SSブログ

追悼 熊野秀彦先生(4) 「信条私記(中)」 [神道天行居]

ふと「神学」と「霊学」の二つはどうちがうのかと思って、「神学と霊学」で検索したら、最初に出たのが神道霊学 (神道天行居) - Wikipediaだった。見てみると「・・・について」といった概念的記述であり、実在からは程遠い。それにしても天行居についてここまでウィキペディアで取り上げられていることに驚いた。


「神学と霊学」を思ったのは、「友清神学」と「熊野霊学」という言葉が思い浮かんだからだった。友清先生の軸足が神界に在るのに対して、熊野先生の軸足はあくまで人間界に在っての神界展望である。友清先生の「神性」に対して、熊野先生の「霊性」と言ってもいい。ともあれ、「信条私記(中)」には「熊野霊学」の精髄が詰まっている。読むほどに深い。


   *   *   *   *   *


信条私記(中)

九龍屋生


 信条の後半に於て一つの重要なポイントとなる条項は、第九条でありませう。

 第九条 私どもの修養努力の心得かたは要するに神習ふことであります、神習ふとは神の心を心とし神の行ひを行ひとすることであります、神の心とは清明心であり愛慈の心であり神の行ひとは修理固成弥栄であります、すなはち天行(かむながら)の道の実行であります

 これは吾々の心得をいみじくも「神習ふ」といふ言葉で要約されたもので、神界をかくりよと申し現界をうつしよといふ言霊にかよふものであります。

 この信条に明示されし如く神的なものの性格乃ち神の心は、清明心であり愛慈の心であります、又その行為は修理固成弥栄であります。吾々の修養努力の目標はこれを地上にウツス、神習ふことに尽きるのであります。それには具体的方法がある筈であり、それが十一条より十九条に至る九箇条として直示されてゐるのであります。

 第九条に示された神の心を人の世に移す(写す)とき、信条第廿四条つねに新鮮、清浄、慈愛、光明の心の中に呼吸すること正月元日の如きを欲しまする、一年間に三百六十五の元日を創作することが我が天行の道を行く同志一統の弥栄(いやさか)の大芸術でありまする)の大芸術が完成されるのであります。

 カクリヨの神の心の清明心・愛慈心は、地上に新鮮、清浄、慈愛、光明の心を照耀致すのであります。併しながらその極致である「一心清明」は、不断の存続はまことに容易でないのであります、その故を以て第廿七条神典の天照大御神様と須佐之男神様とのウケヒの章に明記してありますところの「一心清明」は私どもの修養の極致でありまして、そこには一切の名義あることなく善悪もなく正邪もなく清明も亦た無き清明でありまするが、併し此の清明心(アカキココロ)を不断相続することは容易なことではありませぬ、ですから只ただ敬神利生を第一と致すのでありまする、これ平凡なる方便の如くにして実は宇宙の神秘、断じて此外に出でない真理の躬行でありまする)のお教への如く神の行為である修理固成弥栄を神習って只々敬神利生を第一と致すのであります。

 則ち、第九条—第十一条より第九条—第廿四条と廿七条といふ神ながらの関係がなりたってゐるのであります。

 少くとも中世以来、人類はこの平凡なる神秘を知ることを得ず、実に夥しい精神的浪費を敢てして来たのであります。

 宗教的意識の発生以来、人類は宗教の名のもとに、或ひは道徳の美名にかくれて恰も古酒によへる老翁の如く、たんなる気分的なもので自からを欺むいて来たと申しても過言ではありますまい。それは芸術を生み、思想をはぐくみ種々の学問的根源ともなり、遂には国家意識の形成にも一役かつて来たのであります。併しながらそれは落日の残映の如き宗教的雰囲気であって、真実の宗教、つまり神々と直接し何んの議論もなく神の本質を鏡として、吾等人類に与へられたカガミにうつす(神ならふ)といふ平凡簡易の中に宇宙の玄理を秘めた霊的生活は、早く人類の視界から遠ざかって仕舞ってゐたのであります。人類は神の心や行ひ(神界とその意志)に直接する能力を失って、人間的・風土的・歴史的なものによるユガミを通して水中からものをみる様な果(はか)無い視力で神の心や行ひ(神界とその意志)をみて来ました。そして発生し起滅を続け今もって出頭没頭してゐるのが所謂「宗教」なのであります。

 これ等の宗教の人為性は極めて悲劇的な結論を人類に与へて来ました。たとへば「清明心」を霊的に体認する力を失った人類は、そこはかとなき「良心」で満足しなければなりませんでした。善悪の判断もその時代その立場によって変化を続け、その時代々々の道学者や歴史家達はまことに苦しい立場に立たされるに到りました。宗教戦争といふ奇妙な戦争が世界史のいたるところで散見されるに到ったのであります。

 人類は完全にその歩むべきミチを忘却し、その時々にカメレオンの如く変貌する「良心」を神と誤認し、正義の名に於て複雑な相貌の「悪」を奉行する結果となったのであります。人類の善悪の判断の昏冥は極めて重要な課題であり、磐山先生もこのことについては種々の角度から論して居られるのであります。

 『正邪といふものの由って来る処を詮索する上から道を問ふなら、それは生成化育が神随の大道であると説くのが至当であり便利であると信ずる。然り惟神(かむながら)の道なるものは生成化育である。一本の草を見ても、一疋の虫を見ても、それが大根本の御神慮であることは、人為の書巻によらずして自から明らかである。

 故に此の生成化育の道に叶ふものが正であり然らざるものが邪である。されば此の神道霊学の上より云ふ時には正邪の岐るるは其れが生々化育の道に叶ふや否やに依てであるから、今此処に邪神界(妖魅部)と指してもそれに属するものが必ず世に所謂悪いことばかりするものとは限らないのである。』と申されてあり又『時間空間の移動に動くことなき正邪の標準は何であるかと云ふと、それは道に叶ふを正と謂ひ道に叶はざるを邪と謂ふのである。』と決論して居られるのであります。この場合ミチといふことが問題であるが、左に掲ぐる霊学笙蹄に示された一文が数行の文章に「道」を道破して余蘊なしと拝するのであります。乃ち、『道は言葉(心止開)である。また体霊(ミチ)、右左(ミチ)、陰陽(みち)、—|(みち)であって即ち十(ミチ)である。又は道の首はハジメであり、は即ち之で死に通じ終と通ずる、故に道は始終であり又た無始無終至大無外至小無内である。顕幽一致、神人一如である。天理地儀人道三才一串の根本法則である。』

熊野霊学 天行道の究極.jpg

 別紙神人関係図は前述の信条第九条及び第十一条より十九条の神習ふ具体化へのみちと、その結着語としての第廿四条廿七条との関係図でありますが、これは直ちに磐山先生の申される『道』図説とも解されて宜しいかと存じます。信条は大は天下国家の大道を示し、小は斉家修身の千古不磨の『真実道』を無言の裡に直示してゐるものであります。今や人類は自からのよって来るところの「道」を忘失し歩み行くべき「道」を(霊的な実在を)見失ってゐるのであります。これらの破局的地球世界に何を与ふべきか、申さずして明らかでありませう。神界の実相を知らしめ、神の意志(大神業)を確認せしめて弥栄の「道」を与へねばならないのであります。その証しとして今は風の音も遠い昭和二年秋深きころ、日本国の西郊に石城山が出現したのであります。

 その折磐山先生に石城山上に於て公的御啓示ありし山上の天啓の中に、「みちをわすれてみちをふめ」とありますが、この「みち」こそ前述の大道であります。又観点を変へればこの「みち」は直ちにこれ「ますみのむすび」であり「みちをわすれ」ると申すは、「ますみのひすび」に貫徹せよとの御神慮とも拝せらるるのであります。

 

熊野霊学 天行道図アワセカガミ.jpg

「道」図説に表現されし如く一枚の紙を二つに折る如きアハセカガミの幽顕一如を実感する(神界の実相に徹する)ことがますみのむすびに徹するゆゑんでありませう。

 山規七則の最後の一則は『吾等ハ「ますみのむすび」ニ観徹シ幽顕無畏青霄二平歩センコトヲ期ス』とあります。

 これは単なる抽象語では無くあくまで実感のこもった吾々の誰もが実現できる信念であります。

 「ますみのむすび」は単なる感念でもなければ、個人的な悟りの境地でもないのであります。「神界の実相を知る」といふ極めて叡智的な理性的な洞察的事実であると共に、普辺的事実であります。上り列車に乗れば明朝早く東京駅に着く事実を何んの不思議もなく、老若男女を問はず熟知して疑はざる如く、すべての地上人がその各々の風土の所縁を通じて神々を知り、大神界の実相を知るに到るべきであります。この「知る」といふ事実こそ「ますみのむすび」の観徹を意味し、幽顕無畏の平歩を約束するものであり、そのソケットは石城山に在るのであります。

 多年石城山で提唱される「ますみのむすび」は、扇の要の様なキーポイントであります、その故を以てしてもむつかしい一箇半箇を打出す様な禅の公案めいたものではないことが、明瞭でありませう。今一度友清先生の申される『神界の実相を知ることが第一ですね』といふ御言葉を考へて頂きたい。この場合御使ひになった知るといふ言葉に深甚の意味を感ぜざるを得ません。

 地上に生を享けた人類である限り、みなひとしく何の矛盾もなくこれを『知る』に到る日が近づいて居り、極めて近き将来石城山がそのオートトランスとなる事実には、敢て只今は触れますまい。併し一般論として地上人類は何人も平等に神界の実相を知る権利があり、地上何人と雖も「マスミノムスビ」の大神理に直結してゐないものはないのであります。

 そのためにこそ先づ吾が石城山に集ひたる勝縁の人々の「マスミノムスビ」貫徹が切に要求されるのであります。乃ちたくみなき心を以て神界の実相に直面することが要請されてゐるのであります。

山規七則.jpg

 山規七則は吾が天行居の教憲でありますが、その前二則後二則は『吾等は・・・・を期す』とあります。これは吾々同志の決意を表明し中央の三則は『人類は云々』とありまして、これはやがて全人類に及ぼす事実であることを中外に表明してあるのであります。つまり同志の所期が全人類に方射型に影響する実相を道破してあるのであります。扨て別紙の神人関係図は前述の如くミチの図説でもあり、直ちにこれ『マスミノムスビ』の形象とも申せませう。

 一枚の紙を顕幽二枚に折るアワセカガミの神理は、万事に共通したつがねの道であり、その間にオートトランスの必要性を暗示してゐます。説明の便宜上作製した一片の私製関係図を研究せよと申すのではありません。みちをわすれてみちをふむことが「それこそそれ」への道であります。

 古道神髄に『宇宙の真理は、ナニモカモカムナガラ、マスミノムスビ、ドウスルコトモイラヌのです』とありますが、ナニモカモカムナガラドウスルコトモイラヌの中央に、マスミノムスビのあることが字眼であります。

 同じく古道神髄の中で『末法時代となっては仏道では駄目ですかねえ』といふ質問に応へて『昔の高僧でも真面目に神国の正因正果を信じ、稍や神界の実相について知識のある人は安心の要所が別であります。「のちの世もこの世も神にまかするや愚かなる身のたのみなるらむ」(法印源深・新拾遺集)といふやうな歌でも静かに数十回念誦してごらんなさい、語句は平凡でも霊験のある歌です』とあり神界の実相を些かでも知り、神国の正因正果を信ずるといふことが直ちにナニモカモカムナガラマスミノムスビドウスルコトモイラヌに直通してゐることを説いてゐられるので『知る』といふことが如何なる意味を持つか、今一度深思して頂きたいのであります。早く申せばますみのむすびは、神界があるから何もかも安心だいといふことと解しても宜しいのではありますまいか、ただその神界があるから・・・が問題でそれぞれの所縁によって信念の度合ひにともなふ厚薄の差別もあるに違ひなく、それでこそ観行の薫習が必要となってくるのでありませう。  (「中」終)


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。