大石田と茂吉 [メモがわり]
大石田に行ってきた。黒江さん(黒江太郎氏のお嫁さん)から「大石田の歴史民俗資料館で『茂吉の書』展があって梧竹の書も出ます」とお聞きしたからだ。黒江太郎氏が遺された茂吉の書はすべて大石田の資料館に寄託されたとのこと。太郎氏は「これらは個人で所蔵すべきものではない。」と常々言っておられたという。太郎氏が亡くなったのが昭和54年7月、資料館はその前年5月に開館している。
大石田ヘ行くのは初めて。朝から見事な青空で行楽日和だったが、早朝から「宮内よもやま歴史絵巻」取付補強を粡町商店街会員のみんなとやったり来客があったりで、出かけたのは午後1時半を過ぎていた。出かけると好天とはいえ、黄砂が降った時のような空。今朝の飯山ブログによると東京の方はもっとひどい。家内とこうして出かけることなど滅多にないことで、家内もちょっとした行楽気分。山形市内に所用があり、348号経由。小滝街道もいつになく車が多い。
大石田と言ってもピンと来なかったが、国道を山形−天童−東根—村山と北進、その次が国道13号線を挟んで東が尾花沢、西が大石田。1時間30分ぐらいか。13号から入って左手に広い最上川が見えてくると大石田。茂吉のイメージとも重なって「いい町」の雰囲気。
資料館に着いたのが4時ちょっと前。4時半までの開館だった。入館者はわれわれだけ。こじんまりしているが、凛とした雰囲気がある。
中林梧竹「小桃華木満商山」
守谷伝右衛門「窿応和尚への手紙」 「窿翁和尚」の「窿」はやはり「ハ」がないことを確認。(手元の昭和12年刊『詳解漢和大辞典』にも載っていない。資料館も活字は「窿」だった。)
茂吉「實相観入」
結城哀草果「この町にみ雪降り来る時近く蓑帽子つけて人ら行き交ふ」
黒江太郎「園に高くむらがるはすの葉をぬきて紅の花ふたつ開きぬ」
(以上、撮影禁止。ごめんなさい。)
資料館は「聴禽書屋」とつながっている。外の柏の木のフクロウの鳴き声に由来するという。今も聴くことができるとのこと。
手入れの行き届いた庭に「翁草(おきなぐさ)」が叢生している。白髪のようになることからの命名という。茂吉が愛した花。遠縁にあたる上山のお菓子屋さんに「翁草」というお菓子があり、名前は聞いていたが初めて見た。思っていたより大きい。ずっと小さいイメージだった。
管理の方に「よもやま絵巻 斎藤茂吉と黒江太郎」のコピーをお渡しして、特別にということで震災以来、危険ということで一般には開放していない二階に案内してもらう。昭和初期の建設で、確かにギシギシいう。茂吉さん疎開時には来客用の部屋だったとのこと。2階からの庭の眺めも格別だった。
最近大石田と言えば「最上川千本だんご」ということで、資料館からすぐ。夕方というのにお客さんが次々。本来は豆腐屋さん。「明日には、固くなるだんごはいかが!」がかえって山形の消費者には受けたらしい。
最後は虹ヶ丘公園へ。下ってくるご夫婦、声を掛け合ったら大石田町長さん御夫妻でした。町長さんは「ぺそら漬け」のいげたやさん五代目でした。そば屋さんも多いし、独自の食文化が引き継がれているのでしょう。すばらしい風景と茂吉を看板にした文化に加え、さらに進化をとげつつある食文化、今後の大石田に注目です。
虹ヶ丘公園展望台からの眺めです。水の入った田圃が夕陽に光って、ちょっとした感動でした。茂吉もここまで散歩したらしい。山頂に大きな歌碑がありました。
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