SSブログ

追悼 熊野秀彦先生(3) 「信条私記(上)」 [神道天行居]

熊野先生に公刊された著作はない。ただ熊野先生が修斎会等での講義で用いられた資料(A4判100頁)、「神啓録」「信条私記」を一冊にした和綴B5判63頁、『古道』に書かれた文章を有志がコピーして熊野先生から「序に代えて」と「あとがき」をいただいてまとめた『石城山古神道探求の秘鍵 真十日神身(マスカガミ)』(A3判107頁)、その他、私が以前紹介したことのある、先生がその都度おそらく自動筆記のようにして書かれたと思われる御文章の数々、いずれもまだまだ何度も読みたい、読まねばならない宝の山が私の手元にはある。3年前、先生に最後にお会いしたとき、それらをこの場で公開させていただくことのご諒解を得た。ところがそれからなかなか先に進まずにいまを迎えてしまった。されるだけ今しておかねば、と気が急く。先生は先ずもってどこから読んで欲しいと思っておられるか。そして『信条私記』(上中下)に行き当たった。何よりも自分がじっくり読んでみたい、それが選択の基準なのだが。

 

今読んだからまっこと「腑に落ちた」のが冒頭の僧行賀のエピソードだった。

 

《何かに「ついて」語ろうとするとき人は、貧しい概念の周辺をうろついているだけかもしれない。しかし、何か「を」生きるとき人は、実在にふれている。》若松英輔「『概念』を突破し、再び『実在』へ」 中島岳志×若松英輔『現代の超克』ミシマ社 26


「それこそそれ」、まさにこのことなのではないか。熊野先生も同じことを思い、言っておられた、このことがほんとうにうれしかった。


   *   *   *   *   *


信条私記()

九龍屋生


 さりともとたのむ心は神さびてひさしくなりぬ加茂のみづ垣

                      千載集・式子内親王


 僧行賀が第十回の遣唐使の一団に加はって、留学僧として入唐したのは二十二才の時でありました。在唐三十一年を経て延暦二年、五十五才で帰国し、翌三年七月、東大寺に於て唯識法華両宗の宗義を講じました。

 彼が在唐三十一年間に、大唐の高僧達に直接師事し、寸暇を惜しんで刻苦精励した法華唯識の神髄を学ばんと、数百の有名無名の学僧道俗が大講堂に参集しました。併し、驚くべきことには、試問役の東大寺学僧明一の質問に、何を訊かれても満足な答へが出来なかったのであります。

 矢つぎ早やな明一の質問に今は一言半句の解義もなく、行賀は黙然と涙するのみだったと伝へられてゐます。

 行賀はその後、興福寺の一室に閉ぢこもり、人と会はず、法華経弘賛略の筆を執り、唯識議四十余巻を著して居ります。

 試問僧明一のそれは、頭でっかちの学僧の所謂仏教哲学であり、行賀の唯識法華は在唐三十一年間にものした、本ものの言葉にならぬ「それこそそれ」であったのであります。

 「それこそそれ」。これこそ無辺在のまことにつながる、言語道断の実在であります。芭蕉翁には奥の細道であり、世阿弥の「せぬ所」であり、「花」なのでありませう。

 例会や同志の集会で、石城山の教義はむつかしい、天行居を簡単に外部の人々へお伝へすることが、甚だ困難だといふ意味の言葉を耳に致します。実際私共が天行居を語るとき、あまりにも偉大にして真実に溢るる「それこそそれ」を如何にお話してよいのか、石城山的法悦にひたってゐる吾々としては、唯唯歎異奉賛に尽きる心境で、客観的な説明がむつかしいのであります。勿論それがあたりまへの現象でありまして、物事を全身的に知る、つまり身に体し、これを事に措いて悟るといふ認識態度こそ、木当の宗教的な学人の修行方法なので、法律家が法律に詳しく、生物学者が生態の研究にぬきんでてゐることとは凡そ訳が違ふのでありませう。

 併しながら限り無きものは、限りあるものによって表現されます。宇宙意識としての無辺在の大神のみあれとして、個性のある一柱一柱の神々が坐しますと共に、吾が石城山神学の広大も、実に二十七箇条の信条によって人界に示現されて居るのであります。

 磐山先生が嘗つて宮市で申されたお言葉に、石城山の同志諸君は、実に立派なアイデアを持ってゐるが、どうもデザインが下手のやうです云云とありました。戦前戦後を通じて石城山のアイデアは全く不易ですが、デザインの方は如何でせうか。行賀の涙も面白いけれど、少々バタ臭い執念が気になりますがパウロあたりの雄弁と情熱も、グットデザインとして採用出来ないものでせうか。私は最近になって漸くこのアイデア問答の意味が判って来たやうな気持です。私事を語ってまことにをこがましいが、私は「それこそそれ」を追求するのあまり「信条」が極めて身近かにあって「それこそそれ」を極く平易に、秩庁正しく温かい神々のみことばとして、吾々の前に提示されてゐることを、見落してゐたのでした。

山規七則.jpg

 神通天行居憲範第五条に「山規七則を以て天行居の教憲とし二十七箇条の信条を以て天行居の教義とす。」とあります。

 「教義」といふ言葉を新村先生の広辞苑でみますと、「宗教の信仰内容が真理として公認され、信仰上の教として言い表わされたもの。」とありますから、教憲は教義を基礎とした一宗の宗是であり、教義は更らにこれを詳説したものと申して宜しいかと存じます。教憲は理想であり目的であり、申さば抽象でありますが、教義は具体性を持つ現実であり、実践内容(信条ではこれを心得として示されてゐる)を持った手段でなくてはなりません。私は今、或る決心を以て、吾が石城山の教義である信条について、愚見を申しのべんとして居ります。身のほども知らぬ行為や言説も、この決心キヨキココロに免じて御海容下さるやう、先づ磐山先生の御高許を得て筆を執った次第であります。この小論を披見せられる同志に於かれても、この一私論を是とさるれば大いに霊的御協力を仰ぎたく、非とさるれば黙殺されて宜しいのであります。併しながら、私の本当の気持は「石城山の宗教」は難かし過ぎて布教が困難だ、どうも判りにくくて困るからもっと平易な解説を希望するといふ風な声を、今後は聞きたくないのであります。

 信条がむつかしいかどうか。今一度読み直して頂きたい。どこか田舎の老農が咄々として語って呉れる物語めいた平易さ、親しみやすさ、懐かしさを持った信条。これがすなはち吾が石城山の宗教の教義に外ならないのであります。

 扨て信条第一条を拝誦致しますと次の事実が明瞭となります。

 第一条 私どもは天行の道(惟神道)を研究、神典に所謂清明心の表現を念願とし修養し努力せんとするものであります

 第一条は、鎮魂と帰神を神ながらの修行手段とし、清明も又なき清明の人間道徳の最高である明徳を明かにするといふ極めて根本的な「私ども」の態度を中外に宣明したものであります。この第一条の「天行」といふ言葉を深切に敷衍した言葉が

 第二十条 天行とは、神の道に随ひて自から神の道あることを謂ふ。すなはち「まこと」「清明」「いつくしみ」の弥栄であります、これ即ち日月の道であります

 であり更らに、第一条の「研究」態度を解説したのが第ニニ条であります。

 第二二条 わたくしどもの研究は此れを一と口に要約して申しますれば、真の古神道(霊的見地よりせる体験の神ながらの道)を研究することで、何も新発明の新思想を製造せんとするものではないので、つまり新しい履をはいて古の道を踏まんとするものに外ならぬのであります

 要するに、この第二二条と第二十条とによって、第一条の完璧な「私ども」の念願努力の目標が示されたのであります。

 次いで第二条より七条までは、信条中の信条であり、恐れながら「根本信条」六箇条として天行居教義の神髄と拝して居る次第であります。第二条より第六条までの各条の末尾の言葉は、「敬信致しまする」と結んであり、又第七条は、「確信致しまする」とある事実を注目して頂きたいと存じます。この六箇条こそ実に、天行居の根本信条なのであります。

 この六箇条は天地に遍満した活事実を示し、その霊的事実のもとに流動する人界の生活意識が、直ちに「神ながらの道」であり日本人の宗教生活であります。つまり吾々日本人の宗教観に先行する霊的事実として、この根本信条が実在して居り、石城山は実にこの霊的事実の現世に於ける神々の「證し」として、太古以来用意され今日に於て出現したものであります。その詳細は次の経緯の「大自覚」の交叉によってより一層明確にされてゐるのであります。

 乃ちその「根本信条」は次の第八条の大自覚につながるものであります。

 吾々の教義である信条の中で「大自覚」といふ言葉が使用されてあります。前者は第八条のそれでありまして

 第八条 わたくしども同胞は何れも固より宇宙意識の表現であり即ち天神地紙の血統であります。故に悠久無限の先祖を崇め親み、悠久無限の子孫を愛み育くむべき大自覚を忘れてはなりませぬ

 といふ大自覚であります。

 上は悠久無限の宇宙意識の最高表現であられる天照大御神、豐受姫大神、大国主大神、産須那大神、先祖の人神達、下は同じ宇宙意識につながる子孫であり、一貫した「経(タテ)の大自覚」なのであります。乃ち直霊を中心として上に対しては、崇め親む奇霊和霊的自覚、下には愛み育くむ子孫への幸霊的な自覚に外ならないのであります。

 大自覚の後者は、第二三条の、次の如き大自覚であります。

 第二三条 私どもは天照大御神様の神勅を奉体して顧幽両界を通じて神人相ともに力を協せての大神業を成就せねばならぬ大自覚のもとに億兆一心以て精進を致さねぱならぬのでありまする、この大神業の遂行に障碍を及ぼす一切のものを撃破するには荒魂の発動を必要といたしまする、仁とか愛とかの名義に枯死的解釈を与へて其の枯死的名義に囚はれるが如き卑弱な思想は焼鎌の利鎌もて打ち払ひ、公私大小とも「悪」と戦ふに勇敢なる戦士とならねばなりませぬ、建国時代の父祖の気象の如く雄大壮快な気象を涵養せねばなりませぬぞ

 これは申すまでもなく、天照大御神の御神勅の奉体であり、大神業成就への荒霊的大自覚であり、緯(ヨコ)の大自覚なのであります。

熊野霊学 タテヨコ図.jpg

 左の如く作図してみますと十字にクルスした直霊の自覚は経緯(タテヨコ)の大自覚であります。乃ち経の自覚は静的であり宗教的であり幸霊的であります。対照的に緯の自覚は動的で荒霊的であって、直ちに霊的事実につながるものであります。乃ち御神助に直接した霊的な神業(具体的性格)を意味してゐるのであります。

 「霊の世界観」といふ磐山先生の御著述は、この荒魂的な大神業の御発動について、つぶさにその具体性を年月の経過と共に、詳述されたものでありました。この荒霊の強調、神人呼応した霊的事実の具体性の追求が、他の宗教団体と極めて大きな距離のあるところであります。

 戦後、萬教帰一といふスローガンが掲げられたことがあります。これは静的な愛の世界、目も鼻もないやうな宗教的世界、(霊界にもかうした世界がありますが)では面白い事でありまそし、観念的には成就しさうな話であります。

 併し実際には「ますみのむすび」の霊の世界観の—三千世界ですから、宗教的には許されても霊的なむすびの世界では、そのやうな不条理は出来さうもない相談でありました。

 事実、世界宗教なぞは今後霊的世界の大変革(岩戸開き)の無い限り夢のやうな話なのであります。

 経(タテ)の幸魂的世界の「愛」を強調するのあまり、宗教的な法悦を欣求して目も鼻もないやうな理神的「愛」の世界に、ひたすら観念的な理想像をゑがいたり、又は人霊の開発により理念の世界へ、哲学的な法界を建立したりした「不調和宗教」、(私は敢て経緯の不調和の宗教をかう呼びたい)と、吾が石城山の宗教とは本質的な格差が存在するのであります。

 石城山の開山と同様に伊勢神宮の御祭祀の元々本々は、宗教的な事実ではなくて、霊的な事実であることを直視して頂きたいのであります。宗教の本質は、その風土天来の霊的宗教でなくてはならず、そのためには「風土の神々」の御性格の顕現と、風土との深いむすびなくして決して存続を期しがたい事実を再考して頂きたいのであります。前述の不調和宗教は必ずと申してよいほど、その風土を離れ他国に於て原形をとどめぬまでに変貌してゐるではありませんか。

 ともあれ吾々はより正確な「霊の世界観」にめざめることが刻下の急務でありませう。そのためには毎度申上げる如く「神界の実相を知ることが第一ですね」と申された、磐山先生の御言葉を含味されることであります。つまり信条を中心とした観点よりすれば、すべての判断はより確実な世界(霊的世界)の現実に立脚すべきものなのであります。

 このことについて友清先生は石門漫録に於て「天行居によって明らかにせられつつある神界の実相を目標とする大信仰の下に、世界の諸宗教は各々地方的民族的に存在の意義があるものと思ふ。われわれは諸々の宗教に対して反感をもつやうなケチな考へは毛頭無い。けれども正しい神界の実相が次第に明瞭になるにつれて、諸宗教は多少毛色が変って来るか、或ひは自然的に解消するものもあるかも知れぬ。」と申して居られます。これは単なる我田引水の論ではなく神霊界の活事実を目睹されての微言であります。

 神ながら道と云ひ、ますみのむすびといふも、現実、世にも真なる正神界ありてこそ、そのうつし世としての娑婆世界に遣された、まことに幽玄なる神言と云ふべきでありませう。

 扨て、日夜私は前記の信条図を拝しながら人体の不思議に想到せざるを得ないのであります。いなだきから脊髄の自作神経叢は経の大自覚、両腕両肢の運動神経叢は「業(ワザ)」につながる具体性を有する緯の大自覚。神法道術の殆んどがクシユビなす秘印により、この両神経叢への回帰循環を経て行はれ、この経と緯の調和によってその成就を遂げる事実をみるとき、日のたて日のよこ、たすきがけ、ますみのむすびの神秘に想ひ到って神ながらの神髄に直接ふれる心持が致すではありませんか。

 古人は思ふことと行ふことの一致を説き、考へることと観ることの同時性を目標として幽顕にわたる修養努力を重ねました。

 石城山学人にとって今や、ますみのむすびに観徹し、幽顕無畏の青霄に平歩せんとすることは決して夢ではないのであります。

 正しき神法道術を受け、正神界結縁の上なき霊地として石城山を与へられ、人天の神秘を説いて余蘊なき信条一巻を手にして、大神界如実の実相に直面して立つもの、今や恐るる何物もないではありませんか。    (上終)


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。