なし。

 午後四時から国民大会堂にて周総理と会見した。一九五五年、六年、七年と既に三回も会見しているので全く兄弟の様な感じ。七十歳を越した人とは思えぬ元気さではあるが何せ多忙な人だからあまり邪魔しても気の毒と思い、一時間位で切り上げようとしたら夕食も準備したからゆっくりと勧められ、つい三時間以上も懇談かつ食事を共にした。私共のために貴重な時間を三時間以上も割愛されたことは感謝に堪えない。

 話は多岐に亙り冗談も飛び、全く打ち解けたものであったが、その主要なものは次の通りである。       

 総理「日本が真の独立国家になった場合は自衛力を持たれるのは当然であり、その際は中日間に相互不可侵条約を結ぶ事も可能であろう。しかし今日の状態で日本が四次防、五次防と軍備を増強し軍国主義化することには中国は無関心でいるわけには行かない。中、日、米、ソの不可侵条約は不可能であろう」

 遠藤「総理のいわれることは原則として理解出来ます。しかし自衛力を軍備と解する場合は私は反対であり、従来から私は日本の軍備国防に反対して来ました。日本は避け得ない国の構造上軍備国防は不可能であり却って害があります。(以下前戦争の時の被爆脆弱性を数字を挙げて説明し、更に現在は石油の増加およびその製品蓄積のため一層脆弱になったことを説明)——日本国憲法も軍隊の保持を禁じておりその制憲議会では当時の総理吉田茂氏は『古来、自衛の名の下に侵略戦争をしております。この憲法は自衛のためにも軍隊は持たないのです』と説明しています。そこで私は総理にお願いがあります。総理が日本の客人に話される時自衛力を則軍備と解されない様にして頂きたいのです。日本の軍備論者は総理のいわれる自衛力をすぐ軍備と解し、あたかも錦の御旗か鬼の首でも取ったかの様に目本に帰って軍備論を吹聴し、また反対に軍備反対論者でもあまり非武装に自信のない人は意気消沈して帰ります。釈迦も人によって法を説けといいました。総理もその点に御留意を願います」

 総理は憲法のことは初耳の様子。

 総理「遠藤先生の意見は理解出来るが、国民を説得することは困難であろう」

 遠藤「困難は困難です。しかし困難でもやりとげます。幸い近来世論調査によるとその理解者は増加の傾向にあります。去る八日深洲で国境通過の際偶然会った中国訪問のいすず会社社長にもその話をしたらよく理解した様でした」

 総理「それは口で同意して心で反対しているのではありませんか。そういう人も多いですから。遠藤先生は私よりも左になった様ですね」

 とジョークを飛ばして大笑いしました。総理は恐らく一九五五年私が毛主席に「毛主席は私を超右翼の軍人と見ておられるらしいが、私は終戦後戦犯容疑者として巣鴨米軍拘置所に入った時、米軍は私に左右ペアの靴を与えずに右のもののみ二つ与えました。靴が大きいので足は入りましたが右の靴の爪先は内側、即ち左に向いております。それを両足に履くと両足とも足先は左に向きますから真すぐに歩こうとしても自然に左に行ってしまいます。私は案外左になっているかも知れません」と言って互いに笑い合ったことを思い出されたのかも知れません。

 その他月刊誌『軍事研究』本年五月号に載った斎藤忠氏の「台湾は日本の国防上重要である」という論文に対する話も出たがそれには予め書類で返答していたので深入りせず、総理は同意の意を表わしました。(この問題は古井代鍍士に問われ古井氏はその論文を見ていないので数日後私に周総理から質問があったと電話で伝えられたものです。)

 私の返答は次の通りです。

「本論文の意図する所は台湾政府を温存し、中華人民共和国の領土に従属することを妨害し偽独立国として日本の勢力範囲に置かんとする悪意に満ちた陰謀的、こじつけ論と思う。但しその説く所は俗耳に入り易くことに末項の『台湾がソ連邦の支配下に置かれることは日本の運命にとって危険である』との説明は肯定し得る。それ故にこそ私は昨年七月ニクソン大統領の貴国訪問声明直後ならびに国連総会でアルバニア案通過直後、二回に亙り佐藤総理に対し『蒋介石を訪ね、誠意を尽して北京政府に和解を求める様勧告し、それを容れない場合は正々堂々日台条約の廃棄を通告せよ』と勧告した所以である」             

 六月十五日、快晴、解放軍総政治部主任李徳生氏が自ら案内、北京の東南百三十キロにある楊村の一九六師団見学、師団挙げての暖い歓待を受けた。

 

陳毅将軍の思い出

 

 六月十六日、晴後曇、午前陳毅元外交部長、李徳全元紅十字会会長、蔡廷錯、謝南光四氏の墓に花環を捧げ冥福を祈った。王国権氏および陳毅氏の令息が先に到着して立ち合われたので、私から次の様な思い出話をしました所、王国権氏も遺族に代って涙ぐみ、胸をつまらせて感謝の挨拶をされた。

 「一九五五年単独でお目にかかった時、前日片山元総理が周総理に対し日本の戦犯抑留者の早期釈放をお願いした所、周総理は「それは私の国の主権の問題であるから何人の容喙も許さぬ』ときっぱり断られた直後でありますから、私はこの問題を繰り返し哀願する意志はありませんでしたが、『日中の友好関係を進める見地から本問題を見る時、日本人は外地に抑留されていた日本軍人の戦犯者はことごとく内地に帰還したが、中国に抑留された戦犯者のみが釈放されていないという形だけを見ます。日中両国間には、まだ法理的には戦争が終っていないから当然のことではあるが、日本人はこれを法理的または国際慣例的には見ず、ただ中国は酷だとみて日中友好関係の促進を妨害しております。もし貴国が法理論や国際慣例を破り一挙に多数の戦犯者を釈放されたならば日本国民は感受性が強いから感激して日中友好の促進に寄与する所大でありましょう』と申した所、元帥は『よくわかった。私は副総理として責任ある返事は出来ないが考えておく』と申され、それから僅か一週間後毛主席と会見した時、毛主席は冒頭に自ら進んで『近いうちに日本の戦犯抑留者六、七百名を釈放します。但しせっかく中国におること故一ヵ月位中国各地を見学させた後に帰国させます』と話され私共を驚かせたのでありますが、事実は千名に余る者が言葉通り中国各地を見学して帰国しました。その陰には元帥のお骨折りのあったであろうことは疑いの余地がありません。

 また一九五七年第二次軍人団が北京に参りました所、夏の暑い最中でしたが病気静養のため転地しておられた元帥がわざわざ帰京されて私共を厚く歓待されました。私は元帥の痛痛しい姿を見て胸の痛む思いがして早く休養される様お勧めしたが『友あり遠方より来たるのだ、歓待するのが当然』といって、おそくまで北京飯店の屋上で私と隣り合せの椅子に坐って観映して話されたこともありました。また一九六〇年訪問の際は御多忙中の時間を割いて会談の機会を作って下さいましたが、この時は『元軍人の友人を迎えるのだから今日は軍服を着た』と言って私の体を抱える様に親しく迎えられ『遠藤君は正直過ぎると聞いているがそれでは随分損をするだろう』など話しかけられ、私は『馬鹿正直故随分ペテンにかかったこともありますが、私をペテンに掛けた者は再び私の前に大きな顔をして現れ得なくなるから結局ペテンに掛った私の方の勝利と思っています』と答えて笑い合ったこともありました。思い出は尽きませんが今は幽明所を換えました。異国の友人に過ぎない私ですら誠に淋しいのです。まして元帥の御遺族はもとより革命戦争以来苦楽を共にし、茨の道を歩まれました諸先生の御心中は察するに余りあります。」

 六月十七日、晴、酷暑。北京郊外の石油コンビナート見学。公害防止の配慮には学ぶべきものが多かったが、特に廃液の処理には採算を無視しても無害の水にする努力には心を打たれた。午後天安門広場の人民英雄の碑に花環を捧げた後廖承志氏の私宅訪問。大官の住居としては誠に質素なものであった。

 夜は観映(『日本海海戦』)

 六月十八日、曇時々細雨。

 故宮博物館に出土品見学、数千年前の中国の文化を偲ぶ。次いで地下鉄、地下壕等見学。午後座談会、廖承志氏、王国権氏も同席。日本の軍国主義化問題に開しては従来、既に軍国化していると見る者、軍国化しつつありと見る者、軍国化の恐れありと見るもの、軍国化の恐れなしと見る者等区々あるが、軍国主義そのものにも定義が明らかでない故、この日私は私案として『軍事力を背景とした政治、経済、外交、教育、司法』ということに仮定—それぞれ日本の現状を分析して検討しかつ、私は自衛隊の性格上の危険性や、文民優位、日米安保の事前協議の無意義等について意見を述べた。夜は獣承志氏夫妻、王国権氏夫妻始め北京でお世話になった方々ならびに在京日本人を招待してお別れのパーティを開く、その時の挨拶は次の通り。

 「私ども日中友好元軍人の会の六名が中日友好協会のお招きにより去る九日御当地に到着以来周総理を始め廖承志先生、王国権先生その他の諸先生並びに友人の方々が私どもに寄せられた御温情は到底言葉には表し得ません。お陰を持ちまして連日大変愉快にかつ有益な見学と話し合いの機会を得まして、啓蒙される所極めて多かったことを嬉しく思います。

 ことに目下世界の問題になっている公害筒題、人類の生存地球の生命さえ危ぶまれているこの問題が御国におきましては見事に解決されつつあるのを拝見しましたことは私どもの驚きでありました。それは全く毛沢東先生指導の下に政治、経済、軍事、外交、教育等あらゆる面に於て真に人民に奉仕する精神に徹しておられる結果と存じ衷心敬意を表するものであります。

 明早朝、同行の一人岡林君がやむを得ない用務のため帰国の途につき、その他の者も両三日中に地方の見学のため当地を離れ、そのまま帰国致しますので諸先生をお訪ねしてお別れの御挨拶を申し上ぐべきですが、不案内のため大変わがまま勝手で失礼と存じましたが、本夕席を設けて御挨拶の機会を作りました所、せっかくの日曜日にも拘らず御出席下さいまして誠に恭く存じます。私にとりましては前回の訪問から今回まで十二年の歳月が流れましたが、その間御国の建設、産業等の発達進歩は日を見張るものがあり、まざまざと時の隔りを感ぜしめ、私もまた御覧の通りの老骨となりましたが、旧知諸先生の御友情は全く時の隔りを覚えさせず、しかも昔の通り若々しく活躍しておられ、また新しい友人の方々は十年の知己の様に親しくして下さいました。

 この温い御友情は真に私どもの胸に迫る思いが致します。この御友情は今後も永久に続けて頂きたく、ここに感謝の誠を込めて『再見』を文字通り『再見』となる様念願し『再見』の挨捗と致します。そして偉大なる指導者毛主席の御長寿と周総理始め諸先生ならびに友人の方々の御健康と貴国の御繁栄と日中友好の促進とを祈念して乾盃致したいと思います。なお最後に私どもの同志徳地君一家が引き続き残留することと存じますので、宜しく御世話下さいます様御願い致します。」

 六月十九日、夜来の雨霽れて晴。

 岡林君の帰国を空港に見送った後国際貿促、放送局に挨拶、徳地君一家のアパートに招待され日本食の饗応を受けた。住居は広い応接間、食堂、寝室二、書斎、浴場等完備、東京では少くも五万円以上の家賃でなければ住めない住宅、それが家賃も水道料金も電気料金も只とのこと、しかも息女は既に学費なしで医大を卒業している。中国側の優遇振りには驚かざるを得ない。

 午後中日友好協会に離京の挨拶に行った所、王国権氏は執務を中止して長時間私どもを停めて懇談された。

 六月二十日、晴、八達嶺、十三陵、十三陵ダム等見学。十三陵で地下三十六米の皇帝の墓跡に入った時半袖のシャツ一枚では寒さを感じ私共が寒い寒いなどと話し合っていた所、同所の服務員の青年女子が私に毛皮の外套を脱いで貸そうとした。極めて自然に出た老人をいたわる親切な態度には感心

した。(その後の旅行中も案内説明役の女子青年服務員等が私が坂道を歩いたり階段の上り下りする時、巧まない自然な態度で私の手を取りまたは腋をかかえて扶けてくれるのには少々テレざるを得ない程でした。)

 六月二十一日、曇、休養、夕食は我々の接待係であった王音氏主催の会食で極めてなごやかに北京に於ける最後の晩餐を取った。

 夜、王国権氏わざわざ私の室に来られ長時間懇談、別れを惜んだ。

 

北京に別れを告げる

 

 六月二十二日晴、早朝、空港に行って見送りの友人と共に賑かに朝食。王国権氏始め廖承志夫人、王暁雲氏、孫平化氏、肖向前氏(孫、肖両氏は目下日本で活躍中)その他多数の中日両国の友人に見送られ八時出発、太原で給油、十一時半延安着、延安地区革命委員会、則主任梁俊栄氏、延安市革命委員会則主任畢世昌氏等に迎えられ延安賓館に投宿、医師が直ちに血圧を計ったが正常。午後記念館見学。

 六月二十三日、晴、後雨

 早朝医師来り血圧測定170100、午前、毛沢東氏の革命当時の旧跡を、午後は解放戦当時の居住跡を訪ね、当時の苦心を偲ぶ。

 六月二十四日、延安、濃霧後晴、河安、晴穀雨あり。

 梁俊栄氏の招宴に臨んだ後その見送りを受け午後零時四十分延安飛行場発。午後一時二十分西安着、市革命委員会則主任布広仁氏等に迎えられ人民大厦に投宿、休憩の後、蒋介石が昭和十一年末、張学良の軍隊のため捕えられた旧跡清華池を訪ねる。昔、揚貴妃にもまつわる有名な温泉地である。二回入湯して疲労を休めた。

 六月二十五日、晴。昨夜は雨のため爽涼、大雁塔や碑林、博物館等を訪ね随、唐時代日本留学生の勉学の跡を偲ぶ。夜は陝西省革命委員会則主任布達平氏の招宴。

 六月二十六日、晴。昨日の過労のためか血圧早朝200110、朝食後215120、多数要人の見送りを受け七時四十分西安飛行場発、九時三十分鄭州着、待機しておった医師の診断を受けた所血圧220130、南京行きの我等の飛行機には他の乗客もおったがそれ等の乗客には了解を得たということで、飛行機を飛行場に待機させたまま西安賓館にて革命委員会副主任主催の招宴に臨んだ後、医師の熱心なる治療を受けた。両腕に針を打ち、腰椎に注射し、頭部を按摩する等した結果、午後二時血圧170100とほとんど正常になったので二時三十分出発、四時三十分南京飛行場についた。医師の献身的努力には真に頭が下った。南京飯店投宿後、直ちに女医の診断、血圧170/100、夜は同市革命委員会副主任劉其章氏の招宴。

 六月二十七日、昨夜の雷雨は止んだが時々雨。

 午前南京大橋見学。一九五七年武漢大橋を見学した時も古来揚子江の架橋は不可能とされ特にその橋脚に問題があった。よく自力を以てそれを完成し世を驚かせたものであったが南京大橋は更に雄大。中国の土木技術の進歩は見るべきものがあり特に驚くべきことは本工事中の犠牲者は僅かに三名(武漢大橋の時は五名)とのことだ。しかし工事主任はそれでも申訳ないという様な口振りであった。作業に従事した総人員は常時七千名、志願して手伝う者は日によっては五万人を越したとのことで、それが数年続いた事ゆえ作業延人日の計算は難しいとのことであった。中国が如何に人命尊重に力を入れているかはこれを見ても明瞭であろう。周総理との会談の時総理は私に「日本では我が国の核爆発実験による放射障害を心配している様だが、放射能が日本に届く前に四億の中国人民の頭の上を通過するのだからあまり心配されんでもよかろう」といった意味もわかる様な気がした。

 午後昭和十二年末の日本軍による南京虐殺事件の生き残り二人を宿舎に招いてその証言を聴きかつ現場を視察した。語りつつ時々涙して声の聞き取れぬこともあった。我々は直接手を下した訳ではないが、日本軍人の一人として法廷に立たされた様な気持であった。

 「許し得ても忘れ得ず」ではないか。六月七日香港での共同通信の山田氏の話もうなずける。

 六月二十八日、午前職雨、午後も時々雨。

 午前小学校、午後水銀スイッチ硝子工場見学。

 午後雨花台の革命記念碑に献花。

 六月二十九日、梅雨模様。昨夜庭内の蛙の鳴声騒々しく安眠し得ず、血圧180100

 午前民兵、紅衛兵、紅小兵の武技見学、見事なり。

 午後中山陵、孝陵等を訪ね、緑深い紫金山麓の道をドライブ。

 夜宿舎に於て座談会、予が主宰して意見の交換をした。予は次の問題に絞って討論したが、結局中国の実情を正しく国民に伝え啓蒙の必要があるという結論を得た。

 日本が中国を恐れまたは嫌う理由。

 一、天皇制資本主義社会は本質的に社会主義革命を恐れる。

 二、中国が急速に強大となり、特にその軍事力が大きくなった。

 三、己れを以て他を律するが故に、かつて侵略戦争をやり幾多の罪悪を重ねた日本人は中国も同様我に復讐するであろうと考える。

 (この夜どうしたことか蛙の鳴声は全くない)

 六月三十日、晴。

 六時四十分南京駅発(要人の見送りは同段)十二時四十分上海駅着、革命委員会則主任王少庸氏等要人に迎えられ錦江飯店に投宿、一九五五年片山哲氏と共に宿泊した所。午後少年宮を見学した後病院にて西洋および漢方両医師の綿密な診断を受ける。

 夕食は革命委員会副主任王少庸氏主催の歓迎宴。

 七月一日、晴。

 午前聾唖者の工場、午後労働者の新旧両時代の住宅見学。

旧仏租界の中国共産党第一回大会の跡を訪ねる。五十周年記念日に相当したのは偶然か。夜雑技見学。

 七月二日、曇後晴。

 物産陳列館見学。帰路四川路に内山書店跡を訪ね完造氏の在りし日を偲び魯迅氏を思う。午後人民公社見学、一九六〇年始めて人民公社を見学し「現在考え得る最高の社会組織」と激賞し、日本およびソ連の人々から嘲笑されたが、予の判断が適中しているのを確認した。

 七月三日、上海雨、長沙快晴。

 七時三十分例によって要人の見送りを受け上海空港出発、

南昌にて給油、十二時長沙着、要人に迎えられ賓館投宿、血圧180103、午後毛沢東氏が若い時学びかつ教鞭を取った第一師範学校見学。

 七月四日、快晴。

 熊山に毛沢東氏の生家を訪ねる。長沙西南方百三十キロ。

昼食は主任譚隆樹氏の招宴。午後記念館を見学して帰路についたが昨夜長沙の賓館が暑かったのと蚊がおったことから急に予定を変更して涼しい測潭賓館に泊す。(長沙と熊山の中間、測深市の郊外、景勝の地)突然の変更にも拘らず測深賓館の接待振りには感心した。

 七月五日、晴。七時全服務員の友情こもる見送りを受け測潭賓館発、八時長沙の刺繍工場および毛主席の革命戦争中の居住跡見学。

 昼は広東省革命委員会副主任単印章氏および広州市革命委員会副主任黄業氏主催の送別の宴あり。単氏が訥々として我等の日中友好ならびに日本の軍国主義化反対に尽した功績を称え、特に旧軍人としての反戦運動は他に見ることの出来ない意義あることに言及したことには胸を打たれた。 

 私の謝辞は次の通り。

 「本日はお暑い中を単印章先生、黄業先生始め友人の方々のお出迎えを受け、誠に有難うございました。私共を鄭重に御歓待下さいますことは私共の最も光栄とする所でありますが、往復共に御迷惑をおかけして恐縮に存じます。

 私共は六月上旬から約四週間に亙って御当地を始めとして北京、西安、延安、南京、上海、長沙、韶山等の見学を了えていよいよ明日御国を離れることになりましたので、こちらからお別れの御挨拶を申し上ぐべき所、反対にこの盛宴を設けて送別して頂くことは誠に汗顔の至りであります。

 私共今回の訪問は中日友好協会の御招待により日中友好元軍人の会として参ったのでありますが、到る所心暖かな御歓待を受け誠に愉快かつ有益な見学をすることが出来ました。特に感じましたことは十数年前に参りました時に比べ各方面の建設や産業が発展充実したことは申すまでもありません

が、更に貴国の人民の方々が自信に満ちた落ち付きと希望に満ちた明朗さを持っておられる事であり、沿道の街路樹が青青と茂っていることであります。

 精神文明を忘れ、物質文明にのみ走った資本主義諸国が各種の公害のため人心が荒廃し自然が破壊され、人も植物も気息奄々としているのに比べ正に別天地の感がありました。

 これは取りも直さず偉大なる指導者毛沢東主席の指導の下、諸先生を始め貴国人民が一致団結精神革命を伴いつつ、社会革命に邁進された結果と存じ衷心から敬意を表するものであります。私共否全世界の人類は是非これに学ばねばならぬものと確信致します。

 この意味におきまして私は毛主席の御長寿と諸先生の御健康と貴国の永遠の発展を祈念してお別れの挨拶と致します。」

 七月六日、晴、例の如く要人および友人に見送られて六時四十分広州発、十時四十分深到着、旅行中、影の如く付き添って案内役を勤めた金黎氏、黄業氏、陳一新氏と訣別。国境を越えても後を振り返り別れを惜んだ。

 時計を夏時間に切り換え、午後一時半香港着、美麗華ホテルに投宿。

 七月七日、快晴。午前八時四十分日航機にて香港空港発、午後一時半羽田着。ここに三十一日に亙る中国訪問旅行が終ったが、当日は奇しくも日中十五年戦争の本格化した蘆溝橋事件三十五周年記念日であり、佐藤内閣に代って田中内閣の誕生した日でもある。

 これを要するに、十七年前私が戦後元軍人として始めて中国を訪問した時得た結論、そしてそれを政府に進言し国民に訴えたことが何等修正する必要もなかった事を悦ぶと共に、周総理が私に文革後の中国を見せようとされたお気持も理解出来、いささかなりとも私の訪中が日中の友好関係促進に役立ち得ればと思っています。


(つづく)


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めい

待望論さん、このところ出し惜しみ気味でしたが、昨日の文章は待望論さんの大局観として出色必読です。

   *   *   *   *   *

中国・浙江省で爆発、元とドル詐欺のスティルス戦争、中露が冷静である限り、貿易と資源の世界一タッグは崩せません。
http://www.asyura2.com/15/cult15/msg/181.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2015 年 9 月 08 日 19:18:21: 4sIKljvd9SgGs
     
くそじじいはまるで駄々っ子ですが、国家同士の戦争詐欺が難しい時代になり、対テロ戦争だの対宇宙人戦争だのをでっち上げて世界が白けた中で、事故に見せ掛けたテロをこれだけ短期に四回も起こせば馬鹿でもアホでもドル詐欺陣営必死だなと思い至ります。
中国に貿易で抜かれ、ロシアに資源で抜かれ、インドに金融詐欺を見切られ、軍事しかくそじじいには残っていませんが、軍事もハイテク兵器や爆弾を沢山押さえていればよいというものではなく、運用という質と量があいまってこその軍事力ですが、サイバー戦争はアイテー土方の人数による人海戦術的な面があり、土方の人数では中国に敵う国はなく、強いて質と量で追い抜ける可能性のある国はインドで、米国は逆立ちしても不可能です。
また、戦争のあり方もネット以前とネット時代では様変わりし、双方の総合力が事前に公開されている中で、番狂わせ的な事は起きようがなく、負けると分かっている方は政治で解決を図る訳で、くそじじいが焚き付けて喧嘩がエスカレートするなどという芝居が通用する時代ではなく、もっと言えば、古今東西の戦争全般が連中による仕込みであった事がばれてきており、もう以前のような代理戦争ごっこは成り立たず、あるとすれば、昔ながらの胴元同士のガチで、今それが起きている訳です。
貿易と資源で中露に抜かれたドル詐欺陣営のくそじじいは、二つを押さえていてこその紙屑詐欺が成り立たなくなってきて、必死に一位奪還を狙ってテロを仕掛けて挑発しているようですが、一位に躍り出た両国はわざわざタイトルマッチを急ぐ必要はなく、くそじじいだけが空回りしている印象です。
安倍に国会をサボらせて、ミヤネ屋だの委員会に出演させたようですが、どうにも打つ手が悪く、ルーズベルトの炉辺談話のような効果を期待したとしたらピンずれの時代錯誤です。
大体、女房を寝とられた間抜けな男がテレビに出たところで好感度アップなど期待できる訳がなく、ダイヤルアップ時代に辛うじて通用した小泉詐欺と同じことをスマホ時代にやるセンスがずれています。
お金のカラクリもネット以前は複雑でしたが、今や全世界の富を一つの画面の中でイメージできる時代で、なんでも世界の富の半分を86人のくそじじいで独占しているようですが、以前だったら畏れ多かったくそじじいも、社長どころか課長とも口をきいた事がない派遣やバイトが、イルミやフリメも大概だけどサンヘドリンのくそじじいは強欲ですなーと、自分の生涯賃金を一秒で稼ぐような相手にネットでタメグチをきく時代で、連中が築き上げてきたヒエラルキーも彼らにかかっては形無しで、くそじじい仲良くやろうぜみたいなノリでいじられてしまう時代で、そんな時代に宇宙人だのキリスト再臨だの悪魔教だのと昔のお化け屋敷みたいな事をしようとしても、そういうのはもういいからオメーが独占している金返せっつーのーと言われるのがオチで、大ネタを仕掛けようとしても、技術派のマリックさんの手品すら飽きられる時代で、ましてや連中の詐欺など真剣にビックリしてくれる暇人はいない訳で、力によるごり押しも恐怖の前に怒りが先に立ち、うまくゆく訳がありません。

by めい (2015-09-09 05:14) 

めい

待望論さんの大局観です。

   *   *   *   *   *

NWO詐欺は、優秀な者が作った原案とドル詐欺がパクった駄作が並立、両者を庶民がパクると極上の社会が完成します。
http://www.asyura2.com/15/cult15/msg/386.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2015 年 11 月 22 日 09:57:09: 4sIKljvd9SgGs
     

前者が理想的に進んでもポル・ポトの二の舞になって挫折し、後者は人類の奴隷化が加速するだけで論外です。
ドル詐欺のグローバリズム詐欺とは別の意味で世界は一体化が望ましく、ネットもドル詐欺の思惑と別の意味でそのように促しています。
日本は生い立ちとその地形と規模から、悪意も善意ものみ込み、なんでもかんでも気の効いた味に仕上がってしまう不思議な国ですが、統治形態も同じで、ドル詐欺と背乗りよりましな支配者が現れれば、五秒でネット時代の理想的社会を作れるインフラが整っています。
一例をあげれば、ドル詐欺が日本社会を底辺から破壊しようと送り込んだファーストフードやコンビニやフランチャイズシステムですが、日本に持ち込まれると黒人の為のジャンクフードが子供の憧れの御馳走になり、零細・中小キラーとして送り込んだコンビニもその目的を達成する一方で、連中の支配の肝である中央集権を五秒で破壊できる現場ネットワークのインフラも整備してしまうという結果を生みましたが、住民票をコピー機で取り出せる意味を凡人の頭で五分だけ考えれば、コンビニのオーナー達を事務次官代理や首相代理や判事代理に指名すれば、店舗の数だけ国ができちゃうじゃーん、公共料金の集金もエロ本の立ち読みを断念して10秒だけ熟考すれば、バーコードが主税局長の仕事をとっくにやってるじゃーん、連休中だけおにぎり100円って、主計局長の富の再配分の仕事に似てなくね、つーか毎日おにぎり10円にすればベーシックインカムじゃね、コンビニ本部の搾取って騙されて退職金カツアゲされたオーナーがボタンをピッポッパッって押すだけで逆流するんじゃね、ドル詐欺のカツアゲも傀儡が一斉に反乱したら終りで超簡単じゃねという訳です。
こんな事は、社会に飼い慣らされてきた我々の世代から上は思い付きもしませんが、ファミコンゲームを口にくわえて生まれてきて、ネットゲームも当たり前に楽しんできた世代からすれば当たり前の発想で、ドル詐欺様に上納金を納めるのが社会の厳しい掟なのよー、例外はなしで掟がおかしいとか考えたらバチが当たるからくわばらくわばらなのよーなどと納得させようとしても、ゲームのボタンやキーボードがそのように設計されていませんから彼らは無邪気に当たり前にその掟をおかしいと思う訳です。
そして、便利な機能を使わない手はないから、ある日、人類の祖先ががこわいこわい火を使って焼き鳥をしてみたり、よっこいしょと二足歩行を始めたように、逆流ボタンをうっかりだかちゃっかりだかおそるおそるだか知りませんが押してしまう日が訪れてしまう訳ですが、そのタイミングは、遅い朝食を楽しんでいる皆様には大変恐縮ですが、浣腸を肛門にぶちこんだ一分後みたいな頃合いで、昨晩のカレーを食べている方には誠に申し訳なく存じますが、お腹がグルグルしてきてそろそろドバーッとうんこが噴出する直前という感じで、もうドル詐欺のくそじじいが脅そうが買収しようがエコノミックヒットマンを使って札束を受けとるかこの場で撃たれるか選べと言われても、スクールウォーズみたいに、どっちも要らないですー、うんこがしたいですー、撃たれてもうんこができれば本望ですーみたいにこぞって富の逆流ボタンを押してしまう訳ですが、私も書いててトーストが不味くなってしまいましたが、うんこというのは例えばなしに使い勝手がよく、ついつい多用してしまいますが、意味がなんとなく分かったらうんこの事はきれいさっぱり忘れて、爽やかな朝のブレックファーストをお楽しみに下さいという感じです。
そんな感じで、日本全国に不必要なぐらい国家機能を備えた店舗がうじゃうじゃあるのは日本ぐらいのもので、これからは幼稚園の制服みたいのを着てるコンビニオーナーをオッサンとか思わずに、我が地域の国家元首とか事務次官とか首相とか最高裁長官に見立てて、店舗を国家になぞらえてエロ本コーナーで立ち読みをすると、霞が関も永田町も要らなくね、冷やかしの客を官僚や議員にしてもなんとかまわるんじゃね、つーか丸の内や大手町に毎日集合するのバカじゃね、家か喫茶店でタブレット弄ればできる事を千代田区でする意味がわかんねー、コンビニのコピー機の回りで事務次官会議した方が便利じゃね、首相官邸ってコンビニのトイレにテレビ電話でも置けばうんこしながらサミットもできてじじい達にはそっちの方がよくね、と素で言い出す世代怒濤のように誕生する前夜で、その勢いは爆買いや久しぶりにうんこをする時の比ではなく、もう誰にも宇宙人にも止められず、国家の数は一個のような70億個のような感じになり、最終的な自治体の数はコンビニ店舗数位に落ち着くのではないでしょうか。
爽やかな休日の朝にうんこをしながらスケベ親父特派員が現場からお送りしまいしたー、という感じです。  

by めい (2015-11-23 06:10) 

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