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置賜は「我国ノ高明ノ気、是ニ於テカ窮マル」の地 [置賜自給圏構想]

このブログの縁で、置賜自給圏推進機構会員Yさんの訪問を受けた。現在は白鷹町在住だが、その前は日航乗務員として世界中を駆け回られたという。退職後ふるさとに戻って12年、悠々自適とお見受けした。その方から、安達峰一郎(明治21869- 昭和91934が山形県中学師範学校予備科4級、15歳の時に書いた「斎藤馬陵先生米沢二帰ルヲ送ルノ序」という文章をいただいた。以下、紹介文を含めた全文。

 

   *   *   *   *   *


齋藤篤信関係文書(山形県教育資料館所蔵)


安達峰一郎から齋藤篤信へ  明治17310

 明治15年9月、峰一郎が官費生として山形県中学師範学予備科に入学した。しかし、この予備課は同17年6月に廃校となるが、その前の3月にそれまでお世話になった師範学校の斎藤篤信(馬陵)先生が校長を辞め、米沢に帰られるのを惜しんで学生らが漢文で送辞を書いた。ここでは、峰一郎が書いた漢文の読み下し文のみを掲載する。なお、文中の「藻江」は最上川のことである。


斎藤馬陵先生米沢二帰ルヲ送ルノ序


我が皇国ハ山水明美、其ノ巍然トシテ高キ者、汪然トシテ深キ者ハ百ヲ以テ数フ。其ノ東北ニ於テ高キ者ハ月山ヲ宗トシ、深キ者ハ藻江ヲ主トス。而シテ中洲ヨリ甚ダ遠シ。已ニ遠クシテ高ク其ノ神、安ンゾ霊ヲ得ザラン哉。月山ノ南十数里、地愈々高ク、山益々峻シ。水明カニシテ益々駛シ。其ノ峻ニシテ南方ニ聳絶スル者、吾妻ノ山、大日ノ嶺。北方ニ横えん(土偏に延)スル者ハ朝日ノ岳、蔵王ノ峯、其ノ汪トシテ北方ニ駛流スル者ハ最上ノ川。南方ニ奔馳スル者ハ羽黒ノ川。是レ米沢地方ヲ為ス也。我国ノ高明ノ気、是ニ於テカ窮マル。気ノ窮マル所ニシテ、其ノ山水ヲ発セザル。必ズ欝積シテ秀聳ス。蜿蜒トシテ磅礴。月山ノ高キ、藻江ノ深キ、已ニ霊ニシテ米沢ノ洲ヲ為ス。又我国ノ高明ノ気ニ当タリ、蜿蜒ニシテ磅礴、欝積シテ秀聳スル山水ノ所産、霊気ノ所感、金銀銅砂ノ属、千尋ノ良材、繭絲ノ包、豈ニ独リ之ニ当ルヲ得ン哉。意フニ必ズ忠信魁奇材徳有ルノ人ハ其ノ間ニ生マルル也。我ガ斎藤馬陵先生ノ如キハ、殆ンド其ノ人カ。先生ハ出羽ノ人。器度磊落、風采ハ雅潤藹然。其ノ容ハ淳然。其ノ言ハ能ク人ヲ動カス。面シテ最モ文書ヲ工ミニシ、遒美秀逸、一世ヲ推倒ス。米沢侯ニ事へ、戊辰ノ役ニ軍務参謀ト為ル。後ニ教部省ニ官トナル。師範学校ト為ルニ及ビ、生徒ヲ教授スル懇々切、学政大イニ革マル。今ニ至ルヤ年老イタルヲ以テ先生ヲ辞職シテ帰ル。嗚呼盛ンナル哉。予知ル、峻ナル者ハ益峻、明ナル者ハ益明ナリ。嫣然荅(土偏)、笑ヲ以テ先生ヲ迎フル也。是ニ於テカ、之ニ先ンジ、巧ナル所益巧、能ナル所益々能ナリ。他日文柄〔学問上の権力〕ヲ中原ニ執チ、以テ山水ノ欝積スル所ヲ舒トスル者ハ先生ニ非ズシテ誰カ。予其ノ時ニ於テ嘉果如何ナル哉。予ヤ先生ノ恩ヲ蒙シテ久シ。別レニ臨ミ寧ンゾ一言無ガル可ケンヤ。即チ之ヲ記シ、謹ンデ先生ノ行ヲ送ル。

  明治甲中十七年春三月十日

     中学四級生 安達峰一郎再拝具

 

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Yさんが称揚されたのは置賜についての記述。

 

《而(しこう)シテ中洲(村山地方)ヨリ甚ダ遠シ。已ニ遠クシテ高ク其ノ神、安(いずく)ンゾ霊ヲ得ザラン哉。月山ノ南十数里、地愈々(いよいよ)高ク、山益々峻(けわ)シ。水明カニシテ益々駛(はや)シ。其ノ峻ニシテ南方ニ聳絶(しょうぜつ)スル者、吾妻ノ山、大日ノ嶺。北方ニ横えん(土偏に延/広く横たわる)スル者ハ朝日ノ岳、蔵王ノ峯、其ノ汪(おう/満々と)トシテ北方ニ駛流(しりゅう)スル者ハ最上ノ川。南方ニ奔馳(ほんち)スル者ハ羽黒ノ川。是レ米沢地方ヲ為ス也。我国ノ高明ノ気、是ニ於テカ窮マル。気ノ窮マル所ニシテ、其ノ山水ヲ発セザル。必ズ欝積(うっせき)シテ秀聳(しゅうしょう)ス。蜿蜒(えんえん)トシテ磅礴(ほうはく/広大であること)。月山ノ高キ、藻江ノ深キ、已ニ霊ニシテ米沢ノ洲ヲ為ス。又我国ノ高明ノ気ニ当タリ、蜿蜒ニシテ磅礴、欝積シテ秀聳スル山水ノ所産、霊気ノ所感、金銀銅砂ノ属、千尋ノ良材、繭絲(けんし)ノ包、豈(あ)ニ独リ之ニ当ルヲ得ン哉。意(おも)フニ必ズ忠信魁奇(かいき)材徳有ルノ人ハ其ノ間ニ生マルル也。》

 

とりわけこの中、《我国ノ高明ノ気、是ニ於テカ窮マル》。まさに「置賜は世界の中心となる!」にふさわしいと。世界中を見てきた方の言葉だけに重い。うれしくなった。

 

「南陽の菊まつり」百年 齊藤善四郎.jpg

実は齋藤篤信についてはニつ思い起こすことがある。ひとつは、雲井龍雄(小島守善)21歳の公務、屋代郷警備の直属上司が篤信であり、篤信の理解と支援があっての江戸派遣であったこと。もうひとつは、宮内に菊花を持ちこんだ百花園齊藤善四郎肖像画の賛を書いていること。その篤信が教え子にかくまで慕われていたことを知ったのも、また実にうれしいことだった。さらに、安達峰一郎と雲井龍雄とがつながるとは!安達峰一郎顕彰気運のきっかけをつくったのは、われわれ「新しい歴史教科書をつくる会山形県支部」のメンバーだった。平成12年か13年の頃だった。沢渡和郎県議が音頭をとって山辺町で講演会を開催した。講師は岡田幹彦先生だったと思う。チラシは私がつくった。どこかにあるはず。あれからもう15年近くも経っている。感慨深い。

百花園善四郎 齋藤篤信賛PICT1258.jpg
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