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追悼 熊野秀彦先生(7) フネと天の咲手について(下)・信条私記余瀝・ [神道天行居]

お話の端々からその求道の思いが伝わってきたものでしたが、熊野先生は若い頃から剣の道に入られ、生涯に亘って居合の道を極めんとしておられました。熊野先生が到達されていたその高みは私には想像すらできません。先生はいつも話される対象のレベルに下りて語られましたが、霊学に関しても先生の居られた地点は想像を超えたところです。だから、熊野先生がそこに居られる、その御存在自体、それだけでありがたい、そういう方でした。

 

「信条私記」の締めは、先生が到達されていた世界、先生にとっての「ウチツシマ」に在って書かれた文章に思えます。そこにおのずと先師友清歓真先生との感応が生れ、先師御文章の引用になったのだと察します。そして最後は古事記と老子です。高みを拝することができるだけでありがたい、今の私にはそう言えるだけです。

 

まろかれへの万有和合的情緒乃ち「うるわしき、やまとごころ」を以て、もろもろの複雑な事象に対する峻烈単純な他者批判や対立意識の醸成されやすい地上的雰囲気を一掃することが必要なのであります。》このことを自ら体現しておられた熊野先生でした。


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フネと天の咲手について(下)・信条私記余瀝・

九竜屋生


 世に鎮魂帰神と申します。鎮魂が基礎であリ、帰神はその後ことでありましょう。同志の葛藤の多くが鎮魂不足から来る宗教的情緒(うるわしきこころ、やまとごころ)の欠乏の結果であって、ツキ放した様な霊的な鋭さはずっと低い意味の帰神から招来した、一種の感合現象が多いことを反省しなければなりません。それにつけても磐山先生の御高示になった「合掌の心」十一項と「天乃咲手」は、前述の「マホラマ」「ウチツシマ」自覚の、最究竟道であり最短距離を行くものであります。

 「幽真界には幾多のカイトというものがあって—垣内と書く。カイチともカイツともいう—それぞれ組織なり制度なりをもつのである。霊的サークルともいうべきものが正邪高下とも縦横大小無数に存在する(中略)幽真界には高下正邪千態万様で、それに又だ同じ程度のものでもカイト(内垣)の関係で異る認識をもつもので『やそのくまぢ』の消息を十把ひとからげに法則化して眺めることは出来ないものであるが、それを法制化して眺めなければ承知しないように我々は子供のときから教育されているのだから少々どうも勝手が違うのである。」—玄扈雑記

 このカイトの相違が吾々の想像している以上に人間界に居る吾々の霊的人格に影響を与へているのであります。極端な物の言ひ方かも知れませんが、霊的な修行者は申さば往時の剣術修業者にも似た一面をもっているのである。たまたま往来で行きあってもジロリ一瞥の内に相手の全力量を月旦して憚らない。それが又剣の道を学ぶ者の必須態度でもあったのであります。そうした意味から一意専心道を求めて朝夕修法に打込んでいる修行者として、種々のカイトから絶えず合図なき合図を送られている同志としては、特に綿密な配慮を払ってシャープな受信装置を一層正確ならしめると同時に、無駄な雑音はシャットアウトする円熟した叡智が必要となって来るのです。つまりまろかれへの万有和合的情緒乃ち「うるわしき、やまとごころ」を以て、もろもろの複雑な事象に対する峻烈単純な他者批判や対立意識の醸成されやすい地上的雰囲気を一掃することが必要なのであります。そのためには今まで人類が努力して来たパリサイ主義はやめて、清くからこころを離れてうるわしき、やまとごころに帰去来すべきときであります。キリストが出るまでパリサイ人は自分達の宗教生活を、一つ何々をなすべし一つ何々をすべからずと無数の成文律や不文律によって組織化し、それを正しく実行出来る人は区別され、正しい人と、立派な人、宗教的な人格として尊敬したのであります。それが出来ぬ連中や異教徒は心理的にツバでもかけぬばかりに侮辱し、所謂「ウジ虫」的なとりあつかいをしました。パリサイとは、ヘブル原語で「区分する」「別つ」ということであります。これに対してキリストは、宗教とは全く単純なことで父なる神へ幼児のごとき愛と信頼をもって仕えることであるとまろかれ的な真の意味の宗教的強調を行い、遂に彼等の怒りをかったのでありました。

 吾々としては万有和合の立場から、複雑を極めるこの人間界のそうした百千の矛盾対立を、「天の咲手」と「合掌の心」で押し切る必要があるのであります。

 風の音の遠き神代に於ける大事件であって、今に到るまで人類の地上生活に重大な気線となって、極めて強力な影響を与えている天津神と国津神の国ゆずりの際に惹起された種々の霊的葛藤は、最終的には筆端にのぼすも畏きことながら紫府に坐します暘谷神仙王八重事代主大神の「天乃咲手」の御霊徳により解決されるべきであります。今こそ我々は格別の霊的意義をこめて、そのまろかれの御霊徳を奉賛申上げねぱならぬ大機を迎へて居るのであります。

 磐門開きの前提たるヤマトビラキはある面に於いては十字のクルスの成就であります。小は吾々同士の信条におけるタテヨコの大自覚の成就であります。乃ちマスミノムスビに観徹し幽顕無畏の青霄に平歩することであります。大は実に天地合体でありアチメの世界開闢であります。天行林に「二の上の一は天にして下の一は地也。火と水と也、陽と陰と也。一(ミ)とI(チ)と也、即ち十(ミチ)也」とあるそれであります。

 国ゆずり以来の霊的開合であります。天神地祇の至大至重の感合現象であります。アメノヲむすびとクニノメむすぴの成就なのであります。乃ちまろかれの成就に外ならぬのであります。茲でまことに唐突でありますが、先師の「方舟と神山」の一節を掲げで拙稿を終わりたいと存じます。

 「宗教的な方面に居られる人人には又た方舟の構造に格別の工夫と熱意があるべきこと当然であります。個人個人で方舟をつくられることも結構で、石城山には霊的な方舟の材料が無尽蔵にある筈であります。フネという言葉について、谷川翁はハネ(羽)と通ずといって居ります。続記には船を速鳥といい、文選には三翼ともいって居ります。フもネも賞めていうので太根(フネ)であろうと説く学者もおります。家も至宝だから屋船といい伝え、御霊代をのせるものを船代とも伝へて居ります。フネは本来は幽顕出入のものです。ともかく霊的なハコブネをつくることは、自分だけ救はれればいいというエゴな考へからでなく、すべてのものを救はんとする悲願によるものですが—中略—この世から、あの世へ行くのもフネです。どういう意味でかの、どういう構造でかのフネです。フネをつくる方法は、いろいろありましょうが、ただ一つの条件が欠けては狸のドロ船になります。そのただ一つの条件とは、日本流にいえば「まこと」ということであります。—中略—イハフネ(磐船)という古語は石棺を意味する場合がありイシキ(石棺)とよぱれることもありますが霊の乗りものとしての第二義的な言葉のかたちです。根本的には斎み清められた神聖なところ、善悪邪正未分の「まろかれ」(混沌)のものをいうので、大きく斎場そのものもそれであり、「いわくら」とか「いわき』とかよばれるのであります。太古に於いて東海神仙島が其の意味でタブーされたこともあり、其の中でも特に一定の地域がそういう聖所ともなり、「神なび山」ともなったので、九州では女山(ゾヤマ)のごとき、本州では石城山がそれでありました。しかし斯うしたところは太古には世界的に存在したので「神なび」という言葉は「神がくれ」または「神ごもり」というような意味がありました。それでASYLUMの思想とも合流したものです。此処へ来たものは「捕へることの出来ないもの」または「冒すことの得ない場所」となり—中略—このアサイラムの思想は我が国中世以降に於いてもいろいろのかたちで出没したもので「縁切り寺」などいうものがあり善悪邪正とも現世の縁を切ったタブーせられたところで、そこヘ逃げ込めば敵も手をつけない・・・・・」

 吾々誰もが持っている「冒すことの出来得ない場所」乃ち「神なび」こそ「マホラマ」であり「ウチツシマ」であり「ハコフネ」であります。いざ金剛合掌により天乃咲手もちて各々己が「ウチツシマ」に「神ごもり」致そうではありませんか。そこに本当のうるわしき安らぎの世界が在ります。


 古事記に謂う

恐之。此国者。立奉天神之御子。即蹈傾其船而。天逆手哉。於青紫垣打成而隠也。


 之を視れども見えず、名ずけて夷と日ふ。

 之を聴けども聞えず、名ずけて希と日ふ。

 之を搏ふれども得ず、名ずけて微と日ふ。

 此の三の者は、到結すべからず。

 故に混じて而して一と為る。

      老子視之不見章 第十四


天乃咲手のコピー.jpg

「友清歓真全集」第4巻の「磐門胡餅」、「天乃咲手(あまのさかて)」について書かれた部分です。(クリック拡大)


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老子 第14章 視之不見~直観で捉えたタオは言葉で説明できない
(http://ryuseizan.tsuvasa.com/)

 感覚によっては捉えることのできない、瞑想中に浮かぶ道(タオ)の姿。把捉するべからざるもの、軽重もなく、名づけようもなく、所在も分からぬものであるが、万有を支配する力のあるもの。初めなき終わりなきもの。

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※参考文献:白文/書下文/訳
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視之不見。名曰夷。
聽之不聞。名曰希。
摶之不得。名曰微。
此三者。不可致詰。故混而爲一。
其上不皦。其下不昧。
繩繩不可名。復歸於無物。
是謂無状之状。無物之象。是謂惚恍。
迎之不見其首。隨之不見其後。
執古之道。以御今之有。
能知古始。是謂道紀。
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之を視れども見えず、名づけて夷と曰う。
之を聴けども聞こえず、名づけて希と曰う。
之を搏てども得ず、名づけて微と曰う。
此の三者は致詰す可からず。故に混じて一と為す。
其の上は皦かならず、其の下は昧からず。
縄縄として名づく可からず、無物に復帰す。
是れを無状の状、無象の象と謂う。是れを忽恍と謂う。
之を迎えて其の首を見ず、之れに随いて其の後を見ず。
古の道を執りて以て今の有を御む。
能く古始を知る、是れを道紀と謂う。
※皦=機種依存文字
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目をすえて見ても何も見えないから、「夷」―色が無いという。
耳を澄まして聴いても何も聞えないから、「希」―声が無いという。
手で打ってみても何も手ごたえがないから、「微」―形が無いという。
だが、この三つの言葉では、まだその正体が既定しつくされない。
だから、この三つの言葉を混ぜあわせて一つにした存在なのだ。
その上部は明らかでなく、その下部は暗くない。
だだっぴろくて名づけようがなく、
物の世界を超えたところに立ち返っている。
これを状(かたち)なき状、物の次元を超えた象(もの)というのだ。
これを「惚恍」―ぼんやりとして定かならぬものというのだ。
前から見ても、その顔が見えるわけでなく、後から見ても、
その尻が見えるわけではない。
太古からの真理を握りしめて、今も眼前の万象を主宰している。
歴史と時間の始原を知ることのできるもの、
それを道の本質とよぶのだ。
※朝日選書:老子(福永光司)より引用
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[老子:第十四章賛玄]
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