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栗原康『現代暴力論 「暴れる力」を取り戻す』(角川新書)を読む [副島隆彦]

副島隆彦氏の薦めに乗って一気に読んだ。アマゾンに星一つのレビューがあった。題して「ひどい本です」。曰く、 

《 程度の低さにあきれました。読むと疑問が生じてきます。著者はみんなで日本という国を解体しようじゃないかよいう提案をしていますが、その際、国際社会からどう了解を取り付けるつもりなのでしょうか?たとえ無政府地域ができたところで、(原始共産制?)それをどう運営していくのでしょうか?他国に併合された場合、別の形で民衆が管理されるシステムが発動するだけのことになりますが、それに対する処方箋をどうするのでしょうか?先のことについて何も考えず、ただ「もっと暴れよう」では、説得力ゼロです。

 全体的な文脈、表現も若者におもねった感じが目立ち、読んでいて不愉快になります。アナキストたちの人生にもさらっと触れていますが、類は友を呼ぶというべきなのか、彼らの考えの浅さにもただ唖然とさせられました。読まないほうがいい本です。》


なるほどもっともと思った。読んだ人が真に受けてみんな暴れだしたらどうなるか。たしかに、それこそ大変だ。と思いつつ、ふと寅さんを思った。毎週土曜日のBS、寅さんが楽しみだ。といっても1時間ぐらい過ぎたあたりになると酒が欲しくなってちびりちびりやっているうち横になっていつのまにか眠り込んで、最後まで見通すことはあまりない。だから、同じものを何回見ても新鮮であきることがない。多少の出来不出来、それに伴う好き嫌いはあるが、ともかくあの寅さん世界がいい。寅さんみたいに生きてみたい、そんな思いになる人もいるにちがいない。・・・寅さんというと思い出すSくんという人がいる。いまどこにいるか。数年前、ぶらりふるさとに帰って来た。わが家に朝早く来て、家のまわりの草をむしったりして、その流れで朝飯をごちそうして、いささか懐かしく、半分は迷惑がられて、叔父さんの家を宿にどこかここかで日々過して、親戚スジからはまるっきり迷惑がられているようで、数日後、東京に行くことにしましたと何となく言いおいて姿を消す。忘れた頃にまた戻ってくるかもしれない。Sくんは別に寅さんを真似ているわけではないが、私は寅さんを観る度にSくんを思い出す。・・・この本はちょうど寅さんの映画に似ていると思ったのだ。それを現実にあてはめてしまうとSくんになってしまうわけで、「ひどい本です」というレビューになる。


大杉栄は米騒動に出くわして「すごい」と共鳴し、ストライキ論を書く。そこから栗原氏は「蜂起の二大原理」を見出す。

  (1)ゼロになること

  (2)共鳴をよびおこすこと

1)は、「わが身をかえりみず」「損得ぬき」「わが身が破滅してしまったとしても」。いささかなりとも「まわりに評価されるため」などという気持ちが入ってはならない。そういう邪念を「奴隷根性」という。

2)は、「みずからが身を賭して決起することによって、まわりの人たちにも決起をけしかける」。そうしてはじめて、各人各様の「あばれゆく力」が、多様化しつつ共鳴しあって広がってゆく。


しかし、と言う。「純然たる直接行動というのは、その純粋さゆえにそうじゃないものへと一気に反転してしまう」。「革命が自己犠牲をもとめた瞬間に、革命は存在しなくなってしまう」(ヴァネーゲム)。それを「犠牲と交換のロジック」と言い、多くは「ゼロから逸脱」の過程に嵌ってゆく。そのことから自由であることの難しさ。その認識があれば、煽動されてもそう簡単に乗れるものではない。然り、栗原氏の説く「あばれる力」の発現は決して容易ではないのだ。


大杉栄の文章の引用がある。題して「自我の棄脱」。


《 兵隊のあとについて歩いていく。ひとりでに足並みが兵隊のそれとそろう。

 兵隊の足並みは、もとよりそれ自身無意識的なのであるが、われわれの足並みをそれとそろわすように強制する。それに逆らうにはほとんど不断の努力を要する。しかもこの努力がやがては馬鹿馬鹿しい無駄骨折りのようにおもえてくる。そしてついにわれわれは、強制された足並みを、自分の本来の足並みだとおもうようになる。


われわれが自分の自我——自分の思想、感情、もしくは本能——だとおもっている大部分は、実にとんでもない他人の自我である,他人が無意識的にもしくは意識的に、われわれの上に強制した他人の自我である。


 百合の皮をむく。むいてもむいても皮かある。ついに最後の皮をむくと百合そのものは何にもなくなる。

 われわれもまた、われわれの自我の皮を、棄脱して行かなくてはならぬ。ついにわれわれの自我そのものの何にもなくなるまで、その皮を一枚一枚棄脱して行かなくてはならぬ。このゼロに達したときに、そしてそこからさらに新しく出発したときに、はじめてわれわれの自我は、皮でない実ばかりの本当の生長を遂げていく。》

    (大杉栄「自我の棄脱」「大杉栄全集第3巻」ぱる出版、二〇一四年、二八頁)


小田仁二郎の「にせあぽりや」から「触手」へのラジカル(急進的=根源的)な転換が思い浮かんだ。『自我」を始末しておかねばならない。「自我」をもてあましているようでは道を外れる。文字通り、身を斬る覚悟あってのことだ。


それにしても尾崎氏、すごい筆力だ。『ハダシのゲン』や『源氏物語』の浮舟のあらすじなんかはほんとにすごい。読んでストンと心におさまる。全部まるごと読んだ気になる。決して薦めはしないが、読んで損する本ではない。 


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コメント 1

めい

飯山さんが煽っています。
http://grnba.com/iiyama/index.html#zz01104

「共鳴」はあるか。

   *   *   *   *   *

◆2016/01/10(日)4  きょうの嬉しいニュース
国家社会の変革の原動力は,ひとつしかない。
それは…,
不平・不満をバネとした青年の暴力的暴走エネルギーだ。
戦国時代も,明治維新も,青年たちの暴走パワーが主導した。

きょうの成人式,水戸市では新成人たちが暴れてくれた。

これは,ほんと,嬉しいニュースだ。 (記事http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-8075.html

だっから↓わしは書いた。

青年よ,暴れまくれ!
この国の全てを破壊しろ!
チョッと遅かったけどな…。
飯山 一郎

by めい (2016-01-11 00:48) 

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