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安西正鷹『お金の秘密』を読む(5)お金の魔性(前) [30年後]

ジャン・ジャック・ルソーの引用があった。


《「魂が十分に堅固な地盤を見いだして、完全にそこに安住し、そこに自分の全存在を集めて、過去を呼び起こす必要もなく、未来に一足飛びする必要もないような状態、時間が魂にとって何の意味もなく、いつまでも現在が続き、しかもその持続を示さず、継起のあともなく、不足や享受の、快楽や苦痛の、欲望や恐れの感情もなく、ただわれわれの存在という感情だけがあって、その感情だけが魂の全体を満たすことができる、そういった状態があるとすれば、その状態が続く限りは、そこにある人は幸福な人といえる。」》233-234p


『モモ』の「時間の源」での体験に通じ、また、まさに「マスミノムスビ」の世界である。そういえば、あれからもう半世紀も過ぎるのだが、ちょうど大学受験をひかえた中で、なぜかルソーの『告白』をぞくぞくしながら読みふけったことがあるのを思い起こした。この文章は『孤独な散歩者の夢想』の中のものだが、ここでルソーに出会ったことでうれしくもなり、あの頃がたまらなく懐かしくもなった。もっともルソーにのめり込んだのはあの時だけだった。『エミール』は読んで間もなく挫折の記憶がある。(安西氏が拠ったのは真木悠介著『時間の比較社会学』だ。そこにルソーのこの文章が引用されるのだが、『時間の比較社会学』でその前に引用された部分も見逃せない。《夕方になると、わたし(ルソー)は島の頂を下りて、好んで瑚のほとりの砂浜のどこか隠れた休み場所に行ってすわるのだった。そこでは、波の音と水の動きとがわたしの感覚を固定させ、わたしの魂から他のいっさいの動揺を追いはらって、甘美な夢想に引き入れ、しばしば夜がやってくるのも気がつかないのたった。寄せては返すこの水は……たえずわたしの耳と目にふれて、夢想が消していく内面の運動にかわり、苦労して考えないでも、喜びとともにわたしの存在を感じさせてくれるには充分であった。》これは神道天行居が説く「音霊法」そのままではないか。音霊法の目指すところは「マスミノムスビ」の体感である。ルソーも同じ世界に在った。あらためて古神道の普遍性を思う。)


この引用のあと、「自然からの疎外」を前提に存立するユダヤ・キリスト教文明を批判しつつ断言する。

《ルソーが最古の時間意識に包まれた世界を桃源郷として理想化したことは、自ら招いた疎外感で恐怖におののくユダヤ・キリスト教文明が、太古の時間意識への回帰に救いを求めざるを得ないことを暗示している。・・・/いまや滅亡への道をひた走り、自分だけでなく全世界をも道連れにしようとする病的な文明圏を救えるのは「中今」の叡智を宿すわが日本文明を措いてほかにない。》234-235p

 

それにしても現代人は、《社会生活全般が普遍的に時計に支配される》ようになっている。《「生活の時計化」は最初に工場と官庁で始まった。続いて学校で、最後に放送、とりわけテレビヘとその領域を拡大して、密度も濃くなっていった。・・・学校で義務教育を受ける幼少期から少年期にかけては、時計的に編成され管理された生活秩序への習慣づけと強化か施され、組織に生きる「社会人のマナー」が徹底的に叩き込まれる。就学や就労もしていない主婦や老人もテレビの網に取り込まれ、逃げ場はない。》《結局、あらゆる人々が自らの生理的・本能的な欲求に根ざす固有の時間を奪われ、画一化された直線的な時間意識へと閉じ込められるのだ。》236p)さらに実際問題として、《客体化された時間は過去へも未来へも伸び、時間給、賃借料、信用、利子、減価償却費、保険の掛金などの「時間比例制の価値に基づいた商業的構造」を作りあげ、われわれの生活の枠組みを形成している。これにより、進学準備、資格取得、昇進、住宅ローン、預金、年金、生命保険といった、生活的な切実性を持った未来が現在を規定することになる。》こうして絶えず未来に追われている。《その結果、数々のドラマに満ちあふれて生き生きとした現在への関心を希薄化させ、現在からの疎外を増幅させる。つまり、「中今」的な生き方からの遊離か拡大し、人生が貧しく単調なものとして現実化してしまうのである。》さらに《資本主義社会では、永続的な利潤の拡大を実現する者が勝者となる。その称賛を得たいがために、借金(有利子負債)を抱えてでもより多くの資本を動員し、それを効率よく運用して競争に勝とうとする。大量生産・大量消費が需要と供給を必要以上に膨らませ、借金を奨励して増大する資金需要に対処させる。》要するに《資本主義と金融資本か融合した強毒性の経済システムは人々に[時間の脅迫」を押しつけ、「時は金なり」の格言に象徴される利子蓄積の圧力を絶えず与え続ける。/かくて現代社会に生きる者は誰もか、時間の奴隷と化している。》236-237p

 

お金についても同じように言える。 

お金は《「表情のない無味乾燥な生き物」という表現が相応しい。それは異なる共同体をつなぐだけでなく、共同体内をも風化させ一元化させた、血の通わない直線的な時間に酷似している。》お金によって《独自の個性を持つ各々の生産物が、その再生産に必要な労働時間という抽象化・物質化・一元化された時間の尺度へと還元されていく》《商品価値の決定に人間の意思は介入しない。お金は自らの意思で行動する生き物のように、人間の支配と統制から離れて独立した客観的なメカニズムとして振舞う。お金は諸商品の交換比率としての貨幣価格と、質的な具体性には関心のない労働時間を量的な比例関係で結びつけて、これを自動的に顕現させてしまうのである。》まさに「時は金なり」、その行き着くところ、《睡眠、仕事、食事、育児、雑談、両親の世話、ペットの世話、買い物、友人とのつきあい、デート、思索にふけるひととき……。/お金を生まないこうした行為はすべて、浪費された無駄な時間として断罪される。》(238−239p)


《お金は一般化された等価形態に変質するや否や、人間の関心と欲望を無限化する魔物と化した。》

そのプロセスは明解だ。

《お金が魔物に変化していくプロセスは、異なる二つの商品を各々、「G」と「G’」、お金をIM」とすれば、次のようになる。

 お金か出現する以前の原始的な商品交換[GーG’]においては、例えば魚の代わりに米を手に入れるように、具体的で有限な生活欲求の充足が目的となる。

 強欲な者が宝石や贅沢品などに対する欲望を際限もなく膨らませることはある。だが、お金に対する欲求とは異なり、欲望の対象が抽象的に無限化することはない。

 お金か現われ商品交換[GーG’]の間に割りこんでも、それか単なる交換手段として機能している限りにおいては[GーMーG’]であり、ことの本質は変わらない。

 ところが、お金の追求か自己目的化し、商品の購入?販売か逆にそのための手段へ倒錯すると、[MーGーM’]となって状況は一変する。

 [GーMーG’]における初項と終項は、「価値量は等しいか有用性の質が異なる」二つの商品である。商品Gが価値量の等しいお金Mを介在させることで商品G’となって装いを新たにする。

 一方、これとはまったく対照的な[MーGーM]における初項と終項は、「有用性の質は等しいが価値量か異なる」二つのお金である。お金Mが質の変化をともなわずに価値量が増大したのかお金M’なのである。

 つまり商品G’の獲得を目的とする交換の関心はその「質」にあるが、貨幣M’の増大を目的とする交換の関心はその[量」にある。

 そして関心が賀的な具体性を捨象された量へと向けられる限り、欲望は完結して充足しうる構造を失う。

 [MーGーM’]は資本の定式そのものである。資本の本質はまさに、このように際限なき欲望の無間地獄へと引きずり込むブラックホールなのだ。

 資本はこの価値増殖運動の方程式[MーGーM’]において、媒介となる商品Gの質に対して本質的に無関心である。商品とその価値を生み出す労働力の固有性・絶対性といった質は軽視され、利潤を最大限に生み出す商品と労働力の無機的な組み合わせこそが優先すべき課題とされる。》そして結局、《有機的な相互連関を一切無視するこの短絡的な発想が経済を破綻させ、社会秩序を崩壊させ、さらには生態系を破壊する道へと人々を駆り立てている。》《われわれは自らの生活の場を構成している事物、すなわち自然や他者との交流を通じて生きる各々の時間の中に、かけがえのない固有の絶対性を感受する能力を失った。/そのとき、われわれのお金に対する関心は、抽象的に無限化された時間への関心と同じく、その固有の価値にではなく空虚な交換価値に向けられる。これによってわれわれの人生もまた、欲望のように完結して充足しうる構造を失い、虚無の深淵へと沈み込むこととなったのである。》239-241p


そこに、一方ではひたすら肥大化する「空疎な自我」が見えてくる。それに対置されるのが「無私であることにおいて、個は究極的に輝く」世界であり、「マスミノムスビ」感覚であり、「何でもタダでできる世の中」なんだなあらためて思ったことでした。

(つづく)


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