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齊藤喜一氏重篤の中、ケネディ大使への手紙を発信しました [メモがわり]

獅子冠事務所頭取であり、「白鷹山に『伝国の辞』碑をつくる会」の会長の齊藤喜一さんが上大動脈解離(心タンポナーデ)で救急車で運ばれ、解離部分を人工血管に替える、5時間を超える大手術を経て、生か死かの危機的状態からはなんとか回帰して、以来今日で5日目、現在山形大学病院のICUで眠らされつづけている。


齊藤さんは米沢御堀端史跡保存会が年一回発行する『懐風』の第40号への寄稿を乞われて、「昨日の敵は今日の友 JFケネディ大統領日本への思い」の一文をまとめ、4月末の発刊を待って、なんとかキャロライン・ケネディ大使に読んで頂きたいと、大使の宛てた手紙の下書きをワープロで清書して欲しいと頼まれていた。なんやかやでグズグズしていたのだが、折しも521日の朝10時頃、私の思いも組み入れた依頼の文書がなんとか出来上がりかけた時の、齊藤家「百花園」と隣接する宮内公民館M館長からの電話だった。「頭取がいま救急車で運ばれた。」


公立置賜総合病院病院に着いて間もなく、これから本格的な検査前ということで面会することができた。顔色が悪いのでもなく、あたりまえに会話ができた。20日の午後、赤湯のMさんを訪ね、話し終えて玄関を出てからの記憶がない。車がいつまでも発進しないのを不審に思ったMさんが、齊藤さんが嘔吐して倒れているのを見て、家までなんとか送り届けてくれたらしい。その翌朝、起き上がることができないことから救急車ということになった。一方、Mさんが翌朝心配になってか、警察に連絡したということで、パトカーも出動し、近隣は大騒ぎになったようだ。


頭ではない、心臓か、それでもこのぐらい普通の会話ができるのだからすぐ帰れるんだろうと軽く考えて、私は家に戻った。その日、「頭取が救急車で運ばれた」の報は町中に広がった。10人近い人に「大丈夫と思う」と会ってきた状況を話した。夜8時頃、どうなったかと齊藤家に電話した。家族はまだ戻っていなかった。獅子冠事務所のS総取締役と連絡して、22日朝7時に齊藤家へ行き状況を知って驚いた。


前の晩戻ったのは11時過ぎだったという。昨日執刀医から聞いたことも併せて書くと、CTによる検査の結果、大動脈の解離が判り、ただちに救急車で山形大学病院へ。肝臓、腎臓に十分な血液が回らない状態の為、かなりひどい肝不全、腎不全の状態。35IU/l以下で正常なGPT3000を超えていたという。23日まで尿もほとんどでない状態で透析をしなければならなかったとのこと。23日に面会した時はまったく意識がなくて心配したのだが、昨日の説明で、人工呼吸器を取り付けているので、意識があると苦しいから麻酔で眠らせているとのこと、手術後、麻酔が薄れた状態の時に反応を調べたら正常だったので、頭の方は心配ないと思われるということを聞いて安心はした。今後の回復の如何は、本人の体力と運命次第、運ばれた時は、助かるかどうかは五分五分だったが、今は七三か八二とのことだった。


ケネディ大使への手紙は、23日発信した。今日届くことと思う。日本語なので大使にどこまで思いが伝わるか。


   *   *   *   *   *

2015522


キャロライン・ケネディ大使様

白鷹山に「伝国の辞」碑をつくる会

会長 齊藤喜一


「懐風」第40号、及び「除幕式」報道記録の贈呈について


冠省

 若葉薫る快適な今日この頃、大使様におかれましてはお元気で御公務に御精励のこととお察し申し上げます。

 一年前、白鷹山頂への上杉鷹山公「伝国の辞」碑建立に際しましては、大使様より一方ならぬ御尽力を賜りましたことについて、あらためて衷心より感謝申し上げます。

 さて、このたび米沢市の文化団体「お堀端史蹟保存会」から機関誌「懐風」第40号への寄稿の依頼を受け、「昨日の敵は今日の友 J・Fケネディ大統領日本への思い」と題する小文を書かせて頂きました。

 その内容は、勇敢なる戦士であった御父君が魚雷艇長として日本の駆逐艦「天霧」と遭遇、撃破されるも部下とともに無事生還されたこと、そしてその後の「天霧」艦長花見弘平氏との意義深い交流について、花見氏のご家族の取材や経緯を知る星亮一氏からの情報をもとにまとめたものです。知るほどに、御父君ケネディ大統領と我が日本との深い御縁を思わずにはいられません。なんとか大使様と花見弘平氏御夫人和子様との御会見が実現できないものかと老婆心ながら念じているところでございます。御父君御存命で日本にお出での機会があったとしたら、花見艦長との御会見は何より実現したいと望まれていたことではないでしょうか。

 遅れてしまいましたが、昨年の除幕式について地元テレビで放映されたニュース2本と、その後間もなく、NHKEテレビで放映された「ケネディ大統領の絶賛した江戸時代屈指の名君・上杉鷹山の手腕とは?『先人たちの底力
知恵泉』」の
DVDを同送させていただきます。ご覧頂ければうれしいです。

 御父君は、大統領就任演説で《今、我々を召集するラッパが再び鳴り響いています。・・・これは、長く先の見えない戦いの重荷を担えという呼びかけなのです。来る年も来る年も、希望をもって喜びとし、苦難を耐え忍びながら、人類共通の敵である虐政、貧困、病気、そして戦争そのものとの戦いを貫く覚悟が求められています。Nowthe trumpet summons us again・・・ a call to bear the burden of a long twilight struggle, year in andyear out, "rejoicing in hope, patient in tribulation" -- a struggle against the common enemies of man: tyranny, poverty, disease, and war itself.》とその覚悟のほどを明らかにされました。その御覚悟は、上杉鷹山公藩主就任の覚悟と重なります。鷹山公は、二つの神社に覚悟の御誓詞をひそかに納めていたのでした(それらが発見されたのは鷹山公没後、はるかに時を隔ててのことでした)。そして後世、内村鑑三をして、(聖書で約束された)王国の到来を待つ間、それとよく似た王国が、この水と陸から成る地球上の、それも異教の国、日本にかつて実現した話を振り返り、元気をつけようではないか。西洋の知恵がもたらされる前に、この国はすでに和の道を知っており、独自に「人の道」が実践され、「死を恐れぬ勇者」がいたのである。
But while we are waiting for the coming of such a kingdom, let us refresh ourselves by an account of something very much like it, once enacted upon the terraqueous globe, and that in heathen Japan. Yes、 before wisdom came from the West, the land did know the way of peace, and in its own secluded manner, “the ways of man”were walked in,and “death was encountered with al hero's resolve.”》(『代表的日本人 RepresentativeMen of Japan』)と言わしめるに至ったのです。

 日本も不幸な敗戦から今年で70年、その記憶が次第に薄れてくる中で、悲惨さの代償として与えられた、「二度と戦争は繰り返さない」ための平和憲法がなし崩し化されつつあることを、天皇皇后両陛下をはじめ、日本の心ある人々はたいへん危惧しております。キャロライン様の日本への派遣は、平和の使徒としての役割を担ってのことと信じて疑いません。役割の御完遂を心より御念じ申し上げる次第です。

 もし叶うことならばぜひ白鷹山においでいただけることを夢見つつ、大使様の御健勝を衷心よりお祈りして、遅ればせのご報告とさせて頂きます。

敬具


   *   *   *   *   *

 

以下、齊藤喜一氏による「懐風」第40号掲載文です。(クリック拡大)

昨日の敵は今日の友1.jpg昨日の敵は今日の友2.jpg昨日の敵は今日の友3.jpg



 





 


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めい

《(山口多聞中将のような)真に勇敢で、よく職務と責任を全うし、潔く死んでいった日本軍人の指導者たちがいるのである。  南雲忠一(まぐもちゅういち)、栗田健男(くりたたけお)(聯合艦隊司令長官ども) 、それから、航空隊の司令官の、源田実(げんだみのる。戦後もずっと自衛隊代表で、参議院議員をやっていた)。お前たちも、心底、怪しいのだ。始めからアメリカとつながっていた、スパイ軍人どもだ。 お前たちを、これから、日本国の真実の歴史の法廷に、引き釣り出す。 鬼になってでも、化けてでも出て、あの真の英霊たちの怨霊とともに、お前たちの 大犯罪を、明るみに出して、日本国民の公知の事実として、断罪する。 そうしないと、真の帝国軍人の英霊たちが浮かばれない。 

アメリカの手先になり尽くして、それでもなお、右翼、愛国者を僭称している、穢(きたな)らしい、今の日本の、勝共(しょうきょう)右翼、産経右翼、ワック誌一派ども、よーく。覚えておけよ。真の愛国者というものが、どういうものかを、お前たち、歪み尽くした、アメリカの手先、家来どもに、私、副島隆彦が、鉄拳制裁、海軍入魂棒で、教えてやる。

真の愛国、右翼なら、すべてのアジア人種と共に、欧米白人たちの偽善の世界体制と闘う、と言う、「アジア人同志団結せよ」の大(おお)アジア主義者でなければいけないのだ。
今の、安倍晋三たち 奇っ怪な宗教団体が乗っ取っている日本政府をいやがり、一番、危惧しているのは、天皇と美智子皇后と皇太子(次の天皇)である。

お前たち、逆賊の、アメリカの手先どもとの、 私、副島隆彦の死ぬまでの闘いは続く。》
http://www.snsi.jp/tops/kouhou/1823

近かったら飛んで行きたい講演会です。無念の英霊たちの魂の働きを感じます。

《人間とは生きている限り「あの世」に絶えることなく情報を送り続けている、「あの世」の感覚細胞なのだとまで、ユミットは言い切っている。「あの世」からは種々の情報が、一種の指令が送り返されてくるわけだが、人間は基本的にはこれに従って生きていることになる。》(『宇宙人ユミットからの手紙』「この世」と「あの世」)

「この世」と「あの世」のフィードバック。この講演会には、「あの世」の魂を目覚めさせるインパクトを感じます。日本を立て直すのはきっと、「無念の英霊たちの目覚め」です。

   *   *   *   *   *

「1532」番  来たる 6月7日(日)に 横須賀市で私の講演があります。 いらしてください。「軍港 横須賀の150年の歴史」にちなんだ話をします。 副島隆彦 2015年5月27日日
副島隆彦です。 今日は、2015年5月27日です。

・・・・・・・・・
http://kokucheese.com/event/index/290715/

演題は、「副島隆彦さんが語る 軍港開設と敗戦までの裏面史 」

 以下は、私が、この講演会の主催者である、 この3月まで横須賀市魏(元社会党)そしていた 一柳洋(いちやなぎひろし)氏のお誘いをいただいた、時からのメールのやりとりです。この文章を読んでくだされば、当日、私が、何を話すかが、大体わかります。

・・・・・・・・・
副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

Sent: Friday, January 30, 2015 9:53 AM
To: snsi@mwb.biglobe.ne.jp
Subject: 講演依頼

講演依頼
副島隆彦様

初めて直接にメール致します。
 私は学問道場の会員(****番)で、横須賀市の市会議員をしております一柳 洋と(いちやなぎひろし)と申します。

今年は、敗戦後70年ですが、横須賀では小栗上野介(副島隆彦注記。おぐりこうずけのすけ 、忠順=ただまさ=、旗本の上級武士で、幕末の勘定奉行。立派な人物 )らによる軍港開設と造船所開設(1865年 )の150周年に当たります。

 今年は市を始め「軍港開設150年記念」の多くの催しがあります。が、カタログにょうに歴史をなぞることと、アメリカと激しく戦ったのである昭和の日本海軍のことには触全くれずのイベントが殆どです。

 私は、2005年から10年に亘って先生の著作を読み、また学問道場に入会してからは、かかさず学問道場の講演会に参加しております。が、なぜ幕府 (明治新政府時代よりもはやく)は、横須賀に軍港を作ったのか。から始まり、昭和の日本海軍は、一体何を大きく誤まり(あるいは操=あやつ=られて)、あれほどの愚か極まりない、負ける戦をしたのか、そしてアメリカに屈服して、今の日本の従属構造があるのかを、副島さんに語って頂ければと存じます。

 なおご存じと思いますが明治政府になって、横須賀製鉄所の初代責任者は、“長州5(ファイブ)”の山尾庸藏(やまおようぞう)です。

(副島隆彦注記。山尾は、1866年に帰国して、まだ、長州藩に出仕していたが、明治3年=1870年=に初めて横須賀に赴任している。最高責任者にはなっていない。 まだ、後藤象二郎(ごとうしょうじろう、土佐の藩政=はんせい、家老職=の家柄である)が、横須賀の民部太輔=みんぶたいすけ=で横須賀製鉄所の最高責任者だった。明治(太政官、だじょうかん)政府では、元勲の次ぐらいに列席した。どうも、日の目を見ていない。あの武器商人グラバー・三菱(岩崎)弥太郎と争って、高島炭鉱の所有権を巡って、裁判をしたりして揉めている。)

山尾庸三そして帝国海軍は、イギリス式になる多くの軍艦の造船や、日本海海戦(1905年5月27、8日)の真実などもお話頂ければと存じます。テーマは「横須賀軍港150年の真実」でお願いします。
時期は4月頃でお願いしたいと思います。ご都合で平日ならば夜間、土日ならば午後開催で行いたいと思います。たっぷり2時間ほどお話しして頂ければと存じます。
  2015年1月30日
        横須賀市議 一柳 洋

横須賀市議
一柳 洋 さまへ

副島隆彦から

メールをありがとうございます。
私に横須賀市での 講演の依頼をいただきました。
一柳さまは、学問道場の会員であり、すでにケンカ道場でもお会いしていますので、私は安心して お引き受けできます。
講演の演題も、「「横須賀軍港150年の真実」 を、私なりに 今から歴史の史料を 集めながら、弟子たちの協力をもらって内容を作ります。山尾庸三の ことは、姫路工業大学の物理学の教授の 下条竜夫(げじょうたつお)氏にくわしく聞きます。彼の論文があります。 (略)
現在の横須賀市はどうも米海軍の直轄都市のような感じで、空母ジョージ・ワシントンの母港(ホームポート) のはずです。 ベース(基地)内の山の上に 司令官の屋敷があって、そこに表敬訪問に自動的に連れて行ったと、評論家の森田実(もりたものる)氏が私に言っていました。 そのような場所に、私、副島隆彦が無防備に行くわけにはいきません。 ただし、私は真実暴き系の言論人ですから、 自分の言論に余計な自主規制はしません。(略)
万事よろしくお願い致します。今後とも 親しく 仲間としてお付き合いください。  

副島隆彦拝   

2015年2月6日 
一柳洋 から

副島様
・・・・・・・
私は海軍航空技術廠(しょう)のすぐ側の町で、戦後4年半たった時に生まれたので小学校の頃までは、随分と旧軍の施設が残っていました。また近所、親戚には海軍工廠(かいぐんこうしょう)や軍関係への勤め人が多く、また市会議員になってから付き合いましたが、町内に真珠湾攻撃やミッドウエー、最後は南太平洋海戦に出撃して死なずに帰ってきた97艦攻(きゅーしち・かんこう、艦上爆撃機 )のパイロットがいました。

その人とは酒を飲みながら何度か話を伺いましたが、「ミッドウエー海戦での空母撃沈の時は、今日は雷撃(でんげき)出撃はないだろう、と言われて待機していたら、飛行甲板に爆撃を受けた」。と言っていました。空母加賀は、艦橋(かんきょう)が最初にやられたので艦長等は即死で、飛行長の判断で搭乗員全員は燃える加賀から駆逐艦に乗り移り帰ってきたから、自分は沈むとは思わなかった」と言っていました。

今日は「出撃がない」と言うことは、その後の海軍が言い続けた大嘘の「運命の5分」はなかったと言うことです(沢地久枝さんが暴露しました)。山本五十六(やまもといそろく)聯合艦隊司令長官、は、始めから負けるように仕組んで、ミッドウエーで4隻の空母を失わせたのだ、と推測されます。

そうでなければ戦(いくさ)が余りにも稚拙です。アメリカの力を舐めきっていただけでは説明がつきません。その一月前井上成美(いのうえしげよし、海軍次官。大臣の次)が、そのあとの珊瑚海(さんごかい、コーラル・シー。オーストラリアとニューギニア島の間)海戦( 1942年5月7日)で、米機動部隊(きどうぶたい、タスク・フォース。日本の連合艦隊に匹敵する) にかなり返り討ちにあって、空母翔鶴(しょうかく)が大破させられ、多くの搭乗員を失っています。が、その戦訓がそのあと全然、生かされていません。

副島先生が言うとおり、海軍の“海軍反戦トリオ(米内、井上、山本)”は、戦後の創作(でっちあげ、虚構)であり、彼らは始めから内通していた英米派だった。日本陸軍とは断固協調しないで、日本を始めから戦争に負けるように仕向けたのだ。先生のこの指摘に、あの“海軍善玉、陸軍悪玉(こっちが戦争の元凶を作った)“を書き続けた言論人、評論家たち は、どう反論するのかと、私はずっと疑問に思っています。

(副島隆彦 加筆。彼ら歴史の偽造者、捏造者たちは、文藝春秋、新潮社から多くの戦争ものの歴史本を出版してきた。その頭目は、阿川弘之=あがわひろゆき)=である。彼が、『米内光政(よないみつまさ、海軍大臣)』、『井上成美(いのうえしげよし、海軍次官)』、『山本五十六』の”提督3部作“の 嘘(うそ)八百の戦争伝記ものを書いた。

彼らは、これから、真実の炎で、焼き殺されなければいけない。 本当に、海軍の攻撃隊の現場にいて、真実を知っている者たち、下士官や艦隊乗り、パイトットたちは、ブツブツ、とずっと、真実を語り続けてきた。それを、アメリカの手先代表の、文藝春秋と新潮社が押し潰してきた。

私たちは、無念に死んでいった多くの戦闘員の同僚(戦友)たちとして、深い悔恨と、怨念に包まれて、今からでも大きな真実を語ろうとする者たちの声を、集めなければいけない。そして、どんどん表に出さなければいけない。 騙されて殺されていった、本当に勇敢だった、軍人・兵士たちの怨霊=怨霊=が、私たち、後続する日本人に取り付いて離さない。

私、副島隆彦は、自らが鬼となって、これらの真実を書き続ける。割り込み加筆終わり)

米内(よない、海軍大臣)の終戦工作も、スターリン頼みだったのであり、随分と日本国民を犠牲にしたものです。

井上成美は、ご存じのように横須賀の西海岸の長井(ながい)で、生涯を終えています。彼は美化されていますが、戦後は自衛隊の式典には一切出てこなかったのが事実のようです。

戦後70年、戦争の真実を突き止めようとしている人は、横須賀でももう殆どいません。
軍港をなぜ幕臣の小栗らが開いたのか、も、外交・軍事の視点と倒幕派の薩長(さっちょう)、とりわけ長州5(ファイブ、五傑とも。 副島隆彦注記。1863年=文久3年=5月12日に密出国で横浜港から、イギリスに向かった)や、薩摩スチューデント(その2年後に、同じく、イギリスに育てられるべく、1865年、3月22日、五代友厚、松木洪庵=新露刑部=ら薩摩留学生が密出国した)の事も、先ほとんど語られません。

先生にお願いして、今まで一度も語られなかったことを聴衆に暴いて、目から鱗の講演会にしたいと思います。一柳 洋

From: Ichiyanagi Hiroshi
Sent: Saturday, March 07, 2015 7:48 AM
To: 副島 隆彦様

副島様
先日はお目にかかれて有り難うございました。
6/7の講演の件で連絡します。先生のことですから当然スライド・ショウなどの資料をお作り頂けると思いますので、軍港都市150年の資料作成代としてご査収下さい。

1部  幕府による軍港開設と倒幕派の裏にいた英国エージェントによる、帝国海軍の(フランス式からの)英国式化(への変更のこと)。

2部  昭和の海軍の誤り。海軍は負け戦ばかりして、そのあと、現在のアメリカによる占領状態に持って行った。それはなぜか。

維新後の明治3年(1870年)、頃横須賀製鉄所を幕府から引き継いだ新政府は山尾庸藏を日本代表の横須賀製鉄所 所長?(肩書き不明)として就任させています。この辺のいきさつも是非明らかにして頂きたいと思います。市は本当の歴史を全く調べる気がありません。

・・・・・・・・・

2015年3月11日 
一柳洋 から

副島様

「横須賀市の 歴史の 資料の 収集を 今のうちからお願い申し上げます」の件です。
横須賀の工廠(こうしょう、兵器、軍艦の製造工場のこと)と航空関係についての研究は既にいろいろなところでやられていますし、軍艦、航空機開発についても刊行物はたくさんあります。但し、横須賀市の図書館には裏面史を知るような蔵書はないと思います。
むしろ今回講演頂きたいのは、カタログ化している歴史年表にない点です。ざっと書きますと以下のようになるかと存じます。

1部 については、薩長の裏にいた英国の存在やフリーメイソンの影響。
幕府とフランスが契約した軍港と工廠づくりを継承した明治政府の横須賀造船所の初代責任者が山尾庸藏だった事 は本当か?

山尾庸藏と長州5(ファイブ)の事。明治10年(1877年、西南の役で、西郷隆盛たちが新政府に嵌められて、不満分子として殺された) には全ての仏(フランス)技術者が帰され、それからの帝国海軍は、一気に英国式になりました。が、その経緯。日英同盟(1902年から1920年まで)での英国の目的。日露戦争と英国。日本海海戦と英国の指導。 米英は、日本海軍にどういう内通者を置いたか? 海軍のフリーメーソン人脈は?

なお今から10年前(すなわち2005年)までは、現在の米海軍基地内のメイソン(リー、協会、マソニック)のロッジ(会衆所、かいしゅうじょ)場所は分かっていました。写真もあります。 が、老朽し解体後は、何処に移動したのか、横須賀市役所の役人に聞いても分かりません。

2部 は先生が主張する米内、山本、井上の“海軍反戦トリオ”は、戦争開始前からのアメリカへの内通者で、日本を負けるように仕組んで、今の日米安保体制に持って行った私もと思います。 なお、この企画で最初は半藤一利(はんどうかずとし)氏に連絡を取ろうと思っていましたが、彼は山本擁護派なので、止めました。

そして日中戦争の裏側。ワシントン軍縮条約(1922(大正11)年=、そして1930(昭和5)年、ロンドン軍縮条約。日本は、建造する軍艦の数を制限された)からの海軍内の対立。戦後作られた「海軍善玉論」神話(海軍は、ずっと平和主義者だった。悪いのは陸軍だった、という歴史の捏造。文藝春秋と新潮社から、戦後、沢山の本が出た )と、アメリカ政府 およびフリーメーソン組織との関係は。

また日本海軍内の対米戦強行派である石川信吾(いしかわしんご)、神重徳(かみしげのり)らの中堅佐官クラスは、実はどうだったのでしょうか?
文春派の言う陸軍や政府に対して「アメリカとは戦えない(とても勝ち目はない)」と言い出せずに、海軍のメンツだけ考えて国や国民のことを考えず、そして米内、山本らの奇策を止めさせることなく 戦略なき真珠湾攻撃をアメリカにまんまと仕組まれて、させられた、と言う日本海軍の事情について。

ミッドウエー海戦( 副島隆彦注加筆。 真珠湾攻撃=開戦=からわずか半年後、1942年6月5日。これで、日本は、大切な主力空母4隻 「赤城」、「加賀」、「蒼龍(そうりゅう)」「飛龍(ひりゅう)」が撃沈されて失う(「敵空母「ヨークタウン」を航行不能にした」)という決定的な敗北を喫した。 これで日本の太平洋戦争での敗北は、早くも決まった。山本は、ずっと呉(広島)の戦艦大和の艦橋に居て、無線で指令を出していた。無線封止(むせんふうし)さえしていなかった。これらはすべて露見している。本当は、ミッドウエーには、戦艦大和 が先導して、空母艦隊を守りながら、戦闘(海戦)をするべきだったのだ。

あの時ミッドウエーで死んだ、 勇敢な本当の帝国軍人の無念の戦死者 たちの怨念が、今も日本国民の中に立ち込めている。今もなおアメリカの手先を自認している者ども、おのれらの恥多き人生を深く、真の英霊たちに向かって恥ぢよ。

この時の、「飛龍」艦長、山口多聞 (やまぐちたもん)少将( 第2航空戦隊司令官)
の戦い方と死に方こそは、帝国海軍の軍人の鑑(かがみ)である。敗戦後も、おめおめと生き延びて、「私たち海軍は、平和主義だった」などと、よくも、あの恥知らずの、アメリカの奴隷になった軍人どもは、言えるものだ。 文藝春秋、新潮社よ、産経バカ右翼は論外)お前たちの歴史の偽造を、私、副島隆彦は絶対に 許さないからな。

アメリカのCIAが、編集して、日本の電通(という悪業の限りの日本国民洗脳の尖兵の広告会社。テレビ局、新聞社を広告宣伝料の払いで支配している)が、その日本語版を管理しているウィキペディアでさえ、次のように、正確に 山口多聞の 潔い最期を描いている。

( 転載貼り付け始め)

1942年(昭和17年)6月、(山口多聞少将は)ミッドウェー海戦に第二航戦司令官として空母「飛龍」で参加。 ミッドウェー島基地攻撃中にアメリカ機動部隊(きどうぶたい)発見の報告を受け、南雲忠一(なぐもちゅういち)長官に、「直(ただち)二、攻撃隊発進ノ要アリト認ム」と電文を送り、帰還部隊の収容をあきらめ、陸上爆弾装備中の部隊の発進を急ぎ、敵機動部隊に攻撃することを意見 具申した [注釈 1] 。しかし、南雲司令部は帰還したミッドウェー基地攻撃隊の収容を優先させた[22]。

主力四空母中「赤城」「加賀」「蒼龍」の三空母が、敵(の)急降下爆撃により大被害を受けると、第8戦隊 旗艦「利根(とね)」」と機動部隊 全艦に対し、山口多聞少将は「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執(と)ル」と発光信号を発した。また「飛龍」艦内には、「赤城・加賀・蒼龍は被爆した。本艦は今より全力を挙げ敵空母攻撃に向かう」と通報した。第2航戦先任参謀(せんにんさんぼう)伊藤清六中佐の手記によれば、山口は攻撃隊搭乗員(パイロットたち)に、「飛龍一艦、少數の飛行機を驅(か)つて、敵空母2隻に全艦隊の仇(かたち)を報じ得たるいはれ、なきにあらず。體當(たいあた)りでやつて来い、俺も後(あと)から行くぞ」と訓示した[23]。

山口多聞は、「(我が艦)飛龍には他の空母の艦上戦闘機もあるので上空警戒機で阻止できる」という判断をした。戦艦「榛名」が敵機を発見し、触接警戒しているので警戒を厳にし13機を上空に上げていた。が、急降下爆撃機SBDドーントレス(の編隊、スクアドロン)の攻撃を受けて、飛龍は、飛行甲板が破壊され、発着艦不能となった[25]。

山口は(空母飛龍の)総員を集合をさせ、「皆が一生懸命努力したけれども、この通り本艦もやられてしまった。力尽きて陛下の艦をここに沈めなければならなくなったことはきわめて残念である。どうかみんなで仇(かたき)を討ってくれ。ここでお別れする」と告げ、一同水盃をかわし皇居を遥拝し聖寿の万歳を唱え軍艦旗と将旗を降納した。

 (転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。こういう真に勇敢で、よく職務と責任を全うし、潔く死んでいった日本軍人の指導者たちがいるのである。  南雲忠一(まぐもちゅういち)、栗田健男(くりたたけお)(聯合艦隊司令長官ども) 、それから、航空隊の司令官の、源田実(げんだみのる。戦後もずっと自衛隊代表で、参議院議員をやっていた)。お前たちも、心底、怪しいのだ。始めからアメリカとつながっていた、スパイ軍人どもだ。 お前たちを、これから、日本国の真実の歴史の法廷に、引き釣り出す。 鬼になってでも、化けてでも出て、あの真の英霊たちの怨霊とともに、お前たちの 大犯罪を、明るみに出して、日本国民の公知の事実として、断罪する。 そうしないと、真の帝国軍人の英霊たちが浮かばれない。 

アメリカの手先になり尽くして、それでもなお、右翼、愛国者を僭称している、穢(きたな)らしい、今の日本の、勝共(しょうきょう)右翼、産経右翼、ワック誌一派ども、よーく。覚えておけよ。真の愛国者というものが、どういうものかを、お前たち、歪み尽くした、アメリカの手先、家来どもに、私、副島隆彦が、鉄拳制裁、海軍入魂棒で、教えてやる。

真の愛国、右翼なら、すべてのアジア人種と共に、欧米白人たちの偽善の世界体制と闘う、と言う、「アジア人同志団結せよ」の大(おお)アジア主義者でなければいけないのだ。
今の、安倍晋三たち 奇っ怪な宗教団体が乗っ取っている日本政府をいやがり、一番、危惧しているのは、天皇と美智子皇后と皇太子(次の天皇)である。

お前たち、逆賊の、アメリカの手先どもとの、 私、副島隆彦の死ぬまでの闘いは続く。
ここからあと、また、一柳洋(いちやなぎひろし、横須賀前市議の 文章を続ける。
副島隆彦の割り込み、加筆終わり)

ミットウエーで敗退したあとも、山本を連合艦隊長官から罷免せず、単に海軍内の庇(かば)い合いだけをした。
そしてそのあとの、ガダルカナル戦線以降の南方での負け戦ばかりだ。艦船の搭乗員の大量損耗で敗戦を早めさせ、最後は特攻(とっこう)で優秀な若者たちを数千人も殺した(副島隆彦注記。 主に知覧(ちらん)航空隊から、海軍2500名、鹿屋(かのや)陸軍航空隊から、陸軍1500名、 合計4千人ぐらい)。

戦後、野村吉三郎(のむらきちさぶろう、海軍大将のあと1941年1月から駐米大使。 副島隆彦注記。コーデル・ハル米国務長官と、日米開戦を回避するための外交交渉をした。 野村は、始めからアメリカと内通していた。外務相の来栖三郎が手助けに行ったときには、もう手遅れ。来栖はアメリカと繋がっていない。 ) らは、敗戦後の、朝鮮戦争時、警察予備隊とは違う海上警備隊をアメリカに作らせて貰い(海軍再建 )、米海軍指揮下に入る(そして今日までつづく)。 野村は、宣戦布告をハワイ攻撃から1時間後にハル国務長官に手交しに行った男ですが、これもフリーメーソン系でしょうか?
海軍が負けて今の 安保(アメリカの属国)体制下にある、との評価はどうなんでしょうか。

この様な裏の流れと今まで語れてきた横須賀のことを、リンクさせて話して下さい。
横須賀市の図書館に出向くことは私は厭(いと)いません。また横須賀には人文博物館があり、学芸員もいますが、政治・外交・軍事の点から見た横須賀軍港の歴史という話を私は聞いた事がありません。どのような資料をお探しか、ご指摘下されば教育委員会の学芸員に親しいのがいますので、聞いてみますのでご指定下さい。5月の連休明けに一度横須賀においで頂くのがよろしいかと思います。 一柳 洋


From: 副島隆彦
Sent: Saturday, May 23, 2015 4:02 PM
To: Ichiyanagi Hiroshi
Subject: 横須賀調査の お礼

一柳 洋 さまへ

副島隆彦から

5月19日の 横須賀での私の現地調査と史料集めを 丁寧に企画して下さり、十分の目的を達成いたしましてありがとうございます。 一柳さまの これまでの生き方の 堅実さと実直さも、よく分かりました。あの小さな湾口で、「なぜ市議選に出なかったの。応援していたのに」 と、一柳さんのご出身の浦郷(うらごう)地区の通りすがりの支援者が、声を掛けてきたのが印象的でした。史料を準備してくださった図書館や、博物館の 学芸員たちや司書たちの 、あなたへの畏敬(いけい)を含んだ、折り目正しい対応にも、 よく これまでの活動が見て取れました。 重ねてお礼を申し上げます。

お送りいただきました、 6月7日の 講演会の当日の 広告文(チラシ)の 画像も改めてお送りいただきありがとうございます。 打ち合わせましたとおりに、なんとか、自分の能力の限りで、準備して 行います。

その前に5月31日の、東京で、弟子たちと学問道場の定例会がありますので、その準備でも手間取っています。まだ一週間有りますので、突貫工事で横須賀の軍港150年間の歴史を概観して、特定の人物たちに 光を当てる作業をします。

広告文(チラシ)は、5月28日ぐらいから、学問道場の 今日のぼやき で、宣伝します。 あと10日しかありませんが、関東圏で集まってくださる人が増えることを祈ります。 終日お付き合いくださった、ご友人にもよろしくお伝え下さい。  副島隆彦拝 


副島隆彦さまへ

一柳洋から 

本講演の準備できつい、とのことですが、よろしくお願いします。

横須賀市民は、自分たちの市がまさに植民地であることを何とも思わない風土です。海軍が負けてその年の秋から海軍の技術将校や工廠、航空技術廠(しょう)関係の軍属達の自分の就職先として、米軍への売り込みが始まりました。朝鮮戦争が始まる(1950年6月25日)と、基地従業員を多く雇いまして横須賀海軍ベースは、本市の「一大基幹産業」となります。

帝国海軍に続いて米海軍の軍都・横須賀になりました。昭和27年(1952年)からは、海自(かいじ)が属国海軍としてアメリカ海軍に協力。

ベトナム戦末期には、米海軍の佐世保集約の噂も立ち上がりました。が、安保体制によりアジアにおける拠点である米海軍基地として、74年から空母の母港(ホームポート)化となり、今に至り、5千人の日本人基地従業員がいます。米軍の兵士と家族がベースに2万人暮らしています。

敗戦後、海軍解散となり途方に暮れる中、米海軍(と日本政府)が雇ってくれたので、以降、米海軍様々(さまさま)となりました。かくいう私の父も、昭和26年に、漁師を辞めて米海軍ベースに務め、26年後に無事定年退職しました。

沖縄と違い海兵隊(マリン・コー Marine Corps)がやっていることは、基地警備くらいで目立ちません。海軍の将校・下士官は余り乱暴狼藉を働かないので、余計、米軍への地元市民の抵抗感はありません。たまに兵隊クラスの黒人が人殺しなどの重大犯罪を犯します。

ベトナム戦争時は基地の町なのでベトナム反戦で盛り上がりました。米兵の中にも、特に黒人は、ベトナム反戦運動に好意的、デモにも連帯のサインを送ってきたり、下士官兵クラブ前のチラシ捲きでも、よくビラを取ってくれました。チラシを取り上げようとしたSP(ミリタリー・ポリス、憲兵)に抵抗して検挙された白人水兵もいました。

自民党始め日本の既成政党は、ベトナム戦争時、ベトナムで北爆と南爆をしている通常型空母 の横須賀への入港時(一挙に 3,4隻入るときもありました)にも、何ら抗議をせず、それなのに、アメリカの原潜が入ってくると、大同員かけるので非常に違和感がありました。

さて講演ですが、打ち合わせました通り、第1部はお任せで問題ないと思いますが、第2部は、今まで殆ど本市では真剣に語り合ってこなかった事柄です。忌避し過ぎてきて戦後70年、今は、これらの歴史の事件を理解する人が極めて少数になって論議が成立しません。

幕末(今から162年前、1853年、4年の2回来た)に、「ペリ-に開国してもらった」と言うのが市是(しぜ)で、キャッチ・フレーズが「開国の街」というのですから泣けてきます。また歴代アホ市長達が横須賀の売りとして海軍カレーやネービーバーガー(B級グルメ)などを流行らせています。

ですからポツダム宣言、サ条約とセットである安保条約をよく読んでいる者が極めて少なく、属国の屈辱感を持っている者はさらに少数です。私が所属しました社会党が壊滅させられ、反安保、保守の非米、対米不服従 を公言する者は私の知っている人で市内に数千人くらいでしょう(40万人が市の人口)。 共産党もこの20年、「安保破棄」とは言わなくなりました。私も2期目までは社会党でしたから、分断策に乗せられたのだと反省しています。

私が言いたいのは、海軍首脳は始めから負けるように作戦を立て、陸軍を太平洋に引きずり込んで、南太平洋の島嶼(とうしょ)に配置して敵潜水艦と機動部隊に輸送船団は次々と沈められ、陸軍兵士を餓死と玉砕(ぎょくさい)に追い込みました。海軍も陸戦隊(りくせんたい)や基地の設営部隊は見捨てられました。

真珠湾、ミッドウエーも山本五十六の指揮した作戦は、アメリカを奮い立たせ、虎の子の主力空母をほとんど沈めさせに出撃(発進)させたようなものです。ガダルカナル戦の元となった、米豪(べいごう)遮断作戦の積極策も、石原完爾(いしはらかんじ)が言うように、終末攻勢点(しゅうまつこうせいてん)を遙かに超えており(副島隆彦注記。あまりにも遠隔地まで、陣地を広げすぎて)負けて当然で、戦略なしも良いところでした。

 それよりは、しっかりと島嶼防衛を固めて海戦要務令(かいぐんようむれい)に定めるところの、(防御戦に徹して)漸減邀撃(ざんげんげきげき)をした方が、結局は負けるにしても理にかなっています。い号作戦(この最中に山本五十六は撃墜される)における航空戦も、未帰還機が当然、多数出る状況を真剣に検討した形跡がありません。対空兵器と対潜兵器の決定的な差が海軍敗戦の根本です。

わざと負けて、現在の日米安保体制(にちべいあんぽたいせい、 永続敗戦状態 )にしたのではないか、というのが、私は今でも信じたくはないですが、海軍上層部の親米派がやったことでしょう。

陸軍の頑迷派も、ソビエトに対する対峙線として、押さえるべきは満州国だけで手を打っておけば良かったものを、中支や北支にまで攻め込み、中国(蒋介石)に持久戦に持ち込まれ、英米は援蔣(えんしょう)ルートで、中国支援をして中国と日本の戦争を長引かせた。これは、今の尖閣を巡る構図と全く同じでは無いかと思ってしまいます。

 そう言う意味で「昭和の海軍はなぜ誤ったのか」を先生に指摘して頂ければと思います。特攻を始めたのは海軍であり、マリアナ海戦で連合艦隊は壊滅し、以降近代海軍としては崩壊していた。それなのにその後1年間も戦争を継続した。そのために、同胞200万人以上を殺し、米軍の空襲や原爆投下、満州引き上げ の悲劇等で多くの民間人の命を見捨てた。この責任も誰も取っていませんし、メディアも“海軍反戦トリオ”“海軍3提督”とかの虚構は作るものの、真の敗戦責任を問うた事がありません。

操られてアジア人どうし戦わさせられる愚、を悟るべきと言う、先生の日頃の指摘を結論にして頂ければと存じます。

 それと、戦後の自衛隊の役割について観念論はあります。が、具体に誰から何を守る為にあるのか、とか、今の兵器調達や運用配備について具体な論議が何も無いことに私は疑問を持っていました。が、分かりました。具体に国会でこの議論をやると自衛隊はアメリカの属国軍隊であることがばれてしまうから、だからそれをしないのだと言うことが分かりました。以上感想と希望を申し述べました。  一柳 洋

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

by めい (2015-05-28 07:05) 

めい


《安倍さんは、戦後体制を否定している。その人が、日米同盟をことさら強調するのは、本当はおかしい》
安倍首相の「ネトウヨ(保守もどき)」性の指摘です。安倍首相の影、日本政策研究センター伊藤哲夫所長のダブルスタンダード性に通じます。

http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2014-06-28
南陽市長選立候補予定者公開討論会(附・安倍政権の危うさ)

   *   *   *   *   *

小沢共同代表「日本の武装独立」安倍首相を痛烈批判[日刊スポーツ]
http://www.asyura2.com/15/senkyo185/msg/610.html
投稿者 ニュース侍 日時 2015 年 5 月 27 日 05:51:01: MidD7QyBIEdXI  

小沢共同代表「日本の武装独立」安倍首相を痛烈批判
http://www.nikkansports.com/general/news/1482808.html

「生活の党と山本太郎となかまたち」の小沢一郎共同代表(73)は26日の会見で、安全保障関連法案に関する安倍晋三首相の説明について、「為政者がこういうやり方をすることは、必ず国を誤ると思う」と、痛烈に批判した。

 その上で、「安倍さんが考えるのは、日本の武装独立。ある意味、(石原)慎太郎さんと同じだ」とも主張。「日米同盟を強化する中で、腹の中では日本の軍事の量的、質的な拡大を思い描いているのではないかと、私は考える。これは、米国に従属的になりつつあるということ以上に、危険な思想だと思う」との持論を示した。

 小沢氏は「(衆院本会議で)安倍さんの答弁を聞いても、非常に抽象的な言葉を使い、国民をあざむく様な、やり方を依然として続け、あいまいな言葉の羅列で国民を説得しようとしている。このままの形で日本の今後の行動が位置づけられるのは、けしからんことだ」と指摘。憲法9条1項に関する議論がないことに疑問を示し、「(戦争の放棄をうたった)憲法9条の1項には、国権の発動たる武力の行使は駄目だという内容が書いてある。集団的自衛権も、個別的自衛権もヘチマもない。それを前提にしないと、議論にならない」と述べた。「自民党の憲法草案でも、少なくとも、第1項は変えないということになっている。第1項はどういうことだということを確定しないと、安全保障の議論は始まらないが、その説明もない」と、政府の姿勢を批判した。

 安倍政権が進める日米同盟に関連し「一般論として国民は、(米国に)追従、従属的な傾向を強めていると感じているが、安倍さんの心情的なものは、日米同盟、軍事協力を理由に、日本の軍事力強化を目指していると思う」と述べた。「ポツダム宣言や、サンフランシスコ平和条約を日本が受け入れたことについて、(首相は)肯定的な答えをしていない。安倍さんは、戦後体制を否定している。その人が、日米同盟をことさら強調するのは、本当はおかしい」と指摘した。

[日刊スポーツ 2015/5/26]  

by めい (2015-05-29 04:22) 

めい

↓この通りに思えます。世界の中で日本はどう見られているか、深刻な事態です。

   *   *   *   *   *

集団的自衛権関連法の防衛的側面:米国は日本を犠牲にする、ウクライナをそうしたように © REUTERS/ Thomas Peter
2015年05月28日 21:32
アンドレイ イワノフ
http://jp.sputniknews.com/opinion/20150528/390508.html

日本の議会が、日本が外国で軍事力を使用することを許す法修正を承認した。今後日本にとってどんなに悲惨なことが起こりかねないか、スプートニクの独占インタビューをお届けする。モスクワ国立国際関係大学軍事政治問題センターのアレクセイ・ポドベリョスキン氏は次のように語った。
「日本がここ数年、自らの軍事力を、防衛的なそれから攻撃的なそれへ変身させているということは、全く明らかだ。背景には2つの事がある。まず、根本的なことだが、グローバリゼーションの中、日本人が国益意識に目覚めた。民族としての自己規定が少しずつナショナリズムに変わっていった。ここからミリタリズムまではそう遠くない。そもそも軍国主義の根は日本では伝統的に非常に強い。日本はいま世界観を一新し、イデオロギー的に、また政治的に、生まれ変わろうとしている。その過程で、政治の手段としての軍事力も、根幹から変容しないではいないのである。

第二に、日本の軍事力に関する、米国の意向というものがある。米国には日本の「自衛力」など必要ないのである。むしろ、東アジアにおける主要な同盟国の、主要な攻撃力として日本を利用すること、これが米国の狙いなのである。引いては、米国は世界のあちこちで、米国の軍事的目標を共有してくれる国を、探し、見つけているのだ、と言える。そのような国々が見つかれば、米国は自らの海兵隊を使用しなくてよいのである。東アジアにおいては、日本がその課題を負わされるのである」

―米国は「誰に対して」日本を使うというのか。

「主要な敵対者である。つまりロシアと中国。それだけではない。北朝鮮も米国にとって脅威となるかも知れないし、情勢次第では、東南アジア諸国もそうだ。必ずしも直接的に軍事力を使用することが見込まれているのではないかも知れない。しかし、地域における政治課題達成のために使用可能な軍事力が保持されていること、そういう影響力を持つこと自体が、米国の軍事政策上の切り札になりうるのだ」

―日本で安保法制関連法案が採択されたことで、地域における軍事紛争の発生率が高まる危険はあるか。

「それは不可避だ。それこそが米国の目標なのだ。米国は地域の政治的および軍事的不安定性を増大させたがっている。理由は簡単。20世紀、米国が提唱し、米国の管理のもとで形成された、軍事・政治的システム、金融・経済システムが、今や新たなパワーが台頭し、後景に退いている。システムをどうにか維持するために、米国は是が非でも、ライバルの足元を揺らがせなければならない。ロシアにとっての問題を創り出さなければならない。そこでウクライナだ。中国向けにも何らかの問題が創り出されることは必至である」

―日本は大人しく米国の国益の犠牲になるのだろうか。

「日本人が、自分をむざむざ犠牲にしないだけの賢さを示してくれることを信じたい。しかし米国は自分の目的に外国を利用することにかけては手練れである。もし中国またはロシアとぶつかれば、日本は間違いなく甚大な被害を蒙る。そして米国自身は直接的な軍事衝突から遠いところに残るのだろう。米国がいかにしてウクライナに内戦を引き起こしたか思い出されたい。米国自身はあくまで局外にいて、支援もほんの印ていどにとどめた。わずかなお金で、ロシアにとって甚大な地政学的問題を創り出したのだ。それでいて、米国は、果たしてウクライナの世話を焼いただろうか。否。ウクライナはいま荒廃している。市民1000万人が流亡し、GDPも暴落している。これこそ米国の望んだことなのだ。紛争が続き、ロシアを疲弊させることが、彼らには必要なのだ。この紛争でウクライナがさらなる荒廃をきたすことなど、米国人にはこの上なくどうでもいいことなのだ。日本相手でも、およそ同じような状況を米国人は作ろうとするだろう。もし日中紛争を起こすことが出来たなら、米国としては万々歳なのである。問題はそうした軍事紛争以外にもある。日本の経済的繁栄は軍事費を最小限にとどめていたからこそ達成できたという面がある。いま、多年にわたる不景気に加えて軍事費を増大させるとなると、日本の成長は難しくなる」

ポドベリョースキン氏は以上のように語った。

by めい (2015-05-29 08:18) 

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